法華三部経の要点 ◇◇101
立正佼成会会長 庭野日敬
七難を逃れるとは
観世音菩薩の慈悲と智慧
普門品の初めのほうに、観世音菩薩を念ずれば火難・水難・風難・剣難・鬼難・獄難・賊難の七難から逃れることができると説かれています。観世音菩薩は透徹した慈悲と智慧の持ち主であることを前提とし、そして前回に説いた「われわれも観世音菩薩になろう」という念願に即して、この七難から逃れるということを現実に生活のうえで考えてみましょう。
火というのは煩悩の火です。人間だれしも煩悩を持っています。それがほどほどのものであるうちはいいのですが、怒りとか怨(うら)みとか妬(ねた)みとかの炎となって燃え上がると、自分自身を苦しめるばかりでなく、他人をも傷つけ、社会をも混乱させます。ですから、煩悩の火が燃え上がろうとしたときは、観世音菩薩の真観・清浄観・広大智慧観を思い出せばよいのです。そうすれば、身を焼く火難から逃れられるばかりでなく、「煩悩即菩提」の教えのとおり、煩悩によって悟りを得ることもできるのです。
次の水難ですが、人間の心は誘惑に対して、弱いもので、うっかりすると金銭に溺(おぼ)れ、酒に溺れ、異性に溺れ、名誉欲に溺れ、権勢欲に溺れ、虚栄心に溺れます。そういった誘惑にかかりそうだと気づいたとき、観世音菩薩の名号を唱えれば、心は正しい道(中道)へ立ちかえり、その難から逃れることができるわけです。
第三の風難ですが、人生の航海は順風のときばかりとはかぎりません。いつ、どこで、逆風や暴風に見舞われるかわかりません。そんな時、しっかりした心のよりどころを持たない人はただもう慌てふためいたり、失意のどん底に陥ったりします。ところが、久遠実成の仏さまのお使いである観世音菩薩の広大な慈悲と智慧を思い出せば、その逆風がかえって人生の試練であることに気づき、勇気をもってそれを乗り切ることができるでしょう。
心を切られても傷つかない
第四の剣難ですが、身体に受ける難はどんな聖者でも受けるときは受けるのです。お釈迦さまも提婆達多の投げおろした岩石が足に当たっておびただしく血を流されたことがあります。イエス・キリストも十字架にかかって殺されました。マハトマ・ガンジーも一ヒンズー教徒にピストルで撃たれて亡くなりました。
提婆達多によって傷を負わされたとき、お釈迦さまは仕返しをしようとする弟子たちを制止して静かに名医耆婆(ぎば)の手当てを受けられました。イエス・キリストも、最後の瞬間には「神よ、み心のままに」と言い、従容として死につきました。ガンジー翁は、担架で運ばれるとき、もう口もきけなくなっていましたが、両手で静かに施無畏(観世音菩薩の徳の一つ。次回に説明)の印を結んでおられたのです。
ですから、身体的な難を逃れられるかどうかは、人間の本質的な価値から見れば問題ではないのです。問題は、心を切られて傷つくかどうかということです。他の人の憎悪に切られ、侮辱に切られ、いわれなき非難に切られ、怨みに傷つき、怒りに傷つき、挫折に傷つくかということです。そのようなとき、観世音菩薩の広大な慈悲と智慧を思い起こせば、そのような精神的暴力を超越してしまうことができるわけです。
立正佼成会会長 庭野日敬
七難を逃れるとは
観世音菩薩の慈悲と智慧
普門品の初めのほうに、観世音菩薩を念ずれば火難・水難・風難・剣難・鬼難・獄難・賊難の七難から逃れることができると説かれています。観世音菩薩は透徹した慈悲と智慧の持ち主であることを前提とし、そして前回に説いた「われわれも観世音菩薩になろう」という念願に即して、この七難から逃れるということを現実に生活のうえで考えてみましょう。
火というのは煩悩の火です。人間だれしも煩悩を持っています。それがほどほどのものであるうちはいいのですが、怒りとか怨(うら)みとか妬(ねた)みとかの炎となって燃え上がると、自分自身を苦しめるばかりでなく、他人をも傷つけ、社会をも混乱させます。ですから、煩悩の火が燃え上がろうとしたときは、観世音菩薩の真観・清浄観・広大智慧観を思い出せばよいのです。そうすれば、身を焼く火難から逃れられるばかりでなく、「煩悩即菩提」の教えのとおり、煩悩によって悟りを得ることもできるのです。
次の水難ですが、人間の心は誘惑に対して、弱いもので、うっかりすると金銭に溺(おぼ)れ、酒に溺れ、異性に溺れ、名誉欲に溺れ、権勢欲に溺れ、虚栄心に溺れます。そういった誘惑にかかりそうだと気づいたとき、観世音菩薩の名号を唱えれば、心は正しい道(中道)へ立ちかえり、その難から逃れることができるわけです。
第三の風難ですが、人生の航海は順風のときばかりとはかぎりません。いつ、どこで、逆風や暴風に見舞われるかわかりません。そんな時、しっかりした心のよりどころを持たない人はただもう慌てふためいたり、失意のどん底に陥ったりします。ところが、久遠実成の仏さまのお使いである観世音菩薩の広大な慈悲と智慧を思い出せば、その逆風がかえって人生の試練であることに気づき、勇気をもってそれを乗り切ることができるでしょう。
心を切られても傷つかない
第四の剣難ですが、身体に受ける難はどんな聖者でも受けるときは受けるのです。お釈迦さまも提婆達多の投げおろした岩石が足に当たっておびただしく血を流されたことがあります。イエス・キリストも十字架にかかって殺されました。マハトマ・ガンジーも一ヒンズー教徒にピストルで撃たれて亡くなりました。
提婆達多によって傷を負わされたとき、お釈迦さまは仕返しをしようとする弟子たちを制止して静かに名医耆婆(ぎば)の手当てを受けられました。イエス・キリストも、最後の瞬間には「神よ、み心のままに」と言い、従容として死につきました。ガンジー翁は、担架で運ばれるとき、もう口もきけなくなっていましたが、両手で静かに施無畏(観世音菩薩の徳の一つ。次回に説明)の印を結んでおられたのです。
ですから、身体的な難を逃れられるかどうかは、人間の本質的な価値から見れば問題ではないのです。問題は、心を切られて傷つくかどうかということです。他の人の憎悪に切られ、侮辱に切られ、いわれなき非難に切られ、怨みに傷つき、怒りに傷つき、挫折に傷つくかということです。そのようなとき、観世音菩薩の広大な慈悲と智慧を思い起こせば、そのような精神的暴力を超越してしまうことができるわけです。