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法華三部経の要点 ◇◇112
立正佼成会会長 庭野日敬

実相を思念することが最高の懺悔

肉体へのとらわれから離れる

 これまでに、懺悔の第一段階と第二段階について説明してきました。ところが、このお経を読み進んでいきますと、そうした常識的な懺悔を超えた、深遠な、しかもきわめて直截的(ちょくせつてき)な行法が説かれているのです。
 それはずっと後のほうにある次の偈です。
 「一切の業障海は 皆妄想より生ず 若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え 衆罪は霜露の如し 慧日能く消除す」
 現代語に意訳しますと、こういうことです。「人間のすべての行為の過ちも、それから生ずる心身のさまざまな障害も、ありもしないことをあると思う誤った考えから生ずるのである。だから、ほんとうに懺悔しようと思うならば、静かにすわって、すべてのものごとの実相を深く思念することである。そうすれば、もろもろの罪というものは、朝日の前の霜や露のようにたちまち消えてしまうのである」というのです。
 では、その「すべてのものごとの実相」を深く思念するためにはどうすればいいのでしょうか。それには「自分の本質である仏性は宇宙の大生命ともいうべき久遠の本仏さまと同質なのである。そういう仏性をもつ自分は宇宙の大いなるいのちと同質の存在なのである」ということを確信することです。
 そして、そういう尊い存在なのに、「自分がこのような罪を犯したのは、ありもしないものをあるとして妄想し、そういうものに執着していたからなのだ」と悟る。これこそが最高の懺悔だというのです。

真の懺悔とは積極的なもの

 お釈迦さまは、この世に存在する生きとし生けるものは、お互いに関係し合って存在しており、不要なもの、無用なものは何ひとつない。だから、人間どうしはもちろんのこと、動物とも植物とも、ひいては全環境とも仲良く大調和して生きていかねばならない、と教えられました。
 そのことと、この最高の懺悔のあり方を考え合わせますと、この世の現実が大調和しないのは一人一人が、ありもしないものをあると考えてそれに執着し、妄想によってものごとを見、考え、行動するからである。したがって、ほんとうに幸せな理想社会をつくろうとするならば、すべてのものごとの実相を正しくとらえて、自分中心ではなく大調和めざして、その時その場所に一番ふさわしい行動を積極的にとっていくことであるとも、この一偈で教えられていると、わたしは思います。
 また、このお経の初めのほうで、阿難・摩訶迦葉・弥勒の三大弟子がお釈迦さまに「どうすれば、煩悩を断ぜず五欲を離れずに心身を清め、諸罪を滅除することができましょうか」と質問しています。その質問に対するお答えとしてこのお経が説かれたわけですが、その最終的結論が「端坐して実相を思え」という一句であると考えていいでしょう。
 いずれにしても、懺悔といえば、いかにも消極的なイメージを感じがちですが、そうではなく、自分の存在というものに対するほんとうの自信と、人生に対する大きな勇気を奮い起こす、明るく積極的なものであると知るべきでしょう。


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