経典のことば(43)
立正佼成会会長 庭野日敬
汝もし念ずることあたわずば、まさに無量寿仏と称すべし
(仏説観無量寿経)
どんな人でも救われる
観無量寿経には、仏・菩薩や浄土を観想し憶念する功徳と、経題や仏・菩薩の名を聞く功徳と、仏号を称(とな)える功徳とが述べられています。
観想というのは、仏・菩薩や浄土があたかも眼前にあるかのように思い浮かべることです。憶念というのは、深く思いこみ、いつでも、そしていつまでも忘れないことを言います。聞く功徳というのは、仏・菩薩の説法の声をまざまざと聞くことで、一種の天啓をいうのです。
こういうことは、よほど前世によい業を積んだ人か、現世においても修行に修行を重ねた、いわゆる上根上機の人でないと可能なことではありません。ましてや、生計のための仕事に追われ、また合理思想のみに執らわれている現代人にとっては、まことに至難のわざと言うべきでしょう。
しかし、どんな人でも、ただ無量寿仏の名を称えさえすれば極楽往生ができる……というのが、このことばの意味です。
無量寿仏とは、このお経の中では阿弥陀如来を指しておられますが、その名からもハッキリ読み取れるように、もともとは法華経の寿量品に説かれる久遠実成の本仏と同一体なのです。ですから、われわれ法華経の信奉者にとっては、「汝もし念ずることあたわずば、まさに南無久遠実成の本仏と称すべし」と受け取っても、少しも差しつかえありません。
ことばには霊力がある
さて、名を称えさえすればいいのだ……というのは、たいへん安易な教えのようですけれども、決してそうではありません。称えること、呼びかけることは、実に重大なことなのです。というのは、ことばには霊力があるからです。
日本の神道でも言霊(ことだま)ということを重んじます。キリスト教でも、「はじめにことばあり、ことばは神と共にあり、ことばは神なりき」(ヨハネ伝一・一)と言っています。
法華経の中にも、普門品には「声を発して南無観世音菩薩と言わん。其の名を称するが故に即ち解脱することを得ん」をはじめ、その名を称えれば救われるということが繰り返し繰り返し説かれています。
標記のことばにいちばん近いのは、方便品の「若し人散乱の心に 塔廟の中に入って 一たび南無仏と称せし 皆巳に仏道を成じき」という一句です。散乱の心でもいいというのです。カラ念仏でもいいというのです。とにかく称えることだというのです。というのは、たとえ散乱の心で称えたのでも、カラ念仏でも、称えたこと自体が発心の種子になるからです。あるいは発芽になるからです。これがことばの持つ霊力です。「はじめにことばあり、ことばは神なりき」なのです。
もちろん、われわれ信仰者は、教義を学び、仏を信じ、法に帰依し、僧伽を重んじ、教えの通り行じていかねばなりません。そうすることによって、われわれが称える「南無妙法蓮華経」の霊力はますます増大し、諸仏・諸菩薩・諸天善神と感応道交(かんのうどうきょう)するようになるのです。
しかし、それにしても、日常の仕事に追われて心が散乱し、仏さまを念ずることを忘れているとき、フト思い出しては無心に「南無妙法蓮華経」と称えること、それがどんなに大事であるか……標記のことばは、そういった意味でまことに有り難い教えだと思います。
題字と絵 難波淳郎