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経典のことば(45)
立正佼成会会長 庭野日敬

一にはその意を制す。二にはもろもろの悪事の心中に入るを許さず。三には心中に悪事あらば即ち之を出して諸善を求む。四には心中に善あらば制持して放たざるなり。
(那先比丘経 巻上)

自己制御の忘失で破滅へ

 お釈迦さまは自己制御ということを繰り返し繰り返し説かれました。法句経一〇三にも「千度戦場に出て千度敵に勝つよりも、ひとり己れに勝つものが最上の勇者である」と説かれ、スッタニパータ二一六にも「自己を制して悪をなさず、若きにおいても中年においても、聖者は自己を制す」とおっしゃっておられます。
 最近の世相をつくづく眺めてみますと、この自己制御ということがまったく忘れられ、その害が地球上の至るところに噴き出していることに大きな危惧と恐怖を覚えざるをえません。いちばん恐ろしいのは「人を傷つけ殺すこと」に対する抑制が急速に失われつつあることです。
 世界各地に頻発する爆弾テロ、それも不特定多数の市民を殺傷してはばからないのですから、背筋が寒くなります。
 大人の世界がそうなら、子供たちも自己制御の教えやしつけを家庭や学校が怠っているせいでしょうか、最近いじめ行為が非常に悪質化し、また、公園に寝ていた気の毒な老人を殴り殺すという前代未聞の不祥事まで起こしています。
 こういった傾向がしだいに一般化し、エスカレートしていくとすれば、人類は今後どんな道をたどるのであろうかと、胸が痛くなる思いがします。

心を操作する四つの道

 こうした不幸な結果を防ぎ止める道は、やはりわれわれ個人個人が日常の生き方において、欲望をほどほどに制御することから始めるほかはないと思われます。ひとりひとりのそうした心がけが、積もり積もって社会的なひろがりを持つようになるからです。
 那先比丘(第13回参照)がミリンダ王の問いに答えたこの四個条はお釈迦さまの自己制御の教えを敷衍(ふえん)したものでしょうが、まことに要を尽くしていると思われます。
 「一にはその意を制す」。どこまでも突っ走ろうとするわがまま心を、自らほどほどに抑制しなさい――ということです。
 「二にはもろもろの悪事の心中に入るを許さず」。とりわけ情報過多時代の今日、よくよく心しなければならない大事です。
 新聞・週刊誌・テレビなどを通じて、さまざまな悪が毎日いやおうなしに耳目に入ってきます。人間の心はとかく外部の動きに引きずられやすいもので、いわゆる「流行」がそうした心理によって生まれることはご承知のとおりです。
 とくに自己を確立していない人ほど外部の情報や流行に無抵抗で、近頃のいじめ行為の続発も、一つには情報が作った一種の流行心理によるものとも見られているのです。
 仏教にはさまざまな意義と目的がありますけれども、その最も基本的な眼目は、「真理にもとづいてしっかりした自己を確立する」というところにあることを、このへんでもう一度見直してみたいものです。
 「三には心中に悪事あらば即ち之を出して……」。これはとりもなおさず「懺悔」ということです。懺悔よりほかに心中の悪を追い出す方法はありません。
 「四には心中に善あらば制持して放たざるなり」。梵語ではこれをダーラニー(陀羅尼)といい、漢訳して「能持」といいます。積極的に人間性を向上させる大道です。
 自己制御をこのように分析・解明したのは那先比丘の大きな功績です。とくに二十世紀末のわれわれは、今日的な喫緊(きっきん)事としてこの四個条をよくよく噛みしめてみるべきでありましょう。
題字と絵 難波淳郎

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