さて諸法無我についてお話をいたしましたが、ここで出てくるのは仏教のいま一つの大事な教えである「縁起」ということであります。縁起とは、一切のものは縁によって起こるということであります。現在私が着用しているこの衣服も、日々の糧である食糧も、自分以外の人びとの勤労の結果を縁として、この心もあらゆる出合い、すなわち体験と知識を縁として形成されております。そして人間はあらゆる縁の中で生かされているわけであります。人間社会はあたかも網の目のようなものであって、自分という一つの網の目は、他の網の目によって保たれ、また自分という一つの網の目は、他の網の目にとって、なくてはならぬ縁となっているのであります。
ところが今日の人びとは、物と金という目に見える物質的なものだけにとらわれすぎております。私たちはこの縁起の世界、目に見えない世界というものに目を向けなければなりません。
いまや、他の天体のことまでわかっている人間ではありますが、自分自身の存在がなにによって支えられているかを知らぬのは、まさに悲劇であります。
世界に例をとって見ましても、日本はもとより、ソ連でさえもアメリカから大量の食糧を輸入しなければならない時代に、絶対のもの、究極のものに近づく手段にしかすぎないイデオロギーのために対立するということは、実に愚かなことであります。長い歴史の流れからすれば、イデオロギーは、その時代時代の衣裳にしかすぎないといっている人があります。しかし、人間は衣裳だけでは幸せにはなれませんし、生きてゆくことさえできません。特に近代におけるイデオロギーのほとんどが、対立闘争の中で、自分の存在を確立していくという考え方が強いように思われます。
自己の利益のみを中心にして主張し、その拡大を図る―そうした考え方にとどまる限り、憎しみと争いから脱却することはできません。事実、人類の歴史は争いの繰り返しでありました。個人と個人のエゴの相克・偏狭なナショナリズムの衝突・帝国主義・労使間の争い、すべてが、自分がなにによって生かされ存在しているかを忘れた近視眼的・独善的な発想に由来するのであります。
いま私は、諸行無常・諸法無我・縁起について、簡単に触れてまいりましたが、人間の増加・資源の問題などを考えますと、人類生存のためには、まだいくつかの紛争があるにせよ、ナショナリズムから地域主義に、そして地球主義から世界共同体への建設に向かわざるを得ないと思うのであります。そして地球という一つの船に乗った人類家族という考え方が芽生えつつある今日、人間の心の平安と幸福・世界の平和を至上目的とする宗教が、宗教用語や儀式様式の差こそあれ、互いに反目していてよいはずがありません。