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...法華経の華開く日本 一 仏教はインドに発生し、支那で華が咲き、そして、その実を結んだのは日本であると言われています。 お釈迦さまは、後五の五百歳、つまり末法濁悪世の時にこの法門が弘まると、時間的に二千五百年先のことを、きちっと予言されたのであります。そして事実、後五の五百歳にあたる現代、発祥地のインドには、仏教らしい仏教はほとんど遺っておりません。百年ほど前に、ダルマ・パーラというかたがおでましになって、熱心に仏教復活に尽力され、ようやく仏教が持たれている状態です。そのおかげで今の大菩提会の基礎がつくられ、釈尊初転法輪の地、サルナートには、七百人ぐらい収容する仏教の教育機関があって、そこには熱心な仏教徒が、何人かはおられます。それが、インドにおけるただ一つの仏教徒としてのあり方と言えるもので、あとは、仏蹟参拝をいたしましても、ほとんど、仏教国らしいという様子は見ることができない状態です。 また、中国においてもしかりで、かつては、仏教の華を咲かせた時代がありましたけれども、その教えは、一般庶民に深く浸透することなくして、現代に至ったのであります。したがって、現在、世界中の人から、〈大乗仏教の国〉と呼ばれる日本で、仏さまの教えが、その実を結んでいると言われますことは、あながち間違いではありません。いや、それどころか私は「仏種は縁に従って起こる」という仏教を、仏さまのご本意のごとく、万人にお伝えし、世界平和を招来する使命は、まさに、日本の私ども仏教徒にある、と信じているのであります。 (昭和41年02月【佼成】) 法華経の華開く日本 二 日蓮聖人は「この日の本にきた月支国の仏教は、やがてまたインドに帰っていく」と言われておりますが、ほんとうの仏教、ほんとうの法華経、ほんとうのお釈迦さまの教えを守っていくための道ということを考えますと、なるほどそうあるべきでしょう。大聖人がそうおっしゃったのも、月というものは日(太陽)より輝きが弱い、それだけに、日の本の国で華開いた仏法こそ、ほんとうに三千大千世界を照らすものであるということなのであります。 (昭和37年05月【速記録】) 日本民族は、だれもがほとんど平等に、すみずみにいたるまで教育が行き届いていて、上下の差がありません。そういう優秀な民族だから、大乗仏教国として、仏教の教えが生き続けているのです。したがって、須梨耶蘇摩という高僧が鳩摩羅什の頂をなでで「此の経典は東北に縁あり」と言われて、法華経を授けられましたように、インドでお釈迦さまが平等大慧の法門をお説きになったけれども、インドから中国を経て東北方に位置する日本に伝えられ、今、現在ほんとうの仏教が、大乗仏教の神髄が生きているのは、この日本であるということなのであります。 (昭和36年09月【速記録】) 法華経の華開く日本 三 日本には大昔から神道というものがあって、固有の形を伝えております。けれども、その理論をすべての人にもわかるようにはっきりと表現する言葉がなかったために、ただ魂だけを伝えてきたにすぎないのです。そこへ仏教が入ってきて、適切な言葉をもって理論的にピシッと体系づけられたのです。(中略) つまり、日本人に大乗仏教を育てる素質がなかったなら、日本に大乗仏教は育たなかっただろうというのです。インドに始まった仏教が、中国を経て日本にきて、初めて、大乗仏教の本質が生かされたということは、日本人そのものが平和な思想の持ち主であり、大乗仏教を育てる下地を備えていたというわけです。仏教が伝来する前から、すでに日本文化が仏教文化を育てるものを持っていたということです。ただそれまでは、表現する言葉と理論を持っていなかっただけのことです。同じ種子であっても畑が違えば育ち方も違うというのと同じだと思います。(中略) よいものを育てるだけの下地のあるとこへ、たまたまよいものがきたからたちまちそれが育った、これが日本に仏教の華が開いた大きな要因ではないでしょうか。 (昭和38年08月【佼成】) 法華経の華開く日本 四 今日の日本の社会状態は、現代が、世界的に動揺を続ける時代とは言え、その様相をながめますとき、内外に向かって「大乗仏教国日本」と称するには、いささか心はばかる思いがなきにしもあらずでございます。 国家の利益と、国民の福祉を司る議会および議員のあり方は、有権者はもとより、幼い小・中学生までをも、これでも「民主政治と言えるのだろうか」と慨嘆させるほど、常識を欠いております。また年々増加する交通事故や多種さまざまな青少年問題、社会悪など、目にあまる憂うべき問題も続出しております。(中略) 現代の人達は、すぐれた文化の恩恵に浴し、知識は非常に啓蒙されてまいりました。そして大衆に向かって、たいそう修養的な、道徳的に立派な言葉を教えるかたもたくさんおられます。また、近ごろでは「戦後二十年、物質は豊かになってきたが、精神面が喪失している」と嘆くかたもたくさんいます。けれども、それでは一体どうすればよいのか、と言うことになりますと、問題点が、いたずらに責任の転嫁であったり、方法論の空まわりになったりしており、しかも、各人がそのことに気づかないたに、解決の緒は、まるで掴めないという状態になっていると思われるのであります。 しかし、仏さまはいみじくも、二千五百年後の今日を、はっきり予言しておられます。そして、このような末法濁悪世の時代に生まれ合わせる者の因縁を説き明かし、これを、どう考えなくてはならないか、また、私ども自体が、どうあるべきかを教えておられるのです。ですから私どもは、この現代の責任を、だれかに持っていって、人に任せておくというのではなく、ひとりひとりが、ほんとうに久遠実成の仏さまに直結する者であるという自覚を持って、仏法を深く学び、説の如く行じて、まず自分の中に、絶対に争い心のない、確たる仏教精神を培うという心構えにならなければならないと思います。 (昭和41年02月【佼成】) 法華経の華開く日本 五 今の時代を見るにつけましても、法華経の教えをすべての人々に弘め、まことの人間の生き方に目覚めさせないかぎり、心の安らぎを得ることはできません。地球始まって以来、今をおいて説くときはないと言っても過言ではないでしょう。すでにキリスト教の人達の間でも、仏教を真剣に研究しようという動きが起こっています。それも、単に研究するだけではなく、ローマの法王さまを中心とするカトリックの人達は、仏教徒との交流を図ろうと、熱心な働きかけを続けておられます。先日も「一緒に手をつないで、不動の信仰を持った者同士が、宗教協力を推進していくうえでの軸にならなければいけない。そのためにも、日本の仏教徒とローマのカトリック教徒が、互いに胸きんを開いて、これからの布教の方法について話し合いたい」という申し入れが、私どもにありました。 このことからもわかりますように、世界の宗教界には現在、宗教協力のために一致協力し合おうという条件が整いつつあるのであります。今回の申し入れもその前提であって、最も普遍的な信仰を強く持ち続けている日本の大乗仏教の精神と、ローマのカトリック教徒の考え方というものが、ここで、はっきりと浮かび上がってきているのであります。 そうした宗教界の新しい体制からも、私は仏さまのご本願が、今こそこの世に顕れ始めてきたと感じるのであります。 (昭和50年04月【一心】)...
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...法華経の行者 一 私どもは仏教徒であります。そして、法華経を所依の経典とする立正佼成会の会員であります。この私どもがよりどころとし、願いとしているのは、お釈迦さまがお説きになった法華経のお経文に一致した行ないをすることであります。私どもの幸福は、み教えを行ずることによって初めて得られるのであり、また、功徳がいただけるというのも、皆さんが入会されて教えのとおりの行ないを実行されるからであって、一番大事な問題はそこにあります。私どもが経文をよりどころにしておりますのは、そのためであります。 (昭和33年11月【速記禄】) 法華経の行者 二 法華経は在家の人々のための教えです。在家の人々は、出家修行者のように全生活をあげてお釈迦さまのとおりに真似ていくことは、とうていできません。また、お釈迦さまのような完全な人格者になろうと考えれば、その境地のあまりの高遠さにただ茫然となるばかりです。それゆえ法華経では、ただ一つの徳を象徴する菩薩をいろいろと登場させ、世のため、人のためになるただ一つの行ないに全身全霊を集中すれば、それだけで無我の心境にはいることができ、その心境は次第に身についてきて、いつしか仏に近い境地に達することができることを教えられているわけです。 (昭和46年06月【躍進】) たとえば常不軽菩薩は、「人間礼拝(人の仏性を拝みだす)」というただ一つの行を、一生のあいだ根気よく続けられました。その結果、まさに寿命が尽きようとするとき、宇宙の真理を自得することができ、寿命を増益されて、大衆のためにその真理を説かれたのでした。 たとえば、薬王菩薩はその前世に、仏さまと仏さまの教えを供養するため、自分の体に火をつけて千二百年のあいだ燃やし続け、その光で世界中を照らしだした……とあります。自分の体を燃やすと言うのは、自己を犠牲にすると言うことの象徴です。その光が世界中を照らしだしたと言うのは、自己犠牲の精神や行為こそ、世の中を明るくする最大のものということにほかなりません。その精神と行為が結晶して人々の病気を治すことを使命とする薬王菩薩に生まれ変わられたのです。 また、たとえば観世音菩薩は、世間のすべての人々の苦しみや願いを聞きとり、それらの人々にあまねく無畏施をされる菩薩です。無畏施とは、恐れから解放する布施ということです。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩に「南ニ死ニサウナ人アレバ、行ッテコハガラナクテモイイトイヒ、北ニケンクヮヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ」とあるような人が観世音菩薩なのです。 会員の皆さんは、それぞれに境遇が違い、性格が違い、得意とするところが違います。常不軽型の人もあれば、薬王型の人もあれば、観世音型の人もありましょう。そのほか妙音型、普賢型、文殊型などと、いろいろなタイプがありましょう。自分自身をよく振り返ってみて、自分の性によく合った一つの徳の行ないに、生活の余った時間を挙げて集中してみることです。 これこそが、法華経を現代に生かす私どもの行であり、そしてほんとうの功徳を生ずる行であると信じます。 (昭和46年06月【躍進】) 法華経の行者 三 皆さんは道場や連絡所、または本部へ、できるだけ数多く足を運ばなくてはなりません。そして、道場においては、まじめに、一生懸命にご法を求めて話を聞き、よく結んでいただいてくるのです。さらに、結んでもらったならば、必ずそれを実行することです。怠けていてはだめです。法華経というお経は行じなければ結果が出ません。このご法は、行者が拝んでくれたから結果がいただける、などと言うようなものではなく、自分で行じて自分で功徳をいただくのです。また、そうやって行じるからこそ、もう絶対にだれもが救われるのです。これは決して私だけの専売特許として申し上げていることでもなければ、妙佼先生の専売特許でもありません。また、お釈迦さまや日蓮聖人の専売特許でもないのです。 このご法門を守って行じていきさえすれば、人類全体が救われ幸せになって、お釈迦さまと同じになることができる、というのがこの法華経です。ですから自分は行じないでいて、功徳だけをもらおうなどという、とんでもない考え方をしている人がいるとしたら、早速きょうから改めていただかなくてはなりません。 (昭和34年09月【速記録】) 法華経の行者 四 日蓮聖人は、「どんなことでも法華経行者にとってかなわぬことはない」と言われました。法華経を正しく行じたなら、仏さまのお言葉のとおりに必ずなるのです。 聖人は、法華経信者とはおっしゃらないで、法華経を行ずる者、法華経行者と言われています。信者という言葉は私どももよく使いますけれども、信じて行じなければ結果は出てこないのです。日蓮聖人はその法華経行者として強い信念を持っておられました。たとえば、竜の口の刑場に向われる途中、鶴ヶ岡八幡宮の前で馬からおろしてもらって「法華経行者日蓮坊が、今、首を切られようとしている。八幡大菩薩はまことに在わすのか」と、大声で叫ばれたという話が残っています。そのくらい法華経を唱える者は、諸天善神が守護することになっているのに、その約束はどうしたんだと、畏れることなく神さまに詰め寄られたわけで、六波羅蜜を徹底的に行じられた、大聖人であればこその大信念であります。 そして、竜の口に着いて首切り役人が刀を振り上げていよいよ聖人の首をはねようとした、その刹那、刀が三段に折れ、日蓮聖人のお体にはかすり傷一つなかった、という奇跡が現われたのです。これは八幡さまがお働きになったものか、それともほかの竜神さまのおはからいか、それはともかく、その聖人のお姿に私どもが教えられますのは、法華経の行者であるからには、神をも畏れず、堂々と自信をもって振る舞えるような行じ方をしなければならないということです。ものの道理が全然わからずに、憍慢な態度をとるだけではいけませんが、仏勅、すなわち仏さまのお言葉に一つとして違うことなく、法華経に基づいて行じられ、気慨をもって法に生きられた日蓮聖人のような大信念を、私どもも持つようでなくてはならないのであります。 (昭和34年12月【速記録】) 法華経の行者 五 宗教は、人間の視野を、小さな自己中心の世界から全人類的な世界へ広げさせるものです。もっと厳密に言えば、宇宙全体へ広げさせます。法華経の説法会に、天上の神々から地に潜む竜神まで、三千大千世界の生きとし生けるものが参集した、とありますが、これは全宇宙的なものの考え方の象徴にほかなりません。法華経の信奉者である皆さんは、宇宙船にこそ乗らないけれども、宇宙的視野から地球をながめ、人類を見ることができるのです。それがすなわち平等大慧にほかならないのであります。 皆さん、どうかそのような立ち場から、改めて世界の現状をながめ、人類の行く末をつくづくと考えてみてください。そうすれば「これは、放っておかれない」「自分一身の成功や安楽どころではない」という気持ちが、全身から惻々とわき上がってくるにちがいありません。それこそが、法華経行者の不惜身命の気慨なのであります。 第二に、そのような気持ちが起こったら、どんなことでもよい、どんな小さなことでもよい、それを行動に現わすことです。(中略)とにかく“種をまく”ことです。忍耐強く非暴力を実行し、他にもそれを勧め、平和の大事さを人に説き、そうして、次第に同志をふやすことによって、世界を動かす心の力を養わなければなりません。それが、われわれに課せられた最大の菩薩行であると知るべきです。 自分独りがやってみてもどれほどのことができようか、などと考え込んだり、現実の壁はあまりにも大きい……と、しりごみしてはなりません。だれかが始めなければ、事は起こらないのです。独りが始めれば、必ず、あとに続く者ができるのです。(中略)塩が塩辛さを失ったら値打ちがないように、法華経行者が行ずることをしなければ、もはや法華経行者ではないのです。しかし、もしみずからを燈明として不惜身命の菩薩行をするならば、それは必ずこの世の中を照らし、人々をして仏法をあがめるように導くものであります。 (昭和45年12月【佼成】) 法華経の行者 六 法華経二十八番の「普賢菩薩勧発品」に〈四法成就〉という教えがあります。まず最初に〈一には諸仏に護念せらるることを為〉とあります。これは、仏さまが守ってくださるような信仰を確立するということです。そして〈二には諸の徳本を植え〉とありますから、「一生懸命で功徳を積み、親孝行をし、社会奉仕をするというように善い行ないをしなさい」とすすめられているわけです。そして〈三には正定聚に入り〉〈四には一切衆生を救うの心を発せる〉とあります。正定聚というのは、皆さんのように崇高な気持ちを持って信仰する人達の集まりです。ですから、その中に入って修行しなさいということです。独りだけで偉がってみせて、本か何かをひっくり返して、理屈ばかり覚えてもだめなわけです。 豆を煎るときだってそうです。一粒の豆だけころころ煎ってもうまくいきませんが、ある程度の量の豆を入れてがらがらやっていると、うまく煎れます。修行もそれと同じで、大勢の人達が一つの道場に集まって修行することが大事なのです。また、そういう雰囲気の中に入って修行すると、自分が改めなければならないところに気づきますし、改めなくてはならない責任も感じてきます。中には相当に強情な人がいて、いろいろ因縁を聞かせてもらっても、「それは自分には当てはまらないことだ」と、頭から突っぱねようとするのですが、一緒にいる人達のうちで、甲にも乙にも丙にもそれがちゃんと当てはまっているということがわかりますと、「自分にも当てはまらないわけがないんだな」と胸に手を当ててよく考えてみようという心を起こさせます。すると、やはり思いあたるところがあって、「改めなければならないんだな」と初めて気がつくわけです。このように仏さまは、私どもの修行の方法についても、親切に教えてくださっています。 (昭和34年10月【速記録】) 法華経の行者 七 信仰の仲間に入って、一緒に修行するということは、科学者が集まって、たくさんの試験管を使って研究するのと同じです。独りでいくら研究を重ねても、はっきりしたものを突き止めるのはなかなか難しいもので、わからないことも多いのです。やはり正定聚として、皆さんとともに試験管に入り、一緒に決まった行動をしてみると、仏さまの教えの功徳、経文の功徳がはっきりとわかってきますし、法力も顕れてまいります。そういうことを体験しなければいけません 私が初めて法華経に遇ったのは、三十歳のころでした。ですからもう四十年以上になりますが、それくらいの期間の体験はたいしたことではありません。ほんのわずかなものです。しかし、その法華経の法門を一万人、二万人という多くの人に当てはめてみますと、ちょうど試験管をとおして科学の理法を眼で確かめることができますように、法華経の働きがわかり、経力が観えてきます。ですから、わずか四十年ほどの体験であっても、何百年も生きたのと同じに、多くのことがわかってくるのです。そのように、信仰は体験の世界なのです。空想の世界では決してありません。 (昭和52年02月【求道】)...
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...五種法師の修行 一 法華経の中でお釈迦さまは、仏弟子の修行の具体的な道として、五種法師をたびたび説いておられます。たとえば、法師品第十には「若し人あって妙法華経の乃至一偈を受持・読誦し解説・書写し、此の経巻に於て敬い視ること仏の如くにして……」、また法師功徳品第十九では「若し善男子・善女人是の法華経を受持し、若しは読み、若しは誦し、若しは解説し、若しは書写せん。是の人は当に八百の眼の功徳・千二百の耳の功徳・八百の鼻の功徳・千二百の舌の功徳・八百の身の功徳・千二百の意の功徳を得べし。是の功徳を以て六根を荘厳して皆清浄ならしめん」とあります。 この両方ともに「若し人あって」「若し善男子・善女人……」とあるように、これは出家修行者のためというよりは、むしろ一般の仏弟子に勧められた修行と受け取らねばなりますまい。法師と言えば、後世では出家の僧侶を指す言葉となってしまいましたが、法華経においては人に対して法を説く者すべてをこう呼んでおり、前掲の文証のように、どちらかと言えば、在家信仰者の方に重点が置かれていると考えざるをえません。 (昭和50年06月【佼成】) 五種法師の修行というのは、教えを深く信じてその信仰を堅く持ち(受持)経典をしっかり読み(読)、繰り返し繰り返し誦んじて心に植えつけ(誦)、そらに書き写すことによってその精神を全身全霊にしみとおらせ(書写)、そして人に解りやすく説いてあげること(解説)です。 これを、現実的に具体化して言えば、朝夕のご供養、教学の勉強、法座での修行、教会や大聖堂への参拝、それにお導き、この五つを心から真剣に行なうことであります。これが五種法師の現代的なかたちであり、いわば、立正佼成会会員の五種法師であると言ってもいいでしょう。 ところで、今「心から真剣に」という条件を付けましたが、これが修行の最大の要件なのであります。ただ形式的に、ぬるま湯につかっているようなやりかたをしていたのでは、ほんとうの修行とは言えません。ほんとうの修行でないから、結果も現われないのです。 (昭和45年04月【佼成】) 五種法師の修行 二 この五つの修行の中で一番たいせつなのは受持です。受とは教えを深く信ずること、持とはその信を常に堅く保つこと。これが信仰の根底をなすものであることは、今さら言うまでもありません。澄み切った無我の心で教えをそのまま有り難く受け取り、いつ、いかなる時でも「自分は仏さまの子だ。仏さまのいのちによって生かされている身なのだ。自分は仏弟子だ。仏さまのみ教えのままに生きているのだ」という信念を持ち、感激を持つ、これが受持です。信力によって受け、念力によって持ち、常に歓喜・勇躍する、これが信仰の絶対鏡なのです。 この受持が完全に成就されているならば、あとのいろいろな行は、そこからあたかも泉のように自然とわき出てくるものです。ところが、現実の問題として、受持の完全な成就というのはなかなか難しいものです。仏道に入ったばかりの人にそれを求めるのは無理ですし、また、求く教えを学んでいる人でも、ときおり疑惑を生じたり、感動を失ったりすることがありえます。そこで、どうしても受持を助ける修行を兼ね行なうことが必要になってくるのです。その修行が、読・誦・解説・書写にほかならないのであります (昭和50年06月【佼成】) 五種法師の修行 三 信仰を持つのはいいことだけれど、お経を誦げなくてはならないのでたいへんだ、などと言う人がいます。そのような人は信仰のうわっつらしか知らないから、そんなことが言えるのです。信心が本物になると、お経を読ませていただくのが楽しくてしかたがなくなります。そのための時間は、仏さまがちゃんと皆さんに与えてくださっています。洗たく機ができたり、掃除機ができたことにしてもそうです。スイッチを入れておきさえすれば洗たくができるし、掃除もわずかな時間ですむ。便利になったことによって、それだけ落ち着いていられる時間ができたわけです。しかも、明治憲法によって義務教育制が布かれてから、だれもが教育を受けて、読み書きができるようになりました。その落ち着いていられる時間も、仏さまが私達にお与えくださったものだし、教育も仏さまのおはからいであります。 まして、こういう繁雑な時代に生きている私達です。仏さまは、伊達に教育の普及を“おはからい”になったのでもなく、遊んでいてもいいということで、時間を与えてくださったわけではないのです。その仏さまのおはからいを充分に感じとって、われわれは仏法に示された仏さまの理想に向かって、一歩一歩向上していかなくてはなりません。教育が行きわたり、お互いに文化的な生活を営むようになると、人間の考え方も進歩していきます。そして、進歩すればするほど、仏さまはわれわれを導いて、理想とされている境涯のところへ、どんどん上らせてあげようと願われているのです。時間もたっぷりあることだし、字の読めない人はいないのですから、これはどうしたって、きちんとお経をあげなくてはいけません。今日のような世の中にあってお経をあげないのは、やはり法を守らないという部類に入ると思います。 そしてお経を読んで、人さまに説き、さらにお導きした人が、ほんとうに幸せになるまで教育をするのです。それにまたお経の一文一句を書き写してみる。そうやっていくと、お経の有り難さが心の底にずっしりとしみこんで、お経がだんだんと身について自分のものになっていくのであります。 (昭和40年12月【速記録】) 五種法師の修行 四 五種法師の修行を一心不乱に続け、加えて、人のため世のためになる徳の行ないを日々の生活に実践していくならば、われわれの本質の上を厚く蔽っている、煩悩の垢が少しずつ溶け去っていき、中にある仏性がしだい、しだいに輝き出してくるのです。 この「少しずつ、少しずつ」「しだい、しだいに」ということを軽視してはなりません。これが凡夫としては非常にたいせつなことなのです。禅の言葉に「一寸坐れば一寸の仏」というのがあります。線香が一寸燃える間だけ坐禅をすれば、その時だけは仏と同じ境地になれると言うのです。その一寸一寸の積み重なりが大事なのであって、「一寸だけではつまらない」と考える人は、永久に救われない人なのです。 とにもかくにも修行することです。努力することです。(中略)自分の“分”に応じた修行をバカのようになって実践すること、これが仏性を開顕する大直道なのであります。 (昭和50年05月【佼成】)...
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...法華経の功徳 一 法華経を読ませていただくと、どこを見ても功徳ばかりのような気がいたします。たとえば「信解品第四」には「長者窮子の譬」が出てまいります。「無量の珍宝求めざるに自ら得たり」とありますように、自分では望んでもみない、たいへんな宝が自分のものになった、大きな功徳をいただいた、という話であります。 この窮子は、父親と別れて五十年もの間、乞食をしながら流浪の旅を続けて、ようやくそのお父さんの家へ帰ってきます。それを見た親は、わが子が戻ってきたと喜んでいるのですが、窮子の方は父親に会っても自分の親とはわからない。なにしろ、父親は大名のように偉い人で、その人の家にやってきたのですから、父親などとは思いもよらないわけです。そこで、田舎の農家で言えば物置の隅のようなところに住み、父親の家の一番汚い場所を掃除する人達の仲間に入って、それでもごまかしたり怠けたりすることなく二十年間、まじめに働き続けたわけです。糞を除う役を務め続けたというのですから、たまったごみをかたづけたり、肥しを担ぎ出して百姓仕事もしたのでしょう。 そういう修行を続けて、やがて父親が歳をとって臨終が近くなったとき、初めて親子の名乗りをすることができ、そして自分の物とは思ってもいなかったし、望んでもいなかった財産のすべてを得た、というわけです。法華経にはこのようなたとえによって、だれでも、たとえようのない有り難い功徳がいただけるということが説かれています。 (昭和42年03月【速記録】) 法華経の功徳 二 功徳というのは、梵語のグナ(guna)の訳で〈功能福徳〉の意であるというのが、昔からの定説です。約千四百年前の中国の名学僧であるか慧遠という人の著した『維摩経義記』という本に、次のような一節があります。原文は漢文ですから、現代語に訳しますと、こういうことになります。 「功徳は、また福徳と言ってもいい。福とは福利のことである。善い行ないは、その行ないをなした人自身の人格にしみわたって、それを向上させ、結局はその人のためになるゆえに、福と言うのである。また、福というものは、それ自体が善い行ないをなす人の徳にほかならないから、あわせて福徳と言うのである。これをたとえて言えば、清く冷たいと言うことが水の持っている徳であるようなものである。 功というのは、効能のことである。善い行ないには、他を助け、うるおし、利益を与える働きがある。ゆえに功と名づける。しかも、善い行ないは、他を利益するばかりでなく、自分の身にも返ってきて、自分の徳となるものであるから功徳と名づけるのである」 功徳という言葉の持つ意義は、ほとんどこの解説に尽きると思います。たいていの人が、功徳とは他から与えられるものと考えていますが、そうではなく、功徳とは自分が他に与えると同時に、自分自身に与えるものだというのです。 右の「善い行ないは、その行ないをなした人自身の人格にしみわたって、それを向上させる」と言うのは、原文では「善能く資潤して行人を福利す(行とは施すという意味)」となっています。「資潤して」とは、実にいい言葉です。善い行ない、善い思いというものは、知らず識らずのうちにその人の全身全霊にしみわたって、その人の人格を潤し、高めるのです。すなわち、徳となるのです。 こうして形成された人格ないし徳は、ひとりでに外面に表われて、ふたたび他の人を利益する働きをします。お釈迦さまの三十二相・八十種好という尊いお姿は、つまりその積まれたお徳の外面への表われであり、その尊いお姿が多くの人々に帰依の心を起こさせたのです。また、その徳は八万四千の法門となって外へ流れいで、無数の人を教化する働きに変わったのです。 このように、自分から他人へ、他人から自分へ、それからふたたび他人へと無限の循環を繰り返す徳の力、それがほんとうの功徳と言うものです。 (昭和46年06月【躍進】) 法華経の功徳 三 お釈迦さまが説かれた法門は、だれが、どこで聞いてもよくわかり、だれでも行ずることのできる教えであります。しかし、二千五百年も前に説かれたものが、なぜ世のすみずみにまで弘まっていかないのであろうか。ということを考えてみますと、人間がだんだんに本能的になっている、ということがあげられます。人間らしい、仏さまの子としての考え方や行動へ向かおうとせず、しかも、「仏さまが守護してくださっている」ということも忘れ、自我ばかりを主張して、もがき、迷ってきたその結果が今日の状態であります。 このような人間の状態が気の毒であるから「八万の大士」が大衆を救うために世の中に出てくるのである、と言われていますので、これは、皆さんのひとりびとりが八万の大士の一員である、という決定をしていただかなければなりません。そうでなければ、仏さまの二千五百年前の予言がいくら確かだと言っても、その証しとはならないのです。本能のままに行動し、そのために苦悩する現代の人々に救いをもたらすのは、他の人ではなくて、私ども自身です。仏さまのお言葉のとおりに行じている仏教徒が、真に正定聚であるところの教団が活動を推進していかなければならないのであります。 したがって、私どもは経典に忠実に、純真な気持ちでご法を信じなければなりません。仏さまの方では、功徳を与えたくて、こうすればわかるか、ああすればわかってくれるか、と方便力をもって説法、教化を繰り返してくださっているのです。法華経を読んでごらんなさい。法華経の中は全部方便です。なぜ方便が説かれているかと言うと、すべてのものに救いを顕現する真実経であるからです。世の中の状態、人心の混乱がここまできたからには、どうでも、皆さんに仏さまの教えを信じていただかなければ、どうにもならないのであります。 (昭和38年04月【速記録】) 法華経の功徳 四 法華経の内容について、難しい言葉で言えば、非常に難解なことになりますが、一言にして言えば「人間がどうしても守らなければならない道」であります。この道を守って行じていけば、どなたであっても幸福になる、という道であります。私どもひとりびとりが幸福になるということは、とりもなおさず社会、国家が安泰になり、世界は平和になるということです。人間ひとりびとりが争う気持ち、怒る気持ちをなくすれば、世界中がほんとうに仲よく、この娑婆国土が真に寂光土のように成り、お互い人間同士が生きがいを持って、楽しく生きられる世界となる、ということが経典の中にちゃんと示されています。こういう世界は、天から来るわけでもなければ、地からわき出るわけでもありません。私ども人間に課せられた使命であります。 私どもがほんとうに手をつなぎ、輪になって、お互いの人格を尊敬し合い、また尊敬されるような人間になって、そうして普く人々に正しい思想を植えしめて、ひとりびとりが完全なる人間になる──そのような人々の住んでいる状態を寂光土と言うのでありますが、そういう状態をこの世につくり現わすのは、他人ではなくて私達なのであります。 (昭和34年09月【速記録】) このような使命を私どもは仏さまから課せられて、この末法の時代に人間として、時を同じくして生まれ合わせたわけであります。皆さんとともに一生懸命に精進を重ねて、私達に課せられた大使命を果たしていきたいと願っているのであります。 (昭和34年09月【速記録】)...
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...地涌の菩薩と八万の大士 一 法華経を読誦いたしますと、序品第一から、安楽行品第十四までの前半では、声聞、縁覚、菩薩のお弟子達が、未来に対する仏さまの授記(成仏の保証)により、歓喜勇躍してあらゆる困難を乗り越え、仏さまの念願をこの娑婆国土に実現しようという決定をされています。そして、お釈迦さまに「後の世をどうぞ私どもにお任せください」と誓願を立てられる順序が出てまいります。 ところが、お釈迦さまはこれに対して「善男子達よ、お志は有り難いが、それはお断りしよう。なぜならば、末法時代になって、非常に難しい世の中になると、お前達のような結定では、とてもその役ではない。私の滅後、末法の娑婆世界に、正法を護持し、読誦し、説き弘める役目の菩薩は、もはやすでに準備ができているのだよ」と申されました。すると途端に、世界中の地面が激しく震動して、中から金色に輝く菩薩が無数に涌き出でるという現象が顕れました。これはまさに、形では現わせない真理をだれにも理解できるように劇的な形式をもって表現されている、法華経のすばらしい一場面であります。 仏さまは、自分のそばで修行された古いお弟子がたをしりぞけて、地の中から涌き出た無数の菩薩を「八万の大士」というお言葉でほめ、「地涌の菩薩」と呼んで尊ばれました。そして末法時代に仏の理想を実現できる者は、地涌の菩薩をおいてほかにはない、というお言葉を賜わったのであります。 永年娑婆国土にあって、苦しみや悩みの多い現実生活を経験し、いろいろの艱難辛苦をくぐり抜けて修行を重ね、堅い決定を得た地涌の菩薩に、この娑婆世界をお任せくださったという、このことには、仏さまの深い大慈大悲がこめられているのであります。すなわちそれは、自分みずからが煩悩の中で生活経験を持つ者こそ、ほんとうに人さまの苦しみ、悩み、喜びを共に身に感じとれる人だとおおせになっているのであります。そしてそういう人こそ、それに密着した法を説き、人々の胸に明るい法の燈を点ずることができるということであります。 (昭和41年03月【佼成】) 日蓮聖人は「地涌の菩薩にあらずんば、唱えがたき題目」と言われております。その地涌の菩薩に託された正法を、今の時代に説く人々を、八万の大士と言うのであります (昭和43年01月【速記録】) 末法濁悪世に生まれて、しかも、法華経に遇い奉った私どもは、仏さまのお言葉を信受して「在家仏教徒」である自分は、どうあるべきか、また、何をなすべきかという、はっきりとした自覚に立たねばならないのであります。 (昭和41年03月【佼成】) 地涌の菩薩と八万の大士 二 本化の菩薩と言うのは従地涌出品第十五にありますように、どんなことがあろうとも、不退転の精神で菩薩道に生きようという心構えを持った人のことです。一方、迹化の菩薩と言うのは、調子のいいときはいいけれど、にわかづくりの付け焼き刃、いつどうなるかわからないというような人を言います。しかし、本化の菩薩、迹化の菩薩と言いましても、別に印が付いているわけではありませんから、これは本人の自覚の問題であります。 私事ではありますが、実は私、家内が最近そうした点でたいへんおとなになったな、と感心しているのです。と言いますのも、これまでは本化と迹化のことを言う度に家内は機嫌を悪くしたものです。ところが、機嫌を悪くしているうちは、また、そのことに触れられることが多いわけです。しかし、最近は家内も自分が迹化であることを自覚して、何かあると「私はほんとうに迹化ですね」と言うのです。こういう自覚ができてまいりますと、そのときからもう本化になってしまいます。迹化になり切れば本化になるのです。この体験からもわかりますように、「永い間修行したんだから、おれも本化だ」などという気持ちをもっているうちは、まだまだ迹化そのものなのです。そこがまたご法の不思議なところであります。 (昭和51年09月【速記録】) 地涌の菩薩と八万の大士 三 自分は八万の大士の一員なんだという気持ちになり切りますと、精進することにも自然に気合いが入ってまいります。そして、そういう自覚ができますと、家庭の中で起こったごたごただとか、導きの子のところに残っていた難問題だとかが、風にでも吹き飛ばされたように、いっぺんにすーうっと消えて、身の回りがきれいになってしまいます。それが世直しの奥義であります。そうなるためには、まず自分の心の中がスキッと救われていなければなりません。 人から言われたから「ここはまあしかたがない。悪うございました、と言っておけばすむんだから」などと考えているようではだめです。因果の道理を「なるほど」と胸の底から悟るところまでいかなくてはなりません。そこにある真理を悟らなければほんとうに救われたとは言えないのです。 (昭和52年05月【速記録】) 地涌の菩薩と八万の大士 四 仏さまの大慈大悲をいかにして表現するか──なかなかに難しい問題であります。お経を読んでみますと非常に文章が難しく意味を汲みとるにも難解なところが多く、どうしてもわからないと、言うところがたくさんあることだろうと思います。「法も法の中に住せず」というようなことを言われますと、「ご法だ」「ご法だ」とよく言われるけれどいったいどうすればいいのだろうという疑問が出てきたり、いろいろのことがあると思います。そのうえ「退くのでもなければ、進むのでもない」「丸くもなければ四角でもない」などと、禅問答のようなことを言われますと、これはもう何がなんだか、さっぱりわからないということになってしまうこともあります。 これは、世の中の現象と言うものは、紋切型のように、たとえば、四角なものが四角のままで、どこまでもとおるものではなく、丸いものがそのままいつまでも丸い形ではいないように、生あるものは死に、形あるものは変化していく、ということです。つまり、この世の一切の物事、現象の奥にある実相を説かれたもので、諸行無常なんだということであります。では、その中にあって私どもは何を目標にしていくか、と言いますと、「念念に生滅する」、つまり、一切のものが一瞬一瞬に生じたり滅したりを繰り返している現象界にあって、私どもは深重の因縁によって、そのとき、そのときに与えられた自分のお役、使命を担って生まれている、という真実であります。 今、非常に大事な時期に生まれているという因縁を考えたとき、八万の大士という者の因縁をどのように解釈し、自己の深重の因縁をどのように自覚するか、ということが問題であります。私ども法華経行者として、最も価値のある、また諸仏・諸天善神も歓喜されるような修行をしなければならないわけですが、それができるか、どうかということは現世において今現在、与えられている使命をどう自覚しているかにかかっています。その自覚のおきどころによって一切の物事が〈ご守護〉となって現われるか、〈お悟り〉となって現われるか、ということになるのであります。 (昭和36年11月【速記録】)...
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...摂受と折伏 一 日蓮聖人が強く叫ばれたことは、各宗各派に分かれた当時の鎌倉仏教のありさまをみて「仏教徒はその宗派意識を捨て、釈尊の真精神にかえれ」と言うことでした。 本会が創立以来、説いていることは、釈尊の教えをその教えのままに行ずるということです。法華経を所依の経典とし、根本仏教を重んじていることはその意味にほかなりません。 こうした点からみるならば、本会は、日蓮聖人の精神をもっとも忠実に遵奉している、と言うことができましょう。 (昭和43年08月【佼成新聞】) 摂受と折伏 二 「安楽行品第十四」には、「他人の好悪長短を説かざれ」と、人の善悪を言わないで、ただひたすら自分の行なうべき役割を果たし、なすべきことについて行を修めていけば、どこからも難はこないと説かれています。今日のように、大言壮語して他集団をけなしても、一向にその反応が出てこないという時代であれば、いっそう、この教えを大事にする必要があります。ほんとうに安らかな心を持ち、人さまがその後ろ姿を見て、ああいうすがすがしい気分になりたい、心を落ち着かせて苦労をなくしたい、と思うような状態にならなければなりません。そのように人さまが自然に寄り集まって来られるような修行を私達はしていかなければならない時代になってきているのであります。 (昭和46年03月【速記録】) 摂受と折伏 三 私が「世界宗教者平和会議」を呼びかけ、話し合いを重ねておりますのも、大きな意味からすれば日蓮聖人の遺された《立正安国論》の精神にのっとったものであります。したがって、この正法を立てていくためには、あるときは他宗の誤りをあげて、それではだめだと決めつけることも必要でしょうし、またある場合には、「安楽行品第十四」の教えのように、他宗の間違いを指摘するより、まず自分を正して見せ、皆さんがその姿に惚れ込んでついてこられるようなことも必要であります。 日蓮聖人は時代に即して、「勧持品第十三」を中心に法門をお説きになりました。いろいろの法難に遭遇されたのはそのためですが、当時としてはそれよりほかに方法がなかったわけです。しかし、今はそれから七百年を経ています。もし今日「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と、ムシロ旗を押し立てて叫んだとしても、だれ独り振り返って見ようとしないでしょう。せいぜい、「威勢のいい坊さんが出てきたな」と言うくらいのものです。それでは、意味がありません。やはり、法をほんとうに行じた人が救われ、それを見た周囲の人達が、自分もあのようになりたいと、慕い寄ってくるようになることがたいせつなのであります。 (昭和49年05月【速記録】) 摂受と折伏 四 天地自然のすべてを、ありのままに認めているのが仏教ですから、仏教徒は円満で協調的でなければいけないと思うのです。排他独善は、宗教の本然の姿ではありません。三年前の九月、(注・昭和40年)ローマのバチカン公会議に招待され、パウロ六世猊下とお会いしたとき「キリスト教徒が仏教徒のために祈り、仏教徒がキリスト教徒のために祈る」ということを述べられたのですが、これは、日ごろ私の考えていることと、まったく同じことなので、非常に感銘しました。このように宗教者が、宗派や国境を超えて、心から協力、団結しなければ、人類の福祉も、世界の平和も実現できないのであります。 (昭和43年12月【佼成新聞】)...
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...法華経と日蓮聖人 一 日蓮聖人がお寺に入られたのは十二歳のときでしたが、十六歳のときには清登山で、“日本第一の智者となし給え”と祈願されたということが、ご一代記に書いてあります。 聖人は、仏教のもつ奥深さに気づかれ、その意味する奥底にあるものを汲みとっていくには、非凡な知識がいることを痛感されて、自分を日本第一の智者に……と、虚空蔵菩薩に願いをこめられたのです。 それにまた、今でも清澄山へ参りますと「凡血の笹」と言うのがありまして、これにも伝説が残されております。おそらく断食をなさったか、あるいは難行苦行をなさったのでしょう。祈願をこめて行を続けられた三七日間、つまり二十一日目の満顔の日に、血を吐かれたのです。そしてこの時、凡夫の血を残らず吐き出して、清浄な身になって出発されたと言われているのですが、私はそれも仏さまから大智を授けていただかないかぎり、難解な仏教を解き明かすことはできないと思い立たれた聖人が、そのためにまったく清廉潔白な気持ちになろうと精進された結果であろうと思うのであります。 以来、聖人は三十二歳になられるまで、仏教学を究めるための真摯な努力を続けられました。一切経を三回も読み直されたと言うのですから、どれほど熱心に勉学に打ち込まれたかが偲ばれます。そして到達されたのが《法華経》であります。 聖人はこの法華経を、それから約三十年にわたって解き明かされたのですが、ご自身の心構えとされていたのは、仏教の中で法華経の占める位置の大きさを思い、この経典を説かれたお釈迦さまのお心持ちをそのままに伝えるということでした。ですから聖人は、それまでのしきたりや伝統にとらわれず、むしろそれらを一切排除することによって、お釈迦さまのふところの中に、まる裸で飛び込んでいこうとされたのでした。それはまた、仏さまのご本懐である法華経に直結し、仏さまとまったく心身を一つにしたような境地に到達されて、仏法をお説きになった、ということが日蓮聖人のご遺文を拝読しますとよくわかるのであります。 (昭和42年03月【速記録】) 日蓮聖人ご自身が「大難四箇度、小難数知れず」と言われていますように、いつ殺されるかわからないような、命をねらわれたことがご生涯のうちに数知れずあったわけであります。ところが聖人はそういう危難にも一向とん着されず、堂々と自分の主張を声高らかに掲げられて、池上の本門寺において六十年のご生涯を終え、大往生されました。法華経をほんとうに行じている者は長生の実を得る、大往生を約束されている、という大信念があればこそ、これほどの大業を成就されたのだと思うのであります。 このような日蓮聖人のご生涯は、私達に「ご法門というものは、口先だけではだめだ、法華経は身を張って行じ、自分の行為に表わす、つまり自分で体験したことを自分でちゃんと言葉に表わしていかなければ救われないんだ」ということを教えていただいていると思うのです。 (昭和48年12月【求道】) 法華経と日蓮聖人 二 日蓮聖人は、実にこまやかな人間愛の持ち主でありました。(中略)信者達にとってすばらしい人生コンサルタントでありました。そのことは、数々のご消息によくにじみでています。たとえば、病気の南条兵衛七郎に与えられた切々たる教訓、七郎に先立たれたその母に届けられた慰めの手紙、大学三郎夫人の、女としての信仰上の小さな質問に対しても理を尽くしてじゅんじゅんと答えられた《月水御書》、性欲というものに大乗的解釈を与えられた《煩悩即菩提御書》、家庭生活と信仰との関係を幅広く説かれた《四条金吾殿御返事》等々、どのご遺文も実にシミジミとした愛情のなかに広大な智慧をひそませたものばかりです。 後世のいわゆる日蓮主義者達は、国家諫暁や四箇の格言といった聖人の激しい面ばかりを見て、このこまやかな人間愛を見過ごしているのではないでしょうか。 (昭和41年03月【躍進】) 日蓮聖人は、信仰と生活を切り離して考えるようなことを、決してなさいませんでした。それとまったく正反対の宗教観をもっておられたのであって、信仰を全生活に浸透させ、全生活を正しい信仰のうえにうち立てるように、弟子・檀那の指導をされたのです。そのことは、《四条金吾殿御返事》の中にある「ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と唱え給え。苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせ、南無妙法蓮華経とうち唱えさせ給え」とか、「宮仕え(職業)をば法華経とおぼしめせ」というお言葉に、端的に表われています。 (昭和41年03月【躍進】) 法華経と日蓮聖人 三 日蓮聖人は、信仰を改めることによって国家社会を立て直そうという信念のもとに、激しい諫暁を行なわれましたが、みずから政治の場に立とうとか、政権を笠に着て教線を伸ばそうとかいうことは、絶対になさいませんでした。北条執権も最後には折れて出て、法門の弘通は許すけれども、そのかわり四箇の格言だけはひっこめてくれ、そうすれば荘田十町を寄進し、大きな寺を建ててあげようと言ってきたのですが、日蓮聖人はそれにつけいるどころか、さっさと身延の山にこもってしまわれました。 ここが聖人の偉いところです。宗教というものは本来、政治に動かされるようなチッポケなものではありません。政治家とは、いわば人間の幸福という家屋のほんの一部分の造作を直す大工であります。もちろん、それも必要な存在ではありますが、宗教家は、そのもう一つ上に立つものでなければなりません。すなわち、政治家をも、国民をも、みんなひっくるめた一切衆生の心を改造することによって、土台ぐるみ世界を建て直そうとする大建築家こそ、真の宗教家なのであります。 お釈迦さまも、ビンビサーラ王やハシノク王などを教化され、またその遺教・遺徳によってアショカ王のような名君を育てられました。けれども、ご自分では政権などに一指をもお触れになりませんでした。日蓮聖人も、またしかりです。これが宗教家としての正しい態度なのであります。 (昭和41年03月【躍進】) 法華経と日蓮聖人 四 日蓮聖人は、仏さまを自分の真の親である、と言われています。主・師・親の三徳を兼ね備えられたお釈迦さま以外に、自分のほんとうの主とも、師と、親とも言えるものはない、と言うことを非常に強くおおせになっています。そして、いろいろの仏さまは、お釈迦さまの説法の中に生きているのであって、この娑婆国土にお生まれになったお釈迦さまの説法に間違いがないのである、ということを日蓮聖人ご自身が、一つ一つみずからの現証をもって、お説きになっているわけであります。また、六十年の生涯を「自分のやってきたことに一分の誤りもない」という自信に満ちたお気持ちで過ごされたのです。しかし、当時はほんとうにたいへんな時代でしたから、日蓮聖人のように、正直な表現をする者は「仏法の敵である」というので、島流しにされたり、首切りの座に乗せられたのであります。 (昭和48年12月【求道】) あすは竜の口で首を切られるという、鎌倉の土牢の中にあっても、日蓮聖人は、「法華経のおんためにこの首を切られるという、これほどの喜び、これほど名誉なことはない」と言って、むしろ喜んでおられるのであります。しかも、太陽がのぼって、明るくなってからでは醜いというので、「頸切るべくば急ぎ切るべし、夜明けなば見苦しかりなん」と言って身を投げ出しておられます。この日蓮聖人の心意気というもの“法華経をほんとうに自分の身で体得した”というあの自覚と悟り、これを私はほんとうに手本にしなければならないと思うのです。日蓮聖人はいつでも「法華経のおんために」と、こう言っておられます。法華経のために一切を捧げる──もう人間としての身体を全部、仏さまにささげている、というその心意気が、日蓮聖人の信心であったわけであります。聖人のこの死身弘法の信心をこそ、私達はお手本にしなければならないと思うのです。 (昭和50年07月【精進】)...
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...立教の精神 一 四月二十八日は、日蓮聖人が旭ヶ森でお題目の第一声をあげられた記念すべき日であります。この第一声が起因になって、やがて小松原の法難に遭われるのでありますが、聖人はお師匠さんにも、耳を刺すような鋭い言葉で、「法華経によってぜひに一仏乗の世界をつくらなければならない」と言われ、「いろいろな法門が分かれ分かれになって、あの宗だ、この宗だなどと言うのはおかしい。もとをただしていけば、それは皆お釈迦さまの説かれた法門ではないか」と堂々と主張されたのであります。それも小さいころ小僧さんとして寺に入られ、早くから一心に仏道を学ばれて、一切経を三度も読み返された結果、法華経こそ真理であると確信されて、そのことを正直に表現されたのでした。 聖人は、ご自身がつかまれたその確信をどう表現すればいいか、そして当時の人々にわかりやすいものにするにはどう言えばいいかとお考えになったすえ、「妙法蓮華経」に〈南無〉の二文字をつけて「南無妙法蓮華経」と七文字のお題目で表現されたわけであります。このお題目の中には、仏さまの全身がこもっている、だから、声を大にして万民一同、南無妙法蓮華経と真剣になって唱えることが先決である、と考えられたわけです。当時はまだ、一般の人々に学問がいきわたっていなかったものですから、現代の人達に教学を説くようなわけにはいかなかったのです。そこでまず、お経によって救われることができる、ということを強調されたのです。 (昭和51年06月【求道】) 立教の精神 二 十六歳の少年僧でありました日蓮聖人が、当時の八宗、十宗という宗派ができていることに疑惑を持たれ、真の仏教の本質はどこにあるか、ということをまっしぐらに究めようとされたことが、後日、法華経に到達される出発点であります。そして真剣に研鑽をされた暁に、三十二歳にして、法華経を以て仏教のほんとうの心、仏さまの出世本懐の義、即ち一大事の因縁を現わすための門が法華経である、という確信に至られて、法華経の説法を始められたわけです。この説法を始められると三類の強敵のことごとくが聖者の日蓮聖人にのしかかってきたのであります。 このようにして、約三十年間、苦難の道を歩まれ、六十年の生涯を終えられたのですが、ご遺文の中に「日蓮はいずれの宗の元祖にもあらず、末葉にもあらず」と言われていますから、「お祖師さま」などと言って、木像を飾って拝んでもらおう、などとは決してお考えになっていなかったと思います。それどころか、《撰時鈔》には「余に三度の高名あり……」と、三度国を諫めたところの高名がある、と言って自分の予言をほめてはおられますが、その中に何をおっしゃっているかと言うと、「此の三つの大事は日蓮の申したるには非ず、只偏に釈迦如来の御神、我身に入り替らせ給ひけるにや」と、大覚世尊が日蓮聖人の頭に入れ替わられて、この言葉が出たのだ、仏の予言として、自分をして言わしめたのである、というように言われています。自分の学問とか、自分の信仰から出てきたなどとは一言も言われていません。 このような日蓮聖人の仏教に対される態度、確信、そして絶対の帰依というようなことを基本において考えますと、聖人の国家諫暁は《立正安国論》を以て、北条執権の前で宗教の統一、仏教の統一を願われたのであると思います。「祖師がたがいろいろといらっしゃって、いろいろの教義を立てておられるけれども、ことごとく間違った考え方をしているのである、と私は解釈している。これが間違いであるかどうか、執権の前で、公場対決でもって、いろいろと争ったり、ねたんだりというケチな根性ではなく、お互いに仏教のほんとうのあり方を仏典の上から正しく論理を進めて、正しい宗教に統一しよう」とされたのであると思うのです。“仏教の本質は一つ”のはずである、この一つの道に大同団結しよう、と言うのが大聖人の終生の願いであったということがご遺文にも書かれています。 (昭和33年03月【速記録】)...
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...四箇格言 一 日蓮聖人は「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と申されました。いわゆる四箇の格言であります。この言葉の表面だけをみると、日蓮聖人は、いかにも他宗を攻撃されたかのように考えられます。つまり、聖人がきわめて戦闘的な性格の持ち主であり、その面だけが強くのちの人達に語り継がれている傾向がみられるのは、まことに残念なことと言わねばなりません。もちろん四箇の格言は他宗の覚醒を促す警鐘ではありましょうが、私はまた、それを次のように理解することができると思うのです。つまり日蓮聖人は他宗の人達に向かって「自分達の宗派が一番だ、としてアグラをかいていてはならない」と申されたのであるということです。 (昭和46年10月【佼成新聞】) 日蓮聖人は、“祖師”と言われるかたがたの中でも、最も真剣にお釈迦さまの懐に飛び込まれたかたではなかろうか、と私は考えるのです。今でも“お祖師さま”と言えば、たいていの人は日蓮聖人を指します。それは、やはりお釈迦さまの説かれた法門に、あれほど忠実に、恋慕渇仰して、命がけで法を大衆に伝えようとされたかたは他にいないからではないでしょうか。 その強い信念と意志が、何によって出てきたかと言うと、仏教の教えのです。日蓮聖人は自分がこれほど感激して、これほどすばらしい教えはないと思った仏教が、当時は“腐っている”というので、あの有名な四箇の格言を叫ばれたのです。「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と。そして、その因は政治が悪いからだということで、鎌倉幕府に直訴されたのですから、これはたいへん勇気のいることです。 日蓮聖人ご在世のころは、〈承久の乱〉のあとで、国内はまさに麻のごとく乱れていました。仏教が日本に入ってきてから七百年も経って、国中に行きわたっているのに、なぜ、こういう状態なんだろう、というのが日蓮聖人の疑問であったわけです。それを仏教の立場から追求していくと、それは“仏教の本質からはずれたことをやっている”からだ、と言う理論に到達したわけです。 (昭和47年12月【佼成】) 四箇格言 二 教義の問題を論じていけば、結果として四箇の格言に結びつくことになるかもしれませんが、日蓮聖人というかたは“これだけがよくて、ほかはだめだ”と言った決めつけ方を、非常にきらわれたかたであったに違いないと思います。《立正安国論》に添え状をつけて鎌倉幕府の要人に送られているのも、その一つの証拠と言えるのではないでしょうか。なぜなら聖人はこのとき、ひとつ宗教家が一堂に会して話し合おうじゃないか、仏さまがどういうことをお説きになったか考え合おうじゃないか、と提案されています。つまり、この仏教国である日本の中で、「あの宗でなくてはいけない」「いや、この宗でなくちゃだめなんだ」などというようなことがあってはならないと、考えておられたのであって、ある意味で歴史上、最初の宗教者会議の提唱者は日蓮聖人である、と言えるのではないか、と思うのです。 しかし、こと宗教の問題となると、なかなか一朝一夕にはかたがつきません。まして、日蓮聖人は一介のお坊さんであったわけですから、それを言い出しても容易にとおらない。そこで、念願を実現するためには、ここでひとつ刺激の強いことを言うほかない、ということから「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という、四箇の格言が生まれたのではないかと思うのです。こういういささか刺激の強いことを言ったら「いったいどういうわけで無間地獄へ堕ちるんだ」「なぜ天魔だったり国賊だったりするのか」ということが、広く問い質されるようになるだろう、と考えられたのではないでしょうか。ですから、それは仏教界に一つのセンセーションを巻き起こす方法として、聖人がとられた方便であったと、私は受け取っています。 (昭和49年10月【速記録】) 四箇格言 三 日蓮聖人は四箇の格言を叫ばれて、他宗を攻撃されたのですが、だからと言って、法華経以外のお経は値打ちがない、などとおっしゃったのではないのです。《立正安国論》の中でも、仏さまご一代の聖教、金言に間違いがないんだ、ということを七つも八つもの経文を引かれて説かれていることからも、それがわかります。法華経以外の経文はうそだ、と言うようなことは決して言われていません。 四箇の格言にしましても、なぜ出たのかというと、すでに日本の仏教はいろいろな派に分かれ、その本質を見失っていたからです。四諦とか十二因縁とか、六波羅蜜などの根本理念を忘れて、たとえば、祈祷をしていれば戦争に勝てるんだとか、念仏を唱えていれば極楽に行けるんだといった安易な信仰形態に流されていたのです。そうした仏教のあり方に対して、「そんな安易なものではない。法門を自分の心身に体得しないかぎり、仏教の本質はわからない」という聖人の一途なお気持ちと、「一番すぐれているのは自分の宗派だ、と言うような思いあがった根性を直せ」という主張とが、実際行動となって現われたのが“四箇の格言”であります。 ですから、聖人が四箇の格言で仏法をけなしたから謗法罪だと決めつけた当時の念仏宗の言い分は、当たらないと思います。もともと当時の各宗派は、自分だけが尊いという考え方を互いに持っていて、仏教の本質から逸脱していたのです。私に言わせますと、そうなったのも祖師が一生の間に、折りにふれて説かれた方便的な言葉に拘泥し、執著していたためです。これはその宗派が最も大事だとしているものを調べてみますと、ほとんどがそうであることがよくわかります。 仏教に流れている教義は一つです。ところが、このお祖師さまだけは特別だと言うことになりますと、弘法大師の場合にしましても、法然上人のことにしても、いいところをとらずに、一番悪い癖の部分だけを後生大事に伝えているということになります。そして、その部分をすぐれたところ、一番いいところとして守っているのが、各宗派の実態だと思うのです。日蓮聖人も同じことを言われようとされたのであって、その具体的な表現が四箇の格言であります (昭和38年05月【速記録】)...
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...本尊観・行法観 一 ご本尊については、日蓮聖人のご遺文中、五大部の一つに数えられている、有名な《報恩鈔》の一節に、「一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩 脇士となるべし」(縮遺一五〇九頁)と明白に、本尊は「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と教示されているうえに、上行等の四菩薩を脇士とせねばならぬと詳しく書き遺されている以上は、曼荼羅を本尊とすべきではないことがわかります。「本門の教主釈尊」はもちろん、法華経の本門の如来寿量品に説かれた〈久遠実成の釈迦牟尼世尊〉です。 しかも「日蓮当身の大事」とまで申された最も重要なご遺文である《観心本尊鈔》には、正法千年、像法千年の過去二千年の間に現われた小乗の本尊は、迦葉・阿難を脇士としたり、権大乗経や涅槃経や法華経の迹門の本尊は、文殊、普賢の二菩薩を脇士とした本尊であったが、末法時代には法華経の本門、寿量品に説かれた久遠実成の釈迦牟尼世尊の仏像が、本尊として出現するであろうと教えられております。すなわち「未だ寿量の仏有ず。末法に来入して始て此の仏像出現せ令む可き歟」(縮遺九四〇頁)と、書き遺されております。現代は末法時代でありますが、この時代の本尊は「寿量の仏」の久遠実成の釈尊でなくてはならぬと同時に、「仏像」でなくてはならぬというのが、日蓮聖人のご本懐なのであります。 (昭和39年10月【佼成】) 本尊観・行法観 二 日蓮聖人はご遺文の中で「三朝にいまだ本尊ましまさず」と言われて、久遠実成の本仏を中心として、四大菩薩による法の展開を示した本尊を祀ったというところが、三朝、つまりお釈迦さまがお生まれになったインドにも、その仏教が伝来した中国にも、そして日本にもないことを残念がっておられます。 また、聖人はその本尊を勧請する時期を待っておられたようです。ところが不幸にして六十一歳で亡くなられました。当時としては短命ではなかったかもしれませんが、ほかの祖師がたに比べますと早く世を去られております。でありますから、もしも聖人が七十歳、八十歳と長生きされていたならば、おそらく久遠実成のご本仏を勧請されたことでありましょうし、その方法もまた、今、私が描いておりますような勧請方法をとられたことであろうと思います。 (昭和33年03月【速記録】) 本尊観・行法観 三 文永九年三月、佐渡の塚原にあって日蓮聖人が、阿仏房に送られた消息に、次のような話があります。その内容は、阿仏房が“宝塔涌現(多宝塔)”のわけをたずねたのに対して、「阿仏房さながら宝塔である」と言われたことです。つまり、「末法に入て法華経を持つ男女の姿より外に宝塔なきなり」と。さらに、「然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此れより外の才覚無益なり」と答えられているのであります。法華経を持ち、その教えのごとく行じている姿が、多宝塔であると言うわけです。つまり私達自身が真理の証明者でなければならないと言うことです。 (昭和39年10月【佼成新聞】) 日蓮聖人も力をこめて叫んでおられるように、法華経の教えをこの世に実現するには、法門の実践ということがなによりたいせつです。積極的な行動がなければ、自分も向上しませんし、世の中も進歩しないからです。ただ、ご本尊を拝するだけで、何もしないでいるとしたなら、結果の現われるはずがありません。ご本尊を拝するたびに、仏意をこの世に顕す決意を新たにし、それを日々の生活に具現しなければ、その意義はほとんどないと言っても過言ではないのです。 (昭和43年09月【佼成】) 本尊観・行法観 四 ご遺文を読んで敬服したことは、聖人はあれだけの悟りの境地に入っていながら、自分は破戒の僧だと言って、微塵も高ぶる様子がないということです。そしてあくまでも現実の人生苦に、まる裸になって取っ組んでいて、とにかくあの《立正安国論》を見ても、日本のその当時の天災、戦災、その他いろいろな問題をほんとうに直視して、そして、これをどうするかという問題を当時の執権につきつけているのですから、大したものです。 (昭和41年09月【佼成】) とくに日蓮聖人ご在世当時の日本においては、仏教というものが、いろいろな形で広まってはおりましたが、その華やかな半面、日本は決して安定した状態におかれていたわけではありませんでした。これを逆に言うならば、日本が不安定な状態にあると言うことは、日本の仏教が、釈尊の教えを正しく実践していないからではないか、といったことから、日蓮聖人は道を求められたと言うことができましょう。実に日蓮聖人は自己の安心と言うこともさることながら、当時の社会不安、政治の不安定を仏教の面からいかにすべきか、そのためには釈尊のご本懐はなんであったか、というところから修行もされ、発言もされたということは、実にすばらしいことであると思うのです。(中略) その点で私どもは今一度、日蓮聖人が大きく日本全体の幸福ということについて、仏教という面からながめ、考えて行くべき道を叫ばれたように、今日の日本の土性骨になるものを、私どもが信仰の上から考え、いかにしてそれを拡大し、大衆に植えつけていかねばならないか、という問題に取り組まねばならないのです。 (昭和39年03月【佼成】) 本尊観・行法観 五 当時の最澄や空海など名僧智識と言われる人々は、みんな中国へ勉強に出かたけものですが、聖人は「あなたも行かれたら……」と言う周囲の人々の勧めに対して「その必要はない」と答えて、こう言っておられます。「海の水が塩辛いことは、その全部を飲まなくても一滴舐めただけでわかる。だから、仏典を見て推測していけば、唐の国に渡らなくても掴むことができるはずだ」。これも立派な見識だと言えます。(中略)それは、ものを自分の眼で確かめ、手で触れたうえで初めて生まれる自信です。そこまでいかないと、あれだけ、はっきりとものを言うことはできません。(中略) 正しく見て、正しく考え、正しく語り、正しい行為をする。そこが大事なのです。法華経の序品に説かれている四諦・八正道の教えが、それにあたります。なかでも八正道の一番目にあげられている「正見」は仏知見に基づいた正しい信仰心を起こすための前提条件ですから、ことさらたいせつなのです。悟りにしても、決して抽象的なものではありません。やはり眼で見て確かめたうえで、初めて到達できるものなのです。 (昭和52年10月【佼成】) 《開目鈔》に「日蓮は法華経の智解は天台、伝教には千分が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び、慈悲のすぐれたる事おそれをもいだきぬべし」と、法華経を身をもって読んでいると言われています。(中略)やはり、経典を身をもって読んだ人と、単に文字だけを読んでいる人とでは、まったく結果が違います。 (昭和51年10月【佼成】) 本尊観・行法観 六 日蓮聖人のご遺文は五百余篇もありますが、その中には非常に簡単なことのように見えながら、実際に法を説いたことのない人には理解できないものもあるのであります。身近な例をとって申しますと、 私ども常日ごろ、一人でも多くの人に法を説いて悟らしめていこうという考え方で、いつも活動を続けている人は、法華経の中には“万億の方便”ということが説かれていますから、あるときは「思い切ってお布施をしてごらんなさい。なんらかの現証が出ますよ」といったことを言うこともありましょう。そしてまたあるときは「お導きさえすればいいんですよ」とか、「とにかく導いてごらんなさい。そうやってお導きした人の行動を見ることによって、あなたが悟ることができるんです」というように、やや乱暴な、受け取り方によっては、法に対して飛躍し過ぎているのではないか、と思えるようなことを言うことも間々あることであります。 たとえば、内職仕事をしている人が「内職はやめて修行に打ち込みなさい」と言われたら“やめてしまったら、収入がなくなってしまうじゃないか”と、分別がつかないまま迷う場合もあると思います。もちろん、内職を捨てて本気でやる気になって、真心から法に挺身するとき、それまでの内職など問題にならないほどの、たくさんの収入が、どこからか入ってくるようになったという体験はいくつもあります。 その人に、過去において積み上げて来たところの修行があり、内職などしていることがかえって“苦”になっているという状態の場合は「内職を捨てなさい」と言うその言葉が、その人にとっては、その人自身の救いになっているのですが、だからと言って、無差別にだれに向かっても、同じことを押しつけるのは慈悲のない言葉と言わざるをえません。内職をやめてしまったら生活に困る、という現実に直面している人に向かって「それをやめなさい」と言うのは適当ではありません。ですから、みんな一まとめにした公式的な言動というものは、たいへんな指導の間違いをしでかしかねないのです。 この違いが万億の方便のゆえんであって、相手の状態によって言い方は無数にあるということになるのであります。したがって、日蓮聖人も「何もわからぬおばあさんには、この言葉でなければしかたがないというような場合もある」と書かれております。このことからしますと、聖人が書き遺されたものの中でも、その場かぎりとして用いられた方便と、どこまでも普遍的な理論との二つがあるということなのであります。この点を見極めていかなければ、盲信になってしまいます。 たとえば、日蓮聖人がまとめられた《四信五品鈔》には、冨木上人が「末法の法華経行者は、どのような心構えで行じたらよろしいでしょうか」と質問されたのに対して、「仏法を学ぼうとする者はまず第一番に、三学を行じなければならない」と、はっきり言われています。相手が、お弟子の中でも指折りの冨木上人であればこそ、聖人は明確な論旨で答えておられるのであります。 随喜、読誦、説法、正行六度、兼行六度というような修行方法については、こういう順序でだんだんと向上していかなければならないんだ、というように論旨がはっきりしたものになっているのです。 その一方で、難しいことを言って聞かせてもわからないような人には、「南無妙法蓮華経を一遍唱えてごらんなさい。そうすれば必ず極楽へ行けますよ」と言ってあげるわけです。また、多くの人の中には、死に臨んで「お題目を唱えながら眼をつぶりなさい」と言われ、喜んで死んでいったという人もいるかもしれません。ところが、中にはそれだけを聞いて「南無妙法蓮華経を一度唱えれば、地獄へ行かずにすむそうだ」と、受け取ってしまう人がいます。日蓮聖人のお口からも、ある人に向かっては、「お題目を唱えれば地獄に堕ちなくてもすむ」というような言葉が出たかも知れません。しかし、それはその場の方便なのです。そのところを私達は、しっかりつかむ必要があります。そしてそれを、法華経の経文の中に求め、多くの人を方便から真実へ導き入れていなかければならないのです (昭和37年03月【会長先生の御指導】) 本尊観・行法観 七 波木井氏に宛てられたお手紙を読むと、物言わぬ馬にかぎりない慈しみを寄せられた日蓮聖人の温かさが心にしみます。病気で衰弱されて、一足も先に進むことのできない聖人のお体を、野を越え、山を越えて黙々と運んでいく可愛い馬……。その背で揺られながら聖人は、動物が人間のために果たす役割の重みと尊さを、しみじみとお感じになったのでしょう。普通、日蓮聖人像は、あの頽廃を知らない果敢な宗教者としての激しい生き方の面だけでとらえられがちですが、その半面にある人間性の豊かさは、数多い仏教の先駆者達の中でも随一だと思います。(中略) そして、子どもの生まれた親には「いい子が生まれておめでとう」と、自分のことのように喜ばれて、“春の野に花の開けるが如し”と便りされていますように、お手紙のすべてに、一人でも多くの人に教えてあげたい、救ってあげたいという聖人の、広やかなお気持ちがこもっています。(中略) 当時の人々の敬愛を一身に集めておられたのでしょう。信者からの届け物に寄せて「満月の如くなる餅を有り難う」と書かれたり、「甘露の如くなる酒ひとつ」とお礼を述べられたり……。つまり、民衆とともに生き、常に喜びや悲しみを民衆とともにされた人であったと言えます。(中略) それでいて、法難には何度も遭われて、生涯をとおして非常に苦労をされておられます。そして、それを乗り越えられるたびに、聖人の精神は、ますます強靱な、確固不抜なものに成長していきます。邪な者に対しては、絶対に妥協しない。どこまでも正法を貫きとおす信念に燃えておられました。人間的な深みも、そのご苦労の積み重ねを経て生まれてきたものなのでしょう。 (昭和49年10月【佼成】) ...
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...立正安国 一 正法を護る──正しい法を堅持する、ということは非常に難しいことです。ところが、この正法護持をまっこうから掲げて、自分の信ずるところを、ためらいもなく発表された日蓮聖人はたいへん正直なかたであったと申し上げてよろしいかと思います。 日蓮聖人の言い表し方は、非常に痛烈であって、時の執権に対してさえも「汝、信仰の寸心を改めて、速かに実乗の一善に帰せよ」と、命令されるような強い語気で言われています。信仰の寸心を改めなければだめなんだ、ということを、七百年も前にはっきりとおっしゃったのであります。 (昭和48年12月【求道】) 政治をほんとうに正しい姿に戻そうという考えを持たれたのは、日本のお祖師さまの中でも、おそらく日蓮聖人お一人であると言って過言ではないと思います。生まれ故郷の千葉の小湊で、法華経を唱えているだけであれば、島流しにもされずにすんだでありましょう。ところが、鎌倉まで出かけて行かれて、鎌倉幕府に対して、政治の悪いところには諸天善神がいなくなる、正しい信仰を持つことによって、善神が集まり、国も栄えるのだ、ということを、時の執権に直言されたのです。そして、それがけしからんというので、幕府では日蓮聖人を佐渡に流すようなことをしたのですが、法華経の中には、そのように国土の成仏ということが言われておるのであります。(中略) したがって、日蓮聖人は、自分だけの信仰を持つのも結構ですが、その信仰によって、行動的に、機動的に立派な国をつくっていこうという考え方を持たなければ、ほんとうの信仰ではない、と言われたのであります。 (昭和52年02月【求道】) 立正安国 二 「それ仏法を学せん者は、ます時を習うべし」と言うのは、《撰時鈔》の中の聖人のお言葉です。仏法を学ぼうとするからには〈時〉をわきまえていなければならない。時の状態を知らずに、いつ何をしたらいいかわからないで、暗中模索しているようであってはいけない。仏法という正法を護る者は、今何をしたらいいかわからないで、暗中模索しているようであってはいけない。仏法という正法を護る者は、今何をなすべきか、今年は何をしなければならないか、そして今はどういう時であるか、についてはっきりとした認識を持っていなくてはならない、と言われているのであります。 そうした意味で聖人は《立正安国論》に示されたように、天候が悪いことについても「政治の悪い国は諸天善神がいないから、悪神が入り込んできてその国をかき回す。そこに国の内乱が起こってくるのである。したがって、他国から攻められたり、水害、風害、飢饉が襲い、疫病が流行するなどの、さまざまな悪現象が出てくるのも、正法に背いているところの時を知らないためであって、その結果としてこういうことが現われてくるのだ」と、おっしゃっているのであります。 (昭和41年12月【会長先生の御指導】) 立正安国 三 私ども信仰者は、正法を守って国を安んじ、住みよい国にしようとする“立正安国”の燈火をともさなければなりません。そのことは、お燈明をともすということにも言えるでしょうし、二十三番の「薬王菩薩本事品」にありますように、自分の身を世のため人のための燈としてともす、という意味にも考えなければならないのではないかと思います。(中略) 日蓮聖人は《立正安国論》に「汝、信仰の寸心を改めて、速かに実乗の一善に帰せよ」と言われていますが、ここでいう“汝”とは、時の執権を指したものであって、ですからこの言葉は、当時の北条幕府に対して言われたものと受け取ってもいいわけです。しかし、もう少し意味を拡げて考えますと、このお言葉は私達全体への警告であると思います。つまり「信仰の寸心を改めて、速かに実乗の一善に帰せよ」ということは、今まで私達が考えていたややこしい一切のものを排除して、ほんとうの実乗の一善に帰れというお諭しであって、そのことが、この言葉一つに結ばれているわけであります。 では、実乗の一善とは、どういうことかと申しますと、法華経に説かれている〈一仏乗〉ということであります。仏さまの説法の順序次第は、いつの場合においても、方便をもって三乗を説いて、最後に一仏乗に帰せしめる、というかたちで説かれています。これは方便品の中にもはっきりと示されておりますが、その一仏乗とは、仏さまの教えを身をもって真剣に行ずることに尽きます。すなわち、菩薩道を修行するということであり、すべての人々に対して「信仰の寸心を改めなさい」というお言葉である、と言えるのであります。 (昭和33年10月【速記録】) 苦悩や悪や矛盾のうず巻いているこの世界を離れて、別の理想世界などというものはなく、この人間世界こそ、かけがえのない道場であり、この現実の社会悪と対決し、これを救うのでなければほんとうの宗教とは言えません。その点、日蓮聖人は立派な人でした。 日蓮聖人が、五濁悪世と言われる、この末法の世を「本時」とし、この現実社会を「本土」として不惜身命の弘通をされたことが、そのまま現代における立正佼成会としての使命にもつながります。 法華経の中心思想は「時」と「処」と「人間」の関係を明らかにした点であり、久遠の本仏釈尊と人間のいのちの永遠であることを説いた点にあります。 つまり「時」とは「命」であり、しかもこの「時」とは、私達人間が現在生きつつあるこの現実そのものであると言うことです。 法華経の「時」とは「生命充実の人格的な時」であり、その努力の瞬間には、過去も未来も現在も一つに含まれ、それは、「久遠の生命」という一本の太い綱につながっています。この「時間と人間の関係」を、釈尊みずからの人格的開顕をとおして、私どもに久遠の本仏釈尊の無量の慈悲を知らしめんとされているのが法華経の「如来寿量品」であり、ここに「世法と仏法」の関係を解く鍵があります。 (昭和41年03月【躍進】) ...
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...信仰者の組織 一 僧伽は、人間の集団形態として最も理想的なものです。まず第一に、そこには利害関係のからまりがありません。したがって、醜い利己心の争いも起こりえません。みんなが「人間完成」という一つの崇高な目的をめざしているのですから、汚れのない友情によって一つに結びつかざるをえない世界です。かと言って、決して消極的な、停滞した世界ではなく、お互いに磨き合い、励まし合い、努力し合っていく、無限に向上を目指す積極的な世界です。 と言えば、何か浮世離れがしているように感じられるかもしれません。たしかに、お釈迦さまのもとにおける僧伽は出家修行者の集団でしたから、そういうことも言えましょう。しかし、お釈迦さまは、そうした人間集団の理想形態を万民の手本としてつくりあげ、その輪をしだいに広げていくことによって、人類全体が僧伽の精神で暮らしていくようになることを望んでおられたのです。 (昭和46年12月【躍進】) 信仰者の組織 二 自分自身の心の安らぎを得たいとか、ほんとうの意味で幸せな人生を送りたい、というような個人的な悟りや救いを求める人の方が、今日でも圧倒的に多いのではないかと思います。そのような人に対しては、どんな道であろうと、同じ道を進む仲間と手を組んでいく方が、ただ独り孤独に歩むよりも、はるかに心強くもあり、より向上もし、より早く道を達成できるものであることを、身近な例をあげて説明してあげるとよいでしょう。 柔道や剣道でも、二人や三人でヒッソリとやっているよりも、やはり、道場へ通って大勢の人達に揉まれた方が上達が早く、ずっと強くなれます。水泳や陸上競技のような個人的なスポーツでも、オリンピックにでも出るような人は、必ず、ある学校とか、クラブとか、そういった団体、もしくは仲間の中にいて練習を積んだ人です。心の修養や向上を目ざす道でも、それと同じことが言えるのです。 なぜかと言いますと、団体の中にあるということは、教えられたり教えたりと言った目に見えるメリット(利点)のほかに、雰囲気の力という目に見えない微妙なものが大きく作用するからです。「麻の中の蓬」という言葉があります。「真っ直な麻の中に生えた蓬は、自然と真っ直に育つ。それと同じように、正しい人間の集団の中に入れば、その感化を受けて、いつしか正しい人間になるものだ」という意味です。つまり、雰囲気というものがどんなに大事であるかを言っているのです。僧伽に入ることの意義の中で、これが最も重大なことだと思います。 (昭和48年03月【躍進】) 個人としては正しくて善良な人間が、組織のなかではなぜ、変化していくのかということを、すこしつっこんで考えてみましょう。 まず第一に、自分の行為に対する正邪の判断と責任の自覚を見失ってしまうことです。 これはつまり、群集心理にひきずられて正邪の判断を失い、知らず識らずのうちに自分の行為の責任を多くの群集へ分散・転嫁してしまっているのです。独立した人格の持ち主として、たいへん情ない、卑怯な態度です。(中略) 第二に、組織のなかで権力を持つ者は、いつしかそれを利己的に用いるようになります。また権力を持たない者は、その権力に媚びへつらうようになり、あるいは保身にのみ汲々として組織悪に押し流されてしまいます。そうなると、組織全体が動脈硬化を起こし、生々発刺たる発展が止まり、ついには衰退の一路をたどるのです。(中略) もちろん組織というものは、物事を大きく推進させていくためになくてはならないものです。しかし、そのなかにある、いわゆる組織悪にわざわいされて、人間にとって最も基本的な良心、人格、創造性というものが失われていくとしたら、人間組織の究極の目標である、幸福と繁栄からかえって逆の方向へつっ走っていくことになるのです。 それゆえ、われわれは、どのような組織のなかにあっても、良心を失ってはなりません。独立した人格としての主体性と創造性を堅持していなくてはなりません。是は是とし、非は非とする判断力と、それを表明する勇気を持っていなくてはなりません。そういう態度は、表面的には組織に反するもののように見えますが、実はその組織の逆行を正し、老化を防ぐ、起死回生の妙薬となるのであります。「いつでも、人間は正直でなければならぬ」と私が叫んでやまないのは、ここのところなのです。 (昭和44年04月【躍進】) 信仰者の組織 三 組織と個人の関係で、もう一つ大事なことがあります。〈自己犠牲〉という問題です。多くの人のために自己を犠牲にすることほど、人間として高貴な行為はありません。六波羅蜜の最初に“布施”があげられているのも、そのゆえであろうと思います。財施は、自己の物質的欲望をある程度、犠牲にして、他の幸せのために財物をささげることです。身施は、自己の労力を犠牲にして、他の安楽のために働くことです。法施は、自己の時間を犠牲にして、他を高めるために奉仕することです。 しかし、自己犠牲が高貴であるためには、純粋に自発的なものでなければなりません。魂の底からほとばしり出てくるもよおしによってなす自己犠牲こそが尊いのであって、もしそこに周囲に対する見栄や、名誉欲や、あるいは報いを求めるような気持ちが混じり込んだならば、その価値は著しく下落します。ましてや、他から強制されてするならば、それはもはや自己犠牲ではなくなってしまいます。 (昭和44年04月【躍進】) 信仰者の組織 四 お釈迦さまの僧伽においては、人々が何によって密接に結合していたかと言いますと、それは友情によってであります。と言っても、単なる遊び友達とか、気の合う友人と言った程度の友情ではなく、人間完成という同じ理想に向かい、同じ道を歩んでいく同志としての堅い堅い友情でありました。 お釈迦さまの僧伽には、いろいろ違った性格・才能を持った人がいました。智慧のすぐれた舎利弗もおれば、雄弁をもって鳴る富楼那もいました。戒律を守ることにかけてはだれにも負けぬ優婆離もおれば、あまり心が優しすぎて人情に動かされやすい阿難もいました。ヤンチャで奔放な迦留陀夷もおれば、箸にも棒にもかからぬバカだった周梨槃特もいました。このように千差万別の人がいたことは、普通の社会と変わりはなかったのです。 ところが、普通の社会と違うところは、すべての人が「この世のギリギリの真実を知る智慧を持ち、世のすべての人々を幸せにする力を持つ人(すなわち仏)になりたい」という同じ目標を持ち、そのためにお互いが切磋琢磨し合うところに生まれた純粋な友情によって、固く結ばれていたことであります。 私どもの社会も、こういう境地を理想とし、その理想に向かって進まなければならないのです。それぞれの人間がみずからの人格を完成し、持って生まれた天分を生かしていき、その立派な〈個〉が集まって立派な〈社会〉をつくりあげることに努力しなければならないのです。(中略) つまり、私どもは個人としての成長・向上を願うのみでなく、その結合体である像伽を理想社会のヒナ型として育てあげ、その事実を基盤として理想社会のあり方を次第に世間へ推し広め、ついには世界中のすべての人々と一緒に救われようと念願するものであります。 (昭和45年04月【躍進】) 個人としての信仰者が常に衆の模範となることを心がけねばならないのと同様に、信仰者の団体は世のもろもろの組織の手本となることをこそ、念じなければならないのであります。 (昭和44年04月【躍進】)...
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...立正佼成会の組織 一 私はいつも「いくら体制を変えてみたところで、その体制をつくっている肝心の人間の心が改まらないかぎり、職場も、団体も、社会も、国家も、世界もよくなりはしないのだ」と言っています。ところがまた、次のようなことも言えるのです。 「いくら人心が改まっても、それが体制のうえに具体化されなければ、結果が現実に現われてくる速度はきわめて遅く、その現われかたもアイマイ不明確である」と言うことです。 立正佼成会という団体をつくったそもそもの起こりも、そういう理念に基づくものであります。内なる心を清め安らかにすることも、信仰のたいせつな一面です。ひとりびとりの人間が、そのような信仰をヒッソリと内に持っていることも、美しいことであり、大事なことであります。 しかし、個人個人がテンデンバラバラにそのような信仰を持っていたところで、それが世の中をよくする現実の力としてどんな結果を現わすかと言えば、まったく微々たるものであり、社会現象としてとらえることさえ難しいほどです。 そこで、どうしても信仰者の組織・体制というものが必要になってくるのです。そういう具体的なものに多人数の信仰のエネルギーを結集し、ハッキリした社会現象として打ち出し、世の人々の耳目を集めることができれば、その展開力は孤立した信仰の場合とはまるで比べものにならないのです。(中略) 仏教そのものは、二千五百年のあいだ揺らぐことなく伝えられた真理の教えであり、今日では、世界の大宗教として万人等しく認めるところでありますけれども、そのなかにおいて、なおかつ立正佼成会が誕生しなければならなかったのも、実にこの組織・体制の力学のゆえでありました。決して異を立てて一党一派をつくろうとしたものではなく、仏教そのものを大きく躍進させるための現実の力となろうとの念願によるものにほかならなかったのです。 (昭和44年01月【躍進】) 立正佼成会の組織 二 人類の歴史を振り返ってみますと、人間が常に望んできたのは“自由”であり、それに加えての“平等”であるということに改めて気づきます。 立正佼成会の組織も、このみ教えがひとりびとりの会員さんに平等に行き届くように、という願いからつくられました。しかし、この会が誕生してから今日まで、組織の力によって会員さんをつくったのではありません。入会されたかた達が、この法門が自由に平等に行きわたるようにと努力された結果、組織が次第に生成されて行ったのであって、無理に形をつくったものではありません。 (昭和44年01月【一心】) キリスト教の場合、二千五百軒の信者を持っている教会は、たいへんに立派な大教会とされていると申します。それと比較して申し上げるわけではありませんが、私ども立正佼成会には、一万世帯の教会もあれば、一万五千世帯、二万世帯という教会もあります。ある意味からすれば、組織体としてまだ充分ではないのではないかという印象もなきにしもあらずですが、実はそこが一般社会の常識とは違って、いいところなのであります。 と言いますのも、立正佼成会では、組織を分割して新たに定めなければならない、という条件がよくよく整わなければ教会としての組織をつくらないようにしております。ですから、会員の皆さんに仏さまの慈悲を同じように行き渡らせるには、どうしても必要であるということになって、後から組織がつくられているわけです。 ここの町には、たくさんの人が住んでいるからとか、将来必ず大きくなるし、発展する町だからと言ったような理由によって、初めから教会を建て、布教して信者さんを集める、といった方法を立正佼成会はとっていないのです。 (昭和50年11月【求道】) 立正佼成会の組織 三 「よい僧伽の成立条件」ということですが、これは何も難しいものではありません。もともと仏教というものは、説く人がわかりやすく説き、聞く人が素直に聞きさえすれば、だれでも「なるほど」と納得のできるものなのです。そしてなるほどと心から納得できますと、それがとりもなおさず“信”となるわけです。 そのような信が生じますと、おのずからそれを生活のうえに表現せざるをえなくなります。つまり、仏さまの教えにしたがってものを考え、判断し、行動するようになるのです。そうしているうちに、自分の心にも、体にも、境遇にも、判然とした変化が生じてきます。いわゆる“結果”が出てくるのです。 そうなると、有り難くて、うれしくてたまらない。自分が救われたのだから、人にも知らせてあげよう──そんな気持ちが自然にわいてきます。そして、純粋な気持ちで熱心に人に勧める。勧められた人は、その熱心さにほだされて「入信してみようか」という気持ちになる。そして、入信してみると、自分も救われる。その人がまたほかの人に勧める───と言った具合に、だんだん輪が広がっていきます。 しかも、みんなが初心を忘れないころは、救われた感激に揺り動かされて、お互いに熱っぽく信を語り合い、人生の悩みや疑問について相談し合い、ガッチリと肩を組んで、お導き活動にも励み、共に人間完成の道を歩もうとするのです。これがとりもなおさず、(中略)「一つの信に結ばれた僧伽」の姿です。 と言えば、「なあんだ。わかりきったことじゃないか」と感じられるかもしれません。しかし、そのわかりきったことが、教団が大きくなり、古くなるにつれ、だんだん行なわれなくなっていったのが、古今東西の既成宗教に共通した成り行きでした。 なぜ、そうなるのか、と言いますと、たくさんの人が集まってくるようになると、教団の古い人達は自分がさも偉くなったかのように錯覚し、神仏の有り難さや教えの尊さに対する感激が薄れてしまうからです。人が集まってくるのは、教えの救いにひきつけられたればこそだということを、つい忘れがちになってしまうからです。 そして、「おれが人を指導するのだ」という思い上がりが出てきます。また、自分自身がどこまでも教えを修行し、実践しなければならぬことを忘れて、人をアゴで使うような官僚主義に陥りかねません。万一、皆さんの心にそんな気持ちがきざしたら、すぐ僧伽の原点に立ち返って釈尊教団の様相を思い起こしてみるといいでしょう。 (昭和46年12月【躍進】) 立正佼成会の組織 四 釈尊教団では、すぐれた人は自然と尊ばれたり、立てられたりしましたけれども、身分の上下というものは一切ありませんでした。これも「雑阿含経」の中に出てくるのですか、自恣と名づけられる反省会のとき、お釈迦さまも修行者のひとりとして「この期間に、私の行為もしくは言葉に非難すべきものはなかっただろうか。指摘してもらいたい」と一同に問いかけておられます。それほど民主的な集団であったのです。 ともあれ、お互いが自分を裸にして見せ合っても、お互いの値打ちがすこしも下がらない、むしろ、そうすることによってほんとうの人間と人間との信頼感がわいてくる、というのが僧伽の真の姿です。 〈ウソをつく必要もない。オベッカを使う必要もない。自分が納得し、信じ、行じて得た体験をそのまま人に話す。その真実は必ず相手の胸に響く。もし間違った言動があっても、それがお互いの切磋琢磨の種になる〉 そのようにして、裸と裸の人間が信じ合い、磨き合う……それがほんとうの僧伽というものです。 ここのところを、よくよくわかっていただきたいものです。 (昭和46年12月【躍進】) 立正佼成会の組織 五 ある宗教学者は「新興教団にも既成化現象が生じている」と指摘しています。組織のマンモス化に伴って、硬直化と老化現象はさけられぬ運命、と説いていますが、私はそうは思いません。会員ひとりびとりがみずからを高め、他者の不幸は見過ごすことができない、という強い使命感を根底に燃えたたせ、時代にマッチした布教活動を行なっていけば、常に清新発刺たる組織を維持し、拡充していくことができるのだと、断言してはばかりません。 (昭和43年08月【躍進】) 立正佼成会の組織 六 一定の方針によって指導をしていかないと、皆さんが迷ってしまうから、一応のわくとしてこの立正佼成会が組織されているのであって、仏教全体から言っても、日蓮宗だ、浄土宗だ、禅宗だなどといつまでも言っているときではないと思うのです。宗教の本質からすれば、それらの全部が一つになって信仰を持ち合っていけばそれでいいと私は考えています。 そうなるまでの段階として、立正佼成会があり、霊友会とか創価学会など、いろいろな教団があるわけですが、その中でどれが一番いいかを選ぶのはあくまでも自分自身です。仏教徒として、真の信仰に生きるには、どの道を行けばいいか、どう進むのがほんとうの仏教かということを皆さんに悟っていただければそれでいいと思っているのです。 (昭和34年11月【速記録】)...
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...導きの親子関係とブロック制 一 今年(注・昭和三十四年)も十二月に入って、立正佼成会として、いよいよ「総括り的」な現象が現われるということになったのです。私どもとしても最もたいせつな問題──すなわち立正佼成会の発展過程におきまして、昭和三十四年の一か年というものは非常に意義の深い年だったのです。その一つの大きな現われとしては、永年の間、懸案となっていた全国ブロック機構の整備ということなのです。このような体制にするまでには会の首脳部において永い時間を費やして、立正佼成会百年の大計の上からみて、よく検討を加えた結果、漸く実施の態勢を整え、明年の春を期して実施の運びとなり、結局これは十二月中には大綱ができて発表をみる段階になると思います。 立正佼成会創立二十二年間の過去を振り返ってみますと、公の機構というものが、本部の下部組織として支部長の下に支部があるという仕組みであったのですが、この支部という組織も、導きの親と導かれた子どもという、人と人の関係が極度に強調されて地域的な組織ということには関係がなかったのです。すなわち、タテの系統ないしはタテの線のみによって貫かれて教勢が進展して来たのです。これは人と人とのつながりという点で、情味のある組織のように見えるのですが、今後、立正佼成会が全国的に大発展を遂げるには、不便な点が多々あり、とくに地方に関係支部員を多数もっている在京支部は、せっかく導いた人々の手を充分にとることができないという問題を常に抱えています。その点、地方道場においては地域という包括態勢ができています。しかし、それでもやはり親支部、子支部の関係がまつわっていて、この関係のために布教上、多くの障害を孕んでいる例が少なくないのです。このような傾向は私ども会の責任者を初め、多くの支部長さん幹部さんも、これを明らかに認めるところなのです。この弊をなくするためには一大英断をもって、情においては忍びなくとも、立正佼成会の教えをより太く、強い線にし、しかも広範囲への布教促進のため、従来の弊を解消する諸仏・諸天善神のお手配をいただいて、おのおのお役の人達によって、今、着々とその大綱が整えられているわけです。(中略) なお、今回のブロック制機構による地域的の組織が完全にできましても、従来の導きの親と導きの子という関係はなくならないということをここに改めて申し上げたいのです。それは導きの親と子というものは所詮宿世の因縁で結ばれているのですから、これはどこまでも関係を保って行くのが当然です。これは立正佼成会創立以来、厳として一貫してきたもので、今度と雖も変わりはないのです。したがって、地域が異なっている場合、組織の中においては別々の教区に属していても、ご命日の日に参拝するとか、家庭的な問題の相談や結びと言ったことは、導きの親が一番よく知っているのですから、適切な指導がしやすいことも当然でしょう。ただし“情”におぼれてしまって、せっかく新しくできた組織を崩すようなことがあってはならないのです。要は本会でやかましいまでに指導している〈道を立てる〉という法の建前から、ご法の親と子の関係は当然断ち切ることはできないものです。 (昭和34年12月【交成】) 導きの親子関係とブロック制 二 立正佼成会の布教方法も、創立以来、今回のような大きな改革はなかったにしても、過去二十二年の間にはかなりの変化が見られるのです。私はあえて申しますが、教団創始以来現在までには決して旧態依然たるものの連続ではなかったはずです。 立正佼成会という教団の歩みが、かりに十年一日の布教方法に甘んじていたとしたならば、今日二百万に余る会員を擁する大教団としての教勢を見ることはできなかったろうと思います。そこには顕著な変化としては眼にうつらなかったとしても、必然的に戦中戦後に亘り、またはその機に応じ、折りにふれて、根本的な布教方法にも絶えず改革が試みられていたのです。ただ総体的に言って、会員の機根の向上が著しかった結果として、大小さまざまな問題なり、修行なりがぶつかっても、これによって動揺をきたしたということは一度もなかっただけです。(中略) 立正佼成会創立以来、教団本部の下部組織としての支部、系統、関係などの指導の仕方は、元より立正佼成会独自のものでありました。しかも、それはそれなりの大きな業績を残し、たしかに今日、二百有余万の会員とともに手を携えて修行しうるに至ったところの、きわめて強固な基盤を築いたものと言えましょう。しかし、この支部、系統という下部組織の「タテの線」のみが余りに強調され過ぎた結果、自分の所属する支部や系統以外の、会員相互の交渉はすべてにおいて積極性を欠き、極端に言えば、同じ立正佼成会の会員でありながら支部や系統が違えば、布教や指導の面においてもきわめて消極的であった事実を否定できないのです。 このことは、ひいては支部の性格自体についても言えることで、系統なり関係なりが異なれば、横の線が埋没弱化され、布教の面に大きなマイナスになっていた場合もあったようです。これでは異体同心をモットーとして来た立正佼成会創立以来の本旨にも添わないことで、ここで大きく脱皮して、教え本来の姿をクローズ・アップし、全国地域ブロック制の組織を確立して「タテ」、「ヨコ」ともに均衡のとれた緊密な連繋を保って、強靱な教線を張っていく必要に迫られたのも当然であると言えるのです。 とくに地方支部や連絡所においては、従来、在京支部所属の会員も多く、いわば寄り合い世帯の観を呈し、これに対する幹部の手のとり方が不徹底になりがちで、ご法の真意が末端まで届かないというマイナスもあり、加うるに地方にあっては一支部単位の世帯数は二千位が指導の限界にもかかわらず、三千、四千、あるいは五千という世帯の人々を指導し、幹部の数が極度に少なく、また、せっかく幹部がいてもご法の体験の浅い人が多いため、自然、個々の会員に対する指導に、はなはだ不充分なものがあった点についてもまた、大いに反省すべきでありましょう。 こうした欠点に鑑みて、全国を教区制ブロック組織にすることに踏み切ったのであります。したがってこの組織替えによって生じた有能な人材は、やはり全国的に適材適所に配置替えできる結果ともなったのです。 (昭和35年01月【交成】)...
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...組織と役職 一 僧伽は理想社会のヒナ型ということの一面があります。釈尊教団でも、智慧なら舎利弗、説法なら富楼那と、それぞれの面にすぐれた人がおり、そのすぐれた面がよく生かされていました。とりわけ忘れてならないのは、ホウキを持たせたらだれにも負けないという周梨槃特のような存在もいたということです。周梨槃特が祇園精舎の講堂をきれにい掃除しておったればこそ、お釈迦さまも気持ちよく説法できたことでしょうし、聴衆もスガスガしい気持ちで法を聞くことができたのでしょう。掃除と言えば下等な仕事のように考えられがちですが、とんでもありません。舎利弗や富楼那や目連や迦葉の働きと、どっちが上とも下とも言うことはできないのです。 だれしも、すべての面で完全だという人間はいません。頭がよくても力がなかったり、器用ではあっても企画力がなかったり等々、そうした中途半端な人間が集まって、ひとたび社会というものをつくれば、たちまちみんなが一人前の人間となる、これが社会というものの真骨頂であり、有り難いところなのであります。ここのところを忘れてはなりません。社会の一員であればこそ、自分は一人前の人間なんだということを──。そのことがハッキリわかれば、自分の持ち前を充分に発揮し、自分の役割を精いっぱいに果たすことこそが、自分を生かし、社会をも生かすゆえんであり、それがほんとうの人間の生きがいだということが、腹の底から納得できることと思います。 それを納得できた人が、とりもなおさず仏法を納得した人なのです。仏法とは何も特別なものではありません。人間存在の真実を諦め、人間の生きがいはなんであるかを教えられたものなのですから……。 僧伽の中でそれぞれの役を持っている人は、背伸びすることもなく、人の思惑を気にすることもなく、とらわれない心でその役を遂行していけばそれでいいのです。それがどんなにか、その人自身をも生かすことになるかは明白なことです。また、そんな人には、必ず多くの人がついてきます。 (昭和46年12月【躍進】) 組織と役職 二 平等を第一義とする仏教教団にあって、なぜリーダーだ、人材だとさわぐのかという疑問を持たれるかたもありましょう。しかし、仏教でいう平等とは、決して機械的な平等ではありません。平等だと言っても、老人も、青年も、才能ある人も、ない人も、無差別に取り扱われたのでは、社会の秩序が成り立ちません。立正佼成会においても、教団の内にあったとしても、職業や地位は異なるにしても、男性は男性として、女性は女性として、それぞれの個性や特徴を、伸ばし切ることのできる体勢と方針がなければなりません。したがって、平等の社会だからと言って、正しい意味での差別までもなくするようなことがあってはならないと思います。おのおのが、その分に応じ、その分を尽くして活動し、しかも、お互いに他人の能力をよく理解し、尊敬し合っていくような立正佼成会でありたいのです。こうした真の意味での平等を原理とし、自由をよりどころとしてつくられる教団は、当然「平和」の教団であり、真の平等が実現されることによってこそ、生きがいのある教団となります。 (昭和39年10月【躍進】) 組織と役職 三 皆さんにとって、連絡がとりやすく、なるべくやっかいがなくて、すべてのことが平等に行き渡るようにと、言うことからつくられているのが組織です。それによって人を動かす、という考え方よりも、それがないと皆さんに平らに手が届かないから組織ができるということです。ですから、そのためにみんなが振り回されたり、組織があるために邪魔になる、と言うようなことになりますと、かえって困ったことになってしまう可能性もあるわけです。 そういうことで、この立正佼成会では会員の皆さんが、力量を充分に発揮できるようにということで、研究に研究を重ね、現段階ではこれが一番いいだろうという方法を選んで、組織をつくりました。その意味では、自分には身分不相応であるとか、反対に、役不足であるとお考えのかたもおられるかもしれません。また、そうしたお役の過剰や不足を補うために、今後も多少の変化があるかと思いますが、私どもはお互いさまに、菩薩道を行ずる者であります。私どもは、どの役がいいとか悪いとか、上だとか下だとか言う以前に、与えられた役を自分の良心に恥じないよう、実践できるかどうかということの方を自分に問うべきであります。その上で、自己の使命をほんとうに果たしていくことが一番尊いことだ、と私は考えております。 (昭和40年04月【速記録】) 組織と役職 四 会の中でも、よく異動が行なわれます。しかしこれは、一般社会の異動とはいささか性格を異にしているものであります。 と言うのは、能力中心主義とか、成績第一主義とか、論功行賞といった意味からは遠くかけ離れたものであると言うことです。宗教活動における個人の能力とか成績というものは、よほど大きな、そして永い目で見なければ判断できないものであって、たとえば、ある人がある場所においてめざましい成績をあげたからと言って、それは前任者のかくれた努力によって培われた土壌の上に、ようやく時を得て咲いた花であるかもしれないのです。 ですから、俗世間のように、現象に現われた成績だけで、人事を即断することはしたくありません。教団内の異動は、一応は適材適所の理念に従いますけれども、必ずしもそれのみによるものではなく、あくまでもそれぞれの人間を開発し、成長させ、そうすることによって全体的に、底の底から教団の活動を盛り上げていこうという意図によるものであります。迂遠なようですが、それが僧伽としての正しいあり方だと信じます。 釈尊教団においても、智慧第一の舎利弗とか、説法第一の富楼那とか、それぞれの適材が適所において活動したのですが、その前に、すべての人が比丘としての高い水準に達し、全体として教団を盛り上げていたのです。 皆さんも、やはり同様な立ち場にあると自覚しなければなりません。職場人である前にまず信仰者であるという自覚です。ですから、どのような役を与えられても、その仕事の主人公となり、創意工夫をこらし、情熱をうちこんでいくべきであることは当然ですけれども、一般社会人のようにそれで能事終われりとしたのでは、世間の一歩先を行く宗教者として恥ずかしい懈怠であると知るべきです。 一信仰者としての修行、慈悲の菩薩行、これはいかなる場合も忘れてはなりません。「自分は信仰者である。如来と直結しているのだ。如来は自分のなかに生きている!」───この意識を、常に念頭に目覚めさせておいていただきたいのです。そうでなくては、真の意味で教団の仕事を立派に果たしていくことはできないからです。 (昭和41年04月【躍進】)...
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...幹部という役 一 組織を活かすも殺すも「人」にあるとすら言う人もいます。 利益で結びつく企業と異なり、本会の組織は仏教精神による人間改造を根底とした平和社会を樹立しようとする、崇高なる目的のもとに生まれた組織です。したがって、言行一致の誠実さと慈悲が、すべての活動の基本とならなければなりません。しかも、それをリードする会の幹部や各リーダー自身が常に情熱をもって、会員の先頭に立つことによってのみ、真価を発揮することが本会の組織の特徴と言えます。 本来、組織とその運営とは別のものであって、組織そのものは生き物ではありません。組織図の上で、いくら立派な組織であっても、その運営を誤れば逆に活動の妨げとなりかねないのです。 いわば「人」あっての組織なのです。したがって、本会のあすの明暗、ひいては日本宗教界の明暗は、本会幹部の成長いかんにかかっていると言っても過言ではないと思います。 (昭和40年03月【躍進】) 信仰はあくまで人間を対象としたものです。ですから立派な指導者がいれば、その支部はどこまでも伸びていきます。ところが「あんな人が幹部では……」となると、せっかく入会してきた人も退めていってしまいます。幹部の選定と、人間関係はこのようにとくにたいせつなのです。 (昭和37年12月【会長先生の御指導】) 幹部という役 二 幹部になられた皆さんは重大な責任を担っておられます。それをまずはっきりと自覚し、与えられた責務を完全に果たすことが、すべての活動の根元でなければなりません。仏教の言葉で言うと、それは“仏性の自覚”です。自分の義務を全うしようとする信念もそこから生まれてきます。 世間的に言えば、幹部としての役をめぐっていろいろ重みがかかってくるのですから、荷やっかいで、迷惑だと言うことになるかもしれませんが、実はそうではありません。仏法の教える真の悟りも、そうした使命感を持って、ひとりひとりの人間の本質をきわめていって初めて得ることができ、心から安心して歩んでいける道が開けてくるのです。自分の道を開くということは、実に大事なことです。仏教徒であるからには、「だれかから来いと言われたから仕方なく引っぱられて来た」「誘われたからとにかく入会した」「導きの親に小言を言われるからお経もあげているし、道場にも出かけている」などというのはまことに情ない状態ですし、またあるまじきことと言わなければなりません。 世の中の見方にしても、今こういう状態の中にあるのはなぜなのか、と真剣になって考え、家の中で起こった問題にしても、それはどうして起こったのかと追究していく、というようにすべての現象に対して積極的に取り組んでいくことによって、家の中も平和になり、隣近所の人々とも協力してほんとうに住みよい世の中をつくり合っていけるのであります。ですから、みんなが望んでいる光明に向かって、自分は一歩ずつでも前進している、喜ばしい世の中、楽しい生活ができる状態にするために自分は真剣になって努力している、という自覚に立つことがなにより大事なのであります。 (昭和36年02月【速記録】) 幹部という役 三 支部長さんがまず、すきっと頭を切り換えてくださると、信者さんの方もたちどころに変わってまいります。中には、会長はあんなことを言うけれど、そう簡単にはいかないよ、などと言われる人がいるかも知れません。仏教に〈一念三千〉という教えがありますように、一念が三千に現われてくるのですから、自分の心を変えてかかれば、信者さんも変わらないはずはありません。これが因果の道理なのです。もっとも支部長さんは、物事を頑固に押しとおすくらいの迫力を持っていなくてはいけません。その意味では、旧態依然としたかたちの頑固さも、それはそれで結構なことと言えるのですが、その一方で、信者さん達の言おうとしていることに、耳を傾けられる余裕を持っていなくてはなりません。自分のやることはなんでも間違いはないんだ、と言い切ってしまえるものではないのです。やはり、人の要望を聞いてあげられるだけのゆとりのある頭の持ち主でないと、支部長の役割を果たすことはできません。 (昭和42年05月【速記録】) 人の意見をいつでも素直な気持ちで聞いてあげられるような人間でないと、指導はできないのです。むしろ指導とは、たくさんの人の意見を聞くことだと言ってもいいでしょう。「自分は支部長なんだから指導してやろう」などと考えているようでは、人の指導はできるものではありません。たくさん意見を聞いて、その中の一番いいところをとりあげていこうとすると、それがそのまま指導になるし、そう思っていると楽な気分でいられるのです。 (昭和42年03月【速記録】) 幹部という役 四 幹部の皆さんは、ご法の話だけをしていればいいのではありません。それだけで事はすまないのです。集まってくる人達のすべては、そこにいる幹部の皆さん自身の姿を見つめています。ですから法の話にしても、それがすばらしいものであり、人々から賞讃されるような、上品で高尚なものに昇華していかなくてはなりません。信者さんがどんどん集まってくるにつれて、法を説く人の信仰の営み、教団の幹部としての営みのあり方が、大衆の目に映っていくのです。やはり立正佼成会の幹部さんは立派だ、事務所にいる人も実にすばらしいと、皆さんから言われるようでなくてはなりません。 (昭和38年09月【速記録】)...
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...幹部の行住坐臥 一 決して忘れてならないことは、立正佼成会は営利を目的とする企業体ではなく、宗教団体であると言うことです。私達は仏教徒なのです。 なぜ、このようなわかりきったことを再確認するかと言うと、幹部の中に仏教徒であるための根本的な成立条件である五戒・十善戒を守っていない人が見うけられるからです。いかに立派なことを話しても、足もとの修行を怠り五戒・十善戒すら守れない幹部がいては、会員間に不信感が生まれるのは当然のことでしょう。会員相互のゆるがぬ信頼感は日常生活での行動を通じて積み重ねられていくものです。説法の場でいかにたくみに法を説いても、日常の行為にそれが裏書きされていなければ、かえって口先だけの偽善者としての印象を与えてしまうことになります。 ことに単身、遠方の布教地に赴任する幹部は家庭的団らんにも欠け、さみしく思うこともあり、ときには気持ちがゆるむこともありがちでしょうが、それだけに、心して率先し、仏教徒としての範を示すよう精進してもらいたいものです。その上、さらに注文を申しあげるなら、おしなべて幹部たるものは、苦労をまっ先に自分が引き受け、その功績は部下にゆずる、というような人でありたいものです。この辺にもご留意をお願いしたいと思います。 本部や幹部に対する会員の不信感は多くの場合、コミュニケーションの不足から発生するものですが、これは機構を整備することによってさけられます。しかし、幹部そのものに対する不信感は、いかに合理的に機構を整え、制度を充実させてもぬぐい去ることはできません。幹部は組織を活用する英知を持つとともに、五戒・十善戒を守り、率先して努力し、この人の言うことならついていける」という信頼感を持たれるよう努めねばなりません。 (昭和43年08月【躍進】) 幹部の行住坐臥 二 もう二十何年も前になりますが、妙佼先生ご在世のころの会員達は、それこそ、火花を散らすような修行を続けたものでした。行往坐臥、人を救うということを徹底してやったのです。私などもピューピュー、風の吹きすさんでいる中を、妙佼先生を自転車の後ろに乗せて、方々を飛んで歩いたものです。そんなときは自転車を降りても、寒さのために足の感覚がなくなってしまっていて、しばらくこすって暖をとってからでなければすぐには歩き出せないほどでした。 しかし、そういう努力をすればするほど、神さまは神力を現わしてくださったのです。与えていただいた功徳力は、われわれには想像も及ばないほど大きなものでした。ところが、いい加減な行をして怠けていると、功徳もたちまちいい加減なものになってしまいます。お導きもなかなかできないようになるのです。最近も、思うようにお導きができないという声を聞きますが、それも行往坐臥の修行の持っていき方の違いによるものではないかと思います。まだ信仰生活に入らない人、立正佼成会の会員ではない人達に対する私どもの心構えが違っているわけです。今の時代を考えてみても、救われる道を一生懸命になって探し求めている人は、たくさんいるはずです。ですから、私どもが心構えを固めてそれらの人々に、「このとおりに修行すれば、こんなに幸せになります」とはっきり証明してみせられれば、世の中の人達は先を競って立正佼成会に入会してこられると思うのです。 (昭和51年12月【求道】) 幹部の行住坐臥 三 時間にきちんとしていることも大事です。何時に集まると決めたら全員がその時間に集まるようでないといけません。それには、自分から時間をしっかり守らなければなりません。教会長が何時に来るかわからないとか、九時のご供養に来ていない、というようなことでは、「何時に来なさい」と言ってもだめです。教会長がいつも一定の時間に来ていてこそ、遅れてきた人にクギをさすことができるのです。また、遅れて来た人が何も言わない前から、顔を赤くするくらいでなければいけません。そのためには日ごろから「修行はつらいものなんだ。だからぴしっと筋のとおった正確さがたいせつなんだ」とバリバリ気合いを入れてやっていくようでなくてはならないのです。 (昭和52年【求道】89号) 幹部の行住坐臥 四 人の前に出るとき、支部長さんはいつも元気な顔をし、しかも健全な気持ちを持っていなければなりません。たしかに支部長さんは日ごろ、相当の無理をされておられることでしょう。私はこれまで、その無理を平気でとおしてまいりましたし、無理をすることによって、昼夜常精進ということにもなるのですが、やはり人に対する接し方がそのとき、そのときで変わってしまうようではいけないと思うのです。 ですから、四時間も五時間も人になんとなく接しているよりも、一時間でもいいから元気な明るい顔を見せてあげた方が、信者さんに対する影響力も大きいでしょう。生きている以上、朝から晩まで顔を飾っているわけにはいきません。石のお地蔵さんじゃないのですから、時間が長びいてくると自然にくたびれた顔にもなるものです。それにまた、コンディションづくりも大事です。たとえば、朝九時から十一時までの二時間は、だれがどんな問題を持ち込んできても、健康な体と健全な心でそれを取りあげることができるような状態をつくりあげておいて、一つ一つに、びしっびしっと決まりをつけるのです。その時間が過ぎて、少々疲れたなと思ったら、さっと位置を変えて、奥に入って体と心にゆとりをつくるのもいいでしょう。 支部長さんによく認識していただきたいのは、そうした要の部分を決めていくことです。信者さんに伝えるべき大事なことがあったら、箇条書きのような正確さで要領よくきちんと言う。朝九時の朝礼に出ると決めたら、必ず出る。当番のかたが六時にお経をあげるときにも、顔を見せるようにする。こうしたことも、時間を上手に生かして使うように心がけていますと、きちんとできるようになるものです。 考えてみますと、信者さんの三世の因縁までを掘り下げて、悪業の因縁を取り去ってあげるのが支部長さんのお役なのですから、本来からすれば、一日に三時間もやればいいと思うのですが、現実はそれをなかなか許してくれません。したがって、六時間から八時間はやっていただかなければならないことになるのですが、仮に八時間としますと、午前と午後がそれぞれ三時間ずつで合わせて六時間、夕方七時からの夜間法座があるとしたら、その二時間はしっかりと気を入れて、堂々と法を弁じるといったかたちになりましょうか。そのあいだの時間は、体を休めるためにあててコンディションをいつも整えておくことが大事です。 (昭和36年05月【会長先生の御指導】)...
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...幹部の育成 一 案外、男性の教会長のところには、あまりいい幹部ができないようです。それはいったいなぜなのか。そこを考えてみますと、女性の方は、いったんこうだと思ったら自分のばかをさらけ出してでも、それにぶつかっていくのですが、男性はそうした場合、常識にはずれるかと思って凡夫の根性を変えようとしないわけです。物事は上手にやるのだけれども、しっかりと足が地についていないから、指導もふわりと宙に浮いたかたちになってしまって、満足な信者育成ができなくなってくるのです。凡夫の心を直すためには、しゃくにさわって怒ってもいい、たとえけんかしてでもいい、それをも辞さないというほどの決定を、自分がまずしたうえで、相手の人の根性をたたき直すために取り組んでいくのです。それだけの迫力をもって対処していけば、必ずしっかりとした幹部が育ってくるものです。 (昭和52【求道】89号) 幹部の育成 二 支部長さんの中には「自分はどうも外交が苦手で……」と、くよくよしている人がおられるようですが、そんなことは心配しなくたっていいのです。要は、外交上手の人をつくればすむことです。素質のある人を見つけて「こうすればこうなる」「こう言えばこうなる」ということを体験させるのです。その場合、いちいち米粒を拾うようなとがめ立てをしたり、あまり細かい指導をしてはなりません。 そうして体験させながら「責任は支部長の私が負うから、代わりにこういうことをやってきなさい」と言うと、まかされた人も、支部長さんの代わりを務めるのだから凡解の話ではいけない、と自覚して、相手が納得するように真剣になって話し、責任を果たしてくると思います。要は支部長さんがその人を信頼し、常に親身な温かい触れ合いを持ちながら、お互いに気持ちの通い合う間柄になることです。支部長さんがそのように心がければ、相手の人も立派にお役を果たしてくださるでしょうし、またそれによって支部長さんにも、それがどういう分野からの質問であってもすっきりした態度で、相手の人に意志を伝え、話してあげることのできる智慧が授かると思います。支部長さんが「あの法座主はだめだ」とか「この青年部はだめだ、壮年部も満足じゃない」などと言うことは、自分がだめな人間である、ということを語っているのと同じです。相手をどこまでも信頼していくということは、自分もまた人から信頼される立派な人間であると言うことなのです。 (昭和40年07月【会長先生の御指導】) 幹部の育成 三 何事も先の者が先輩なんだと一率に決めてしまうと、伸びない部分が出てくるものです。順序からすれば、先に仏さまにお弟子入りした人を、一応は先輩として立てるべきでしょうが、指導者としての立場からしますと、先に入った人が必ずしも、その器であるとはかぎりません。そこをよく見極め、決して感情的にならず、気持ちよく話し合ったうえで「この人に代わってもらえばうまくいくだろうし、私にとってもその人がいた方が有り難い」というような合意のムードをつくっていくことがたいせつです。 しかし、そうした頭の切り換えがうまくできない人を、法座主として使える人間に育てるには、陰に呼ぶなりして率直に注意し、根性の入れ換えを強く促すようなことも必要なわけです。また、中にはいくら言われても頭の切り換えもできないし、さりとて現在のお役は去りたくないという人も、いないとはかぎりません。そんな場合には、加減しながら遠回しに言ったりしないで「あなたの一番いけないところはここなんだ。そこを直していけば法座主も務まる」と、直接に、はっきりと指摘するようにすることです。そのようにびしびしやっていけば、ちゃんと直るものです。 それに、相手がどうしても法座主をやめたくないと言うのであれば、担当する町を分けて、「ここまでは今までどおりにあなたがやって、ここから先の地域はだれそれさんに渡しなさい」と、その人の面目を立てながら、新しい法座主に一定の地域を、どんどん伸ばすようにするという指導もあるはずです。そうすることによって、それまでの法座主も「私のときは伸びなかった地域が、あの人に変わってからあんなに伸びている。これは私がどこか間違っているんだな」と気づいて心を直し、拍車をかけて精進するようにもなるのです。立正佼成会は成長のさなかですから、幹部はいくらいても足りません。一般の信者にはりついて、いろいろなことを言っているよりも、ちゃんとした幹部をつくるために、ため直ししながら育成していくことが、支部長さんのお役なのであります。 (昭和41年12月【会長先生の御指導】) 幹部の育成 四 ある時点では、法座の空気なんかなっちゃいないじゃないか、と言った批判が、青年部や壮年部の中に出てくる場合もあるかもしれません。そのとき、さあたいへんだ、とあわてて対抗しようというような意識が出るようではだめなのです。そうした意見を言うような人は、またそれだけの張りを持っています。そのために奮闘もしようとしているのですから、その思いを汲んであげて「たしかにそこは反省すべき点だ」というように、大きな気持ちで受け入れられるようでなくてはなりません。 つまり、文句を言いにきた人の意見を聞くとともに、「今あなたの言ったことを、これから打ち出していくにはどうすればいいか、一つ智慧を貸してほしい」というように、いろいろな相談をしていくのです。すると、勢い込んできた人も「支部長をへこませてやれ、というつもりで出かけたけれども、支部長さんには負けたよ」ということになる。そして二、三か月経つうちには「あのとき、支部長さんに言った計画どおりのことを、自分はその後、何回となくやってみたけれど、なかなか思うようにいかない。やはり支部長さんが考えておられたことの方が正しかったんだ。それに気づかず自分が偉そうに文句を言ったのが恥ずかしい」ということにもなってきます。それを初めから対立して、けんかしてしまったのではこうはいかなくなります。こちらが突っぱねると、相手もこれじゃ話にならんと腹を立てて、「何も壮年部なんか一生懸命にやることはないんだ」ということになってしまいます。 (昭和42年05月【速記録】)...
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