不退転の精進
先ほど杉山さんの言葉の中から本化の菩薩と迹化の菩薩の話がちょっとありましたが、それは本化と言っても迹化と言っても別に印があるわけではございませんで、自覚の問題であります。本化というのは十五番の従地涌出品の中にありますように、精神がもうはっきりと菩薩道に向いておって、どんなことがあっても不退転の精進がちゃんとできる、そういう心構えの方を本化の菩薩というわけです。迹化の方は、調子のいいときはいいけれどもうっかりするとまだにわかづくりで、つけ焼き刃のところがまだある。いつどうなるかわからない。
うちの家内が大変最近そういう点は大人になったなあと私は感心をしてるんですが、迹化と本化のことを言うといつもごきげんが悪かったんです。ところがごきげんの悪いうちは迹化だ、本化だなどといって、意地悪を言われるのでありますが、自分が迹化の状態であることを自覚をいたしまして「私は本当に迹化ですね」とこうわかってくると、そのときから本化になってしまうわけなんです。仏教というもの、ご法というものはそこが不思議なんで、迹化になり切れば本化になれるんです。ところがなかなか「おれはもう本化だ」と。「修行はおんなじように年月をやったんだからまんざらでもない」と、こういう気持ちのうちは迹化そのものなんですね。
お釈迦さまの奥さんは、羅睺羅というお子さんを一人生んだというインド一の美人です。この耶輸陀羅妃を浄飯王さまがごらんになっているわけですが──息子は出家をしてしまってうちにいない。そして六年間とにかく苦行をされて、だんだん行が激しくなって、それこそ水の中へ入っておったり、一日に米を一粒しか食べないというようなことをしたり、あるときには断食をして幾日も食べないこともある。そうしたいろいろなうわさが浄飯王さまのところへ入って来るわけであります。それを聞いている奥方は、だんなさまがそういう修行をしてなさるならば私もその修行をあやかろうというので、同じことを城の中でやった。ご飯を食べないで一日一粒だというと、一粒のご飯だけでやはり奥方もやっておった。そういう奥方の姿を父である浄飯王さまは見ておった。そしていよいよ悟りを開くと第一番目に自分の城下へ帰って来て、そこから説法を始めたわけであります。
そういうときに浄飯王さまが、非常に嫁を気の毒だと思ったんですね。「おまえがこういう行をしていると言えば、そのとおりの行をみんなうちで嫁はしておったんだぞ」と。「だからまあやわらかい、少し温かい言葉をかけてやってほしい」というので、うちへ帰って来たものですから親心でさまざまのことを言ったのです。もとのよりが戻るんじゃないかとこうまあ親心で、嫁をかわいがってくれたらよかろうというような気持ちになったわけです。ところが全然そういうことにならずに、出家をしたのであるからというので夫婦ではなくて、もう弟子であるということで、一向にこれはもう夫婦としての温かみがないわけであります。浄飯王さまは、そういうことを非常に気の毒だと思っておる。