ところが、当時はなかなかまっすぐに聞けない人が多いものですから、妙佼先生のことばが痛く聞こえるのです。痛く聞こえるのですが、真実ですから、いわれたとおり実行すると結果がでます。
そのように、妙佼先生のご法は、いまのように、ゆうちょうな朝寝坊したために時間に間にあわないなどはありませんでした。
私の現在の住まいは阿佐ヶ谷でございますが、当時、岩船さんの家は鷺の宮で、私の住まいより八町か十町ぐらい離れておりました。そこから朝早く電車がとおらないうちに、現在の旧本部まで歩いてくるのです。
いま、皆さんは乗物ばかり当てにしているから混んでいてこられなかった、とおっしゃるが、当時は決められた時間に行こう、という人は朝早く起きて、寒修行には五時にきましたし、ご命日の九時のご供養に時間に遅れてくる幹部はおりませんでした。そういう修行をすることを、どうでしょう。
『如来寿量品』に「一心欲見仏。不自惜身命」と、いうことばがございます。「一心に仏を見たてまつらんと欲して。自ら身命を惜しまず」――仏さまを見よう、という願いを一生懸命にもっているならば、からだを惜しまない、ということです。
仏さまを見たてまつらないと、信仰にはいっても意味がありません。それが私どもの願いであり、また仏さまの本願でございます。
仏さまの本願――それはわれわれのほうでも誓願をたてて努力しておりますが、「われと等しくして異なることなかれ」と、いって業障な者を「仏にしよう。みんななれるんだ。なってほしい」――これが仏さまの本願でございます。