だれでもが仏になれる
法華経の修行というものは、皆さんもご承知のように、お経を読んでみますと、難信難解と書いてあります。
難信難解というのは、解釈のつかないものかと申しますと、そうではありません。
法華経には、法華七喩といって、七つのたとえがございます。
あの七つのたとえをお読みになると、仏さまが、いかにじりじりしてわれわれをみていらっしゃるかがわかると思います。
われわれは、生まれながらにすばらしい因縁をもち、みんな仏になれるのに、自分がなすべきことをしないで、迷い苦しんであがいているのです。早く「仏の子だという自覚に立て」と、七喩の各所に示してくださっております。七つのたとえを読んでごらんなさい。そんなにむずかしいことではありません。
だれでもが、自分の心の奥には、まともに仏さまにご面会できるような仏心を持っているのです。
半面、その仏心をみんな濁らして、色めがねで見るような魔の根性があるのです。そのために、せっかくの仏性が陰へかくれてしまい、仏性以外のものが表へあらわれているのです。
ゆえに、なまけたくなったり、横着になったり、かってな熱を吹いたりしているうちに、自分がだんだん苦しくなって迷っているわけであります。
そうしたことを仏さまは見とおしていらっしゃって、早く「仏の子なんだという自覚に立ってもらいたい」と、じりじりしてお待ちになっているわけであります。ところが、それをなかなかわかりません。
業障の人は、「私は業障で、ハナ持ちならない」と、いうのを看板にかけているのですが、自分の心をなおそうとしないのです。
それを、一方から申しますと、仏さまのお慈悲をだんだん強くいただいて、試練を越え今日になりますと、渋沢さんのように因縁は悪かったけれど、いまはこんなに幸せになった、ということになるのです。