今日のような時代でこんなにぜいたくで横着なことをいっても、それが通るような時代に、そんなに病気になるはずがないのに、たくさんの人が病気になっておる。これは「欲の入れ物には底がない」という言葉がありますが、底がない、桶の底が抜けている。あるいは袋の底がない、これはいくら入れても溜まりませんね。欲の入れ物には底がないんだそうであります。
ですから、まず私ども信仰者は欲を離れるということが無理であるならば、欲の入れ物の底だけでも入れたらいいんです。貯金と同じように、このくらいでいいというような底が入っていれば、どんどん入れたらいっぱいになってしまう。いっぱいになったら、もうこれぐらいで、ひとつほどほどにということになるわけです。欲を捨てるということが、この盂蘭盆会の一番の大事な意味ではないでしょうか。(拍手)
目連尊者の物語を聞いて、ああなるほど、お盆というのはこういうものかということで大切にする。それも一つの方法でありましょう。しかし仏教というものは、現実のなかで生きている私どもに対する教えなんです。みなさんに因縁という関係を教えるのには、先祖との関係から教えるのが一番いいわけです。これはもう誰でも親のない人もいなければ、そのまた親のいない人もないわけで、みんな先祖になっているわけですから、その意味では、先祖供養ということには誰も腹を立てる人はいないし、文句をいう人もありません。
しかし仏教の本来はどうかというと、生き方を上手に生きる──もう一歩いうと、生きてしまっておるんだから、死に方を上手に死ねというのが、仏教の奥義である。生き方を上手に生きなさいということを、もう一歩いうと死に方を上手に死ななくてはならない。「臨終のことを習うて、後に他事を習うべし」という日蓮聖人の言葉は、それをいっておるわけです。生きているんだから必ず死ぬのであります。その死ぬのにですね、為すべきことをちゃんとして、安心して死ねるようなことにならなければいけない。それを教えたのが仏教なんです。
生死という──お経を読んでみると、第一番に仏さまは四諦の法門を説いて、「生・老・病・死を度し、涅槃を究竟せしめ」と、最初に出てきます。この生・老・病・死です。生まれてから死ぬまでのことです。これが一番基本なんです。そこで、その基本のなかに、今申し上げたような、まことにこれは不思議なほどに──「陰徳あれば陽報あり」なんてことを習ってもですね、なかなか隠れた徳を積んだって表にあらわれるもんかというような気がするから、隠れた功徳を積むという気持が薄いんですね。