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法華三部経の要点 ◇◇111
立正佼成会会長 庭野日敬

懺悔が仏性を磨き上げる

懺悔を聞く人の心得

 前回には「懺悔なくして宗教なし」ということについて述べました。実際その通りで、キリスト教のカトリックにおいても、教会の中に特別な個室が設けられてあって、そこで信者さんと神父さんが一対一で懺悔が行われるのです。初期仏教団における修行者たちの懺悔は公開的なものでした。一ヵ月に二回、新月と満月の夜に行われる布薩(ふさつ)という集会で、係の比丘が戒律の個条を一つ一つ読み上げていくうちに、もしその個条に触れる罪を犯したという自覚を持つ者があったならば、ただちに申し出るのです。内心のひそかなる罪をもすべてさらけ出し、仏陀もしくは長老比丘による指導を受けたのでした。
 なお、われわれは法座その他において、ひとの懺悔を聞く立場になることがしばしばありますので、その場合の心得について、初期仏教教団に確立されたものがありますから、参考のために紹介しておきます。
 一、時に応じて語る。
 懺悔を聞く人は、それぞれの人に応じ、場合に応じ、適切な指導を与えるべきで、教条主義に陥らないことだ、というのです。いわゆる万億の方便が大切だということです。
 二、真実をもって語る。
 万億の方便を用いるといっても、それはあくまでも正法に根差したものでなければならないのです。
 三、柔軟に語る。
 声を荒らげて叱責(しっせき)したりせず、穏やかな調子で、優しく話し、相手が「なるほど」と心から納得できるように指導しなければならない、というのです。
 四、利益(りやく)のために語る。
 相手がそれによって正しい悟りを得、向上し、救われるように……という目的ばかりを思って話すべきで、そのことに心を集中すれば必ず適切な指導ができるものです。
 五、慈心をもって語る。
 相手に対する深い愛情をもって対さなければならないというのです。当然のことのようですが、ともすれば自分を偉く見せたいというような不純な気持ちが混じることがありますから、それを戒めてあるのだと思います。

仏性を磨き上げるために

 人間はすべて平等に仏性を持っていることは法華経の教えによってハッキリ理解できました。いわば、それは仏性の発掘でした。しかし、発掘したばかりの宝石はまだ泥土にまみれていて、本当の輝きはありません。どうしてもその泥土を洗い落とさなければ、尊い宝石の真価は現れてこないのです。その泥土を洗い落とす第一の段階が、同信の人たちに対する懺悔です。それだけでもたいへんな結果が出ることは、立正佼成会五十数年の歴史が実証しています。
 ところが、その段階では満足せず、さらにその宝石に磨きをかけたい人があります。泥土は洗い落としても、まだまだ宝石の表面には曇りや傷がありますから、それに磨きをかけ、曇りや傷の部分を取り除けば、いよいよ持ち前の燦然(さんぜん)たる輝きを発するようになるからです。それが、会員綱領にある「人格完成」の境地ですが、それを目指す第二段階の懺悔が、この観普賢菩薩行法経に説かれる「神仏に対する懺悔」にほかならないのです。


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