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法華三部経の要点 ◇◇81
立正佼成会会長 庭野日敬

衆生ほんらい仏なり

仏の世界は常住不滅

 寿量品のもう一つのありがたさは、仏さまの世界の常住不滅とその美しさ安楽さを説き示してくださっていることです。すなわち、偈の中にこう仰せられています。
 「衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も 我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり 園林諸の堂閣 種種の宝をもって荘厳し 宝樹花果多くして 衆生の遊楽する所なり」
 「劫尽きて」というのはこういうことです。古代のインドでは、一つの世界が成立し、継続し、破壊し、次の世界が成立する経過を四つに分けて考えていました。
 成劫(じょうこう)――地球のような天体が成立し、そこに植物や動物などの生命あるものが生まれる時期。
 住劫(じゅうこう)――その世界が大体そのままの形を保って続いていく時代で、現在はその時代に当たります。
 壊劫(えこう)――破壊期です。まず生命あるものが死滅してゆき、つぎに大地がこわれ、一切が無に帰する時期。いま地球はこの心配をかかえています。
 空劫(くうこう)――形あるものが一切なくなった時代。
 この空劫が終われば、また成劫が始まり、住劫・壊劫・空劫と続き、こうして宇宙は永遠に新生と死滅を繰り返していく……というのです。そこで、前述の偈を現代文に訳せば「衆生の目から見れば、この地球が現在のような状態で存在する時代が終わって世界全体が大火に焼かれてしまうと見える時代が来ても、仏の国土は安穏で天上界の者や人間界の者がいつもたくさん集まって住み、楽しい生活を送っているのである。美しい花園もあれば、静かな林もあり、美しい建物がたくさんあり、それらは光り輝く宝玉によって飾られている。美しい木々には花が咲き乱れ、実が豊かにみのっており、その下で衆生が何の憂いもなく遊び楽しんでいる」。
 不安と恐怖に充ち満ちたいまの世の中においても、この偈をよくよく味わえば、なんともいえない安らかな思いがわき上がってくることでしょう。その大安心が胸中に常住するようになれば、寿量品の説く至高の境地にはまだ達し得ないにしても、信仰者ならではの法悦の中に生きていくことができるでしょう。

われわれの本質は仏と共通

 それでは、寿量品の説く至高の境地とはいったいどんなことでしょうか。それは、この現実の世界に現れた「応身の仏」釈迦牟尼世尊は、宇宙の大生命ともいうべき久遠実成の釈迦牟尼世尊(本仏)の示現にほかならず、その本仏こそ、不生不滅の永遠の存在であるというギリギリの真実を完全に悟ることです。
 ところで、振り返ってわれわれ衆生の身の上を考えてみますと、われわれも仏になりうる仏性を持っているわけですから、われわれの本質であるその仏性も、やはり仏さまと同じく不生不滅であるということになります。それが法華経全体を貫く真実であることを、ここで改めてかみしめたいものです。


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