法華三部経の要点 ◇◇108
立正佼成会会長 庭野日敬
法華経のしめくくりは四法成就(一)
護られているという確信
普賢菩薩勧発品最大の要点は、「四法成就」ということです。経文にはこうあります。
「仏、普賢菩薩に告げたまわく、若し善男子・善女人、四法を成就せば如来の滅後に於て当に是の法華経を得べし。一には諸仏に護念せらるることを為(え)、二には諸の徳本を植え、三には正定聚に入り、四には一切衆生を救うの心を発(おこ)せるなり。善男子・善女人、是の如く四法を成就せば、如来の滅後に於て必ず是の経を得ん」
この場合の「法華経を得る」というのは、法華経に遇うという意味よりも、法華経をほんとうに自分のものにし、ほんとうの功徳を得るという意味のほうが強いのです。そして、そのための条件が次の四つのことがらだというのです。
一、自分はもろもろの仏さまに護られ、たいせつに念(おも)われているのだという確固たる信念を持つこと。
これは、一言にしていえば、信仰の確立です。それがなければ、どんなに教理的に法華経を理解しても、大安心の境地に生きることはできません。順調なときは心配なく暮らしていても、何かトラブルが起こったり、逆境に陥ったりした場合、ともすればあわてふためいたり、挫折してしまったりします。つねに自分は諸仏に護念されているのだという確信を持っている人は、「これも仏さまのおぼしめしによる試練だ」と、あるいは「反省の機会を与えられたのだ」というふうに受け取り、前向きに対処しますから、マイナスをプラスに転ずることができるのです。
善い行いを積み重ねる
二、日常生活のうえにいろいろな善い行いを積み重ねること。
徳本というのは、徳を持つようになる本(もと)となるものという意味で、善い心です。その善い心を植えるというのは、つまり善い行いをすることにほかなりません。
普通には、善い心があってこそ善い行いができるのだと考えられていますが、そうとは限りません。人まねですることもあるし、周囲からの影響であまり気が進まないながらすることもあります。
もう一つ大事なことは、第一条にある「諸仏に護念されている」という信念を持っていますと、「仏さまが見ていらっしゃるのだから」という意識によって自分を励ましつつ善い行為ができるようになることも多いのです。
ところが、善い行いをすると、あとでなんともいえないような快い気持ちになります。そういう経験をたびたび味わっていますと、だんだんと自ら善い行いをするようになるのです。つまり、善い行いから善い心が育つわけです。
善い心が育てば、ひとりでに善い行いをするようになり、善い行いをすればますます善い心が育つというわけで、そこに素晴らしい循環が生まれ、その循環が無数にくりかえされるうちに、人格完成という理想の境地に近づいていけるのです。そのことを、法華経の終章であるこの品で「諸の徳本を植え」という一語にしめくくってあるわけです。
立正佼成会会長 庭野日敬
法華経のしめくくりは四法成就(一)
護られているという確信
普賢菩薩勧発品最大の要点は、「四法成就」ということです。経文にはこうあります。
「仏、普賢菩薩に告げたまわく、若し善男子・善女人、四法を成就せば如来の滅後に於て当に是の法華経を得べし。一には諸仏に護念せらるることを為(え)、二には諸の徳本を植え、三には正定聚に入り、四には一切衆生を救うの心を発(おこ)せるなり。善男子・善女人、是の如く四法を成就せば、如来の滅後に於て必ず是の経を得ん」
この場合の「法華経を得る」というのは、法華経に遇うという意味よりも、法華経をほんとうに自分のものにし、ほんとうの功徳を得るという意味のほうが強いのです。そして、そのための条件が次の四つのことがらだというのです。
一、自分はもろもろの仏さまに護られ、たいせつに念(おも)われているのだという確固たる信念を持つこと。
これは、一言にしていえば、信仰の確立です。それがなければ、どんなに教理的に法華経を理解しても、大安心の境地に生きることはできません。順調なときは心配なく暮らしていても、何かトラブルが起こったり、逆境に陥ったりした場合、ともすればあわてふためいたり、挫折してしまったりします。つねに自分は諸仏に護念されているのだという確信を持っている人は、「これも仏さまのおぼしめしによる試練だ」と、あるいは「反省の機会を与えられたのだ」というふうに受け取り、前向きに対処しますから、マイナスをプラスに転ずることができるのです。
善い行いを積み重ねる
二、日常生活のうえにいろいろな善い行いを積み重ねること。
徳本というのは、徳を持つようになる本(もと)となるものという意味で、善い心です。その善い心を植えるというのは、つまり善い行いをすることにほかなりません。
普通には、善い心があってこそ善い行いができるのだと考えられていますが、そうとは限りません。人まねですることもあるし、周囲からの影響であまり気が進まないながらすることもあります。
もう一つ大事なことは、第一条にある「諸仏に護念されている」という信念を持っていますと、「仏さまが見ていらっしゃるのだから」という意識によって自分を励ましつつ善い行為ができるようになることも多いのです。
ところが、善い行いをすると、あとでなんともいえないような快い気持ちになります。そういう経験をたびたび味わっていますと、だんだんと自ら善い行いをするようになるのです。つまり、善い行いから善い心が育つわけです。
善い心が育てば、ひとりでに善い行いをするようになり、善い行いをすればますます善い心が育つというわけで、そこに素晴らしい循環が生まれ、その循環が無数にくりかえされるうちに、人格完成という理想の境地に近づいていけるのです。そのことを、法華経の終章であるこの品で「諸の徳本を植え」という一語にしめくくってあるわけです。