法華三部経の要点 ◇◇103
立正佼成会会長 庭野日敬
真理を活用される観世音の実践力
手に目のある千手観音さま
観世音菩薩は、澄み切った眼で世の動きを明らかに観察し、「普門示現」といわれるようにあらゆる所に現れて人びとを救済される実践の菩薩です。
そのことは千手観音さまの像によく現れています。その千の手(たいていの像は四十二本だけ造られていますが)には、病気を治す道具や福を授ける象徴物などさまざまな道具を持っておられます。しかも大事なことは、それぞれの手に目がついていることです。まさに千手観音さまは、その目で衆生の現実の苦しみや心に願っていることを見通され、その手で実際にお救いになるのです。
看護婦などというその「看」という字は、「目」と「手」を組み合わせて作られた会意文字です。この文字が、はからずも千手観音さまの手と目に合致していることに、尊い示唆を感ぜずにはおられません。われわれ法華経行者は、常に世の不幸な人びとに智慧の「目」を向け、そして慈悲の「手」によってその苦しみを救ってあげることに力を尽くさねばならない。そのことを千手観音さまの像容が示し、看の字が示しているのです。
首飾りを二仏に捧げたのは
さて、これまでは法華経全体の教相に即して、この普門品を「われわれも観世音菩薩になろう」という教えとして解説してきましたが、もっと素朴な、観世音菩薩の霊験を信ずる受け取り方が一般的であることは否めません。そして、そのような素朴な観音信仰による不可思議な功徳を受けた実例も数々あることも否定できません。
しかし、不可思議と見える観世音菩薩の救済力も、もともとは仏さまの大智慧に基づくものであることは、無尽意菩薩が尊敬と感謝の意を込めて捧げた首飾りを、観世音菩薩は直ちに半分を釈迦牟尼如来に、半分を多宝如来に捧げたことに象徴されています。
観世音菩薩としては、「わたくしの力ではございません」と謙遜(けんそん)して二仏に差し上げられたのでしょうが、われわれから見ますと、真理そのものである多宝如来と、その真理を現実に即して説き分けられた釈迦牟尼如来と、それを衆生救済のために活用される観世音菩薩の実践力と、この三つの相乗作用を示していることは歴然としています。そして、末端にあるその実践力こそが人びとを幸せにする決め手であることを、ここのくだりの行間から読み取らねばならないと思うのです。
もう一つ、ここのくだりで見過ごしてならないのは、無尽意菩薩が首飾りを供養しようとしたのに観世音菩薩が受け取るのを断られたとき、無尽意菩薩が「どうぞ、わたくしをあわれと思ってこれをお受け取りください」と嘆願したことです。
ここに、供養とか布施というもののほんとうの精神があるのです。現在でもそうですが、インドをはじめとして、ミャンマーでも、タイでも、スリランカでも、出家修行者や宗教団体に布施する際、「する」というのでなく、「させて頂く」という精神がありありと見受けられます。布施し、供養することによって、身に功徳を積ませて頂くという考えかたです。
われわれ日本人も、この無尽意菩薩の心を心としたいものであります。