法華三部経の要点 ◇◇88
立正佼成会会長 庭野日敬
仏教は徹底した平和主義である
信念を貫くために逃げる
常不軽品にもう一つ大事な要点があります。それは「衆人或は杖木・瓦石を以て之を打擲すれば、避け走り遠く住して、猶お高聲に唱えて言わく、我敢て汝等を軽しめず、汝等皆当に作仏すべしと」ということです。
走って逃げるのを卑怯だとか弱い行為だとか思う人があるかもしれませんが、それは大きな間違いです。自分の主義主張をどこまでも貫き通すには命を惜しまなくてはなりません。生き抜かなくてはなりません。
常不軽菩薩がその典型なのです。逃げ走っても、信念は曲げませんでした。あいかわらず「わたしはあなた方を軽んじません。あなた方は仏になる人ですから」と言って拝みました。そういった態度こそが、ほんとうの意味の強い態度であります。
脈々と伝わる平和主義
そうした常不軽菩薩の生き方に、お釈迦さまの徹底した非暴力による平和主義が象徴されていることも見逃してはなりません。法句経に「怨みは怨みをもって報いれば、ついに消えることはない。怨みを捨てるとき、それが消えるのである」という不滅の名句が説かれていますが、お釈迦さま自身がそんなお方だったのです。たとえば、提婆達多がお命を狙って未遂に終わったとき、弟子たちがいきり立って仕返しをしようとしたとき、それをキッパリとお止めになったばかりか、法華経で「わたしが仏の悟りを得たのは、提婆達多という友人のおかげである」とまでおおせられています。
そのご精神は弟子たちにも脈々と伝えられていて、たとえば常随の侍者阿難の最期などに、それをまざまざと見ることができます。
阿難は年を取ってからマガダ国を去ってビシャリ国に移り住もうとしました。ところが、マガダ国のアジャセ王は阿難のような高徳の人に去られたのが寂しくてたまらず、自ら兵をひきいてその後を追いました。
追いついたときはすでに阿難はガンジス河の中流の舟の上でした。そして、対岸にはビシャリ国の軍が阿難を出迎えに来ていました。それを見た阿難は、このままビシャリ国に行っても、あるいはマガダ国へ引き返しても、必ず戦争になると見て取りました。そこで、平和を念じた阿難は、船上で自ら命を絶ったのでした。じつに悲しくも尊い最期でした。両軍は戦うどころではなく、号泣しながら共に遺体を火葬にし、その灰を二つに分けて持ち帰ったといいます。
仏教の徹底した平和主義の伝統は現代にも生き生きと残っています。一九五一年(昭和二十六年)、サンフランシスコで開かれた対日講和会議の席上で、セイロン(いまのスリランカ)代表のジャヤワルデネ氏は前出の法句経の名句を朗唱し、セイロンは日本に対して賠償を求める意思はないと演説されました。満場に万雷の拍手が起こり、しばらく鳴りやまなかったといいます。権謀術数のみの場と思われる外交の舞台にも、すべての人にある仏性が自然と顔を出した、じつに美しいシーンだったのです。
立正佼成会会長 庭野日敬
仏教は徹底した平和主義である
信念を貫くために逃げる
常不軽品にもう一つ大事な要点があります。それは「衆人或は杖木・瓦石を以て之を打擲すれば、避け走り遠く住して、猶お高聲に唱えて言わく、我敢て汝等を軽しめず、汝等皆当に作仏すべしと」ということです。
走って逃げるのを卑怯だとか弱い行為だとか思う人があるかもしれませんが、それは大きな間違いです。自分の主義主張をどこまでも貫き通すには命を惜しまなくてはなりません。生き抜かなくてはなりません。
常不軽菩薩がその典型なのです。逃げ走っても、信念は曲げませんでした。あいかわらず「わたしはあなた方を軽んじません。あなた方は仏になる人ですから」と言って拝みました。そういった態度こそが、ほんとうの意味の強い態度であります。
脈々と伝わる平和主義
そうした常不軽菩薩の生き方に、お釈迦さまの徹底した非暴力による平和主義が象徴されていることも見逃してはなりません。法句経に「怨みは怨みをもって報いれば、ついに消えることはない。怨みを捨てるとき、それが消えるのである」という不滅の名句が説かれていますが、お釈迦さま自身がそんなお方だったのです。たとえば、提婆達多がお命を狙って未遂に終わったとき、弟子たちがいきり立って仕返しをしようとしたとき、それをキッパリとお止めになったばかりか、法華経で「わたしが仏の悟りを得たのは、提婆達多という友人のおかげである」とまでおおせられています。
そのご精神は弟子たちにも脈々と伝えられていて、たとえば常随の侍者阿難の最期などに、それをまざまざと見ることができます。
阿難は年を取ってからマガダ国を去ってビシャリ国に移り住もうとしました。ところが、マガダ国のアジャセ王は阿難のような高徳の人に去られたのが寂しくてたまらず、自ら兵をひきいてその後を追いました。
追いついたときはすでに阿難はガンジス河の中流の舟の上でした。そして、対岸にはビシャリ国の軍が阿難を出迎えに来ていました。それを見た阿難は、このままビシャリ国に行っても、あるいはマガダ国へ引き返しても、必ず戦争になると見て取りました。そこで、平和を念じた阿難は、船上で自ら命を絶ったのでした。じつに悲しくも尊い最期でした。両軍は戦うどころではなく、号泣しながら共に遺体を火葬にし、その灰を二つに分けて持ち帰ったといいます。
仏教の徹底した平和主義の伝統は現代にも生き生きと残っています。一九五一年(昭和二十六年)、サンフランシスコで開かれた対日講和会議の席上で、セイロン(いまのスリランカ)代表のジャヤワルデネ氏は前出の法句経の名句を朗唱し、セイロンは日本に対して賠償を求める意思はないと演説されました。満場に万雷の拍手が起こり、しばらく鳴りやまなかったといいます。権謀術数のみの場と思われる外交の舞台にも、すべての人にある仏性が自然と顔を出した、じつに美しいシーンだったのです。