法華三部経の要点 ◇◇48
立正佼成会会長 庭野日敬
魔に護らせるのが仏法
悪を知る者が悪を除きうる
前回に、ご成道直前のお釈迦さまを襲った魔ものは潜在意識に潜む過去の経験の表面化だったという説を紹介しましたが、「お釈迦さまほどの人格者がなぜ?」という疑問を持たれる人もあろうかと思われますので、そのことについて説明しておきましょう。
潜在意識の底に沈んでいるものは、前回にも書きましたように、人間がまだ原始的な生物だったころからの経験の積み重ねであって、なかなか簡単に消えるものではありません。
天台大師も、一念三千の法門の大事な骨格である「十界互具」において、仏界にも地獄・餓鬼・畜生・修羅等々の各界が併存しているのだと説いています。これを狭く、人間の深層意識の考察だと考えても、じつにすばらしい洞察だと思います。と同時に、地獄に落ちる人にも仏に成る種子がちゃんとあるのだと言っていますから、われわれ凡夫にとっては大いなる救いです。
そして大師は、『観音玄義』の中で「仏は修悪(しゅあく)を断じ尽くして、但(ただ)性悪(しょうあく)あり」と言っています。「仏は悪を行うことを断じ尽くしておられるが、性(素質)としての悪はやはり持っておられるのだ」というのです。ということは、逆に見て、素質としての悪を具有していながらも悪を行われることがまったくないところが、仏さまがたぐいなき人格者であられるゆえんだ……ということになりましょう。
さらに『観音玄義』に「仏は性悪を断ぜずと雖も、而も能く悪に達す。悪に達するを以て悪に於いて自在なり。(中略)自在を以ての故に、広く諸悪の法門を用いて衆生を化度(けど)す」ともあります。「仏さまは悪というものによく通達しておられるからこそ、悪に染まっている衆生を教化することがおできになるのだ」というのです。まことにそのとおりで、悪のいろいろな姿を知っていなければそれを除く方法も心に浮かんでくるはずがありません。このことは、仏法の広宣流布にたずさわるわれわれもよくよく心得ていなければならないことだと思います。
日本の進むべき道もここに
もう一つ、「なぜ魔が仏法を護るのだろうか」という疑問を持つ人もあるでしょう。
大乗仏教、特に法華経は悪を大きく包容する教えです。提婆達多品にそれがよく表れていますが、陀羅尼品においても、もと凶悪な鬼女でお釈迦さまに教化されて善神となった鬼子母(きしも)をはじめとする恐ろしげな鬼女たちが「わたくしどもは誓って説法者をお護りします」と申し上げ、仏さまは「善哉、善哉」とお褒めになっておられます。
現実の世の中から悪が完全になくなることは考えられません。ですから、仏教は、悪をも包容し、あるいは自らの精神を鍛えるために活用し、あるいはそれを教化することによって社会に役立たせようと図るのです。
前回に引用した『会長随感』に、宇宙飛行士が無重力状態で二百日も暮らすと、ふくらはぎの肉が三〇%も落ちるという事実を紹介しましたが、精神もそれと同様で、あまりにも抵抗のない、いわば無重力や無菌室の中にいるような状態が続きますと、向上進歩のエネルギーが衰弱してしまいます。いわゆる「青白き善人」となってしまう
のです。
これはたんに個人にとってばかりでなく、大小の団体にとっても、あるいは国家にとっても、大事なポイントだと思います。特にこれからの日本はいろいろな意味で世界のリーダーとなるべき使命を背負っていますが、世界にはめんどうな国があることは否めません。それらを避けて通ったり、背を向けたりすることなく、お釈迦さまの包容力を見習って、そのめんどうさを良いエネルギーに変える縁となり、世界平和に寄与してもらうよう努力することこそ、日本が真のリーダーになるために歩むべき道でありましょう。
このように「魔をも仏法を護るよう導く」これが仏法の偉大なところなのです。