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法華三部経の要点 ◇◇25
立正佼成会会長 庭野日敬

諸仏は五濁の悪世に出でたもう

文化の進歩の逆現象

 方便品にはもう一つ見逃してはならぬ要点があります。「諸仏は五濁の悪世(ごじょくのあくせ)に出でたもう」の一句です。これは現代の世相にぴたりと一致しますので、この五つの世の濁りについて吟味してみましょう。
 第一の濁りは「劫濁(こうじょく)」です。これは時代が長く古くなったために起こる悪です。世の中も人間の体と同じように、古くなると動脈硬化を起こします。
 それが一番顕著に現れるのは、政党をはじめとする諸団体でしょう。ある団体が結成された当初は、理想に燃え、情熱をたぎらせていたのが、年月がたつにつれて、ともすれば惰性的になり、形式主義的になっていきます。「何のためにあるのか」「だれのためにやるのか」という根本精神がかすんでしまうのです。だから、時に応じて草創期を思い起こし、初心に立ち返ることが絶対に必要なのです。
 第二の濁りは「煩悩濁(ぼんのうじょく)」です。文化が進むのはいいことですが、半面、社会構造が複雑になるにつれて煩悩も種類が多くなります。人類が単純な暮らしをしていたころは、煩悩は食欲と種族保存欲などに基づくものだけだったのが、文化が進むにつれ、名誉欲とか権勢欲といった新しい煩悩が生じ、それが過大になったり暴走したりして、大小さまざまな争いの原因となるのです。
 第三の「衆生濁(しゅじょうじょく)」というのは、世の中が複雑化すると、衆生の一人一人が自分の立場だけからものを考えるために、小は人間関係から大は国際問題に至るまで、摩擦や背反が激しくなり、地球上が修羅(しゅら)の巷(ちまた)と化していくのです。そういう時にこそ、法華経が説く「久遠本仏の大慈悲心」つまり、「すべての人間は宇宙の大生命ともいうべき久遠本仏に生かされているのだ」という真理に深く思いをいたさねばならないのです。
 なお、西義雄博士は国訳大蔵経の『倶舎論巻十二』の注釈に、衆生濁とは人間が小さくなり無気力になることだとしておられます。
 最近、日本の青年が無気力になったことが問題となっていますが、右のような解釈も一考に値すると思います。

最も恐ろしいのは「命濁」

 第四の「見濁(けんじょく)」というのは、ものの見方が人により民族により大きく相違するために起こる世の乱れです。正しい見方にいろいろな方向があるのならいいのですが、悪世においては、たとえば「宗教はアヘンなり」とか「道徳教育は不要である」といったような邪見が横行して、正見を蔽(おお)ってしまうことが多いために、世の中が濁ってくるのです。
 第五の「命濁(みょうじょく)」というのは、人間の命が短くなるというのですが、これはちょっと解せないかもしれません。むかしは「人生五十年」が通り相場でしたが、今の日本では八十何歳とかが平均寿命になっていますから、人間の寿命が短くなるという意味がわからないと思います。
 したがってこれを、核戦争によって人類はアッという間に絶滅してしまう意味であるとか、今日のように添加物の多い食品を食べていると人間は長生きできなくなることを示唆しているのだといったうがった説明もあります。また科学文明の発達によって人間が本来持っていた生命力がだんだん脆弱(ぜいじゃく)になっていくことを教えているのだともいわれます。
 そのいずれにせよ、究極的には「どうせ限りある生命だから、いまさらあくせく修行しても始まらぬ」というように、人間が刹那主義になってしまうことが恐ろしいことであり、これが命濁の示す警告であるといってもいいでしょう。
 そういう危機(悪世)に際してこそ諸仏が世に出でたもうというのも、仏さまそのものは出られなくても、仏の教えを世にひろめる人間が続々と出現するというように解釈することもできましょう。そのように受け取って発奮のよすがとしたいものです。
                                                           

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