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法華三部経の要点 ◇◇11
立正佼成会会長 庭野日敬

義異なるが故に解異なり

「空」は積極的に解するもの

 無量義経の説法品には、妙法蓮華経以前のお釈迦さまの説法についていろいろと解説されています。「初説・中説・後説、文辞は是(こ)れ一なれども而(しか)も義別異なり。義異なるが故に衆生の解(げ)異なり。解異なるが故に得法・得果・得道亦(また)異なり」という一節もその重要な一つです。
 すなわち――これまで「空」とか「十二因縁」とか「六波羅蜜」などを繰り返し説いてきたが、説く言葉(文辞)は同じでも、初めて説いたときと、中ごろと、今ここに説くのとでは意味・内容に開きがあるのだ。そのために人々の受け取り方に違いが生じ、したがって、得た悟りにもおのずから違いがあるのだ――とのおおせなのです。
 このことは、われわれがお導きをするに際しても重要なことですから、よく心得ておきたいものです。例えば、「空」の教えには、「この世の現象はすべて仮の現れであって、実体はないのだ」という意味(義)があります。これをうっかり否定的なムードで聞いてしまうと、仙人のような生活や悟りを追求する人にだけ通用するような「義」となってしまうこともありましょう。
 したがって、普通の生活をしている人がこの「義」にとらわれると、ひどい虚無感に陥ってとんでもないことにもなりかねません。
 しかし、この「空」の義を、「空であるすべての現象はある原因(因)にある条件(縁)が合致してあらわれたものである」と肯定的に正しく受け取りますと、「どのようなことに対しても、自分がよい縁となれば、ものごとをよい方向へ変えることができるのだ」という積極的な気持ちが生じ、勇気りんりんたるものを覚えるでしょう。あとで説かれる妙法蓮華経は、こうした積極的な受け取り方を教えているのです。

不殺生戒の現代的な「解」

 また、例えば五戒の第一である不殺生戒にしても、その「義」には広狭の大きな開きがあります。いちばん狭い「義」は、あらゆる生きものを殺してはならぬということです。提婆達多はこの義にこだわり、戒律の改革案をお釈迦さまにつきつけ「比丘は魚や肉を食べてはならぬ」という規則をつくられるよう迫りました。
 ところが、大自然の姿を透徹した眼で眺めてみますと、いわゆる食物連鎖という冷厳な事実があります。タカが小鳥を食べ、小鳥は昆虫を食べ、昆虫は植物の葉を食べますが、その代わりそれらの動物たちは自らの死骸によって土壌を肥やし植物を育てるという恩返しをします。そのような連鎖関係によってすべての生態系がバランスを保っているのです。
 お釈迦さまはこのような大自然の姿を徹見しておられたのでしょう。比丘たちにも、自分で魚や肉を捕って食べることは禁じられましたが、托鉢などで出されたときなどはありがたく受け取り、食べてよいと定められていました。もちろん、提婆改革案など一蹴(いっしゅう)されたのです。
 さて、二十世紀末のわれわれはこの不殺生戒をどのような義に解せばいいのでしょうか。「戦争をしてはならぬ」というのが第一義であることは言うまでもありません。もう一つ大切なのは「物の殺生をつつしめ」ということだろうと思います。地球の限りある資源を人間はあまりにもほしいままに浪費しつつあります。便利で安逸な生活をしたいという欲望を限りなく肥大させ、そのために「物のいのち」をムダに殺生しつつあるのです。少欲知足の生活における物の消費は、前に申した大きな連鎖の一環になるのですが、ムダな消費は全体のバランスを崩し、自然を汚染・破壊する自殺行為となります。
 このように、経典の文辞はその「義」を時代に応じて柔軟に解せねばならないのです。


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