仏教者のことば(63)
立正佼成会会長 庭野日敬
克己の人には人格の深みがあり、さらに人格の深みから品位が生ずる。品位から光輝が生じ、またその光輝から威信が生ずる。
ナーガールジュナ・インド(ラトナーヴァリー)
克己はすべての聖者の教え
これはナーガールジュナ(龍樹菩薩)が南インドのある王のために書簡体で説いた約五百項目にわたるぼう大な教え(漢訳『宝行王正論』)の中の一節です。
克己というのは、文字通り、己に克つことです。人間の想念・欲望・行為というものは、ほうっておけばエゴのおもむくままにどこへ突っ走っていくかわかりません。怒り・妬み・貪り・偽り・虚栄・権勢・享楽……おもむく方向はいくらでもあります。
もし、己の心のままにそれらを突っ走らせるならば、第一に自分を堕落させ、第二に人を傷つけ、第三に社会の秩序を乱します。いいことは一つもありません。それゆえ、あらゆる聖賢は、何よりもまずそういったエゴの抑制ということを教えます。
釈尊は「治水者は水を導き、矢作りは矢を矯(た)め直し、木工は木を調え、賢者は自己を調御する」と説き、セネカ(古代ローマの哲人)は「己れを制する者は最も強し」と叫び、スコット(イギリスの文豪)は「克己を教えよ。これを行うを愉快とせよ」と言っています。
この「これを行うを愉快とせよ」と言う言葉は、人間の心理をよくつかんだ、そしてこの難事に立ち向かう勇気を鼓舞する名言だと思います。この難事には、取り組むに値する大きな意義があるのであって、その意義をナーガールジュナの言葉は余すところなく説き明かしているのです。
輝きを持つ身となろう
まず、克己の人々は人格に深みが生ずるということですが、これは、あなたの知友や職場の上司などを見回してみればすぐ納得できることでしょう。なにも聖人・君子でなくてもよい。陽気でざっくばらんな人でもいい。しかし、「あの人はどんなことがあってもこれだけは絶対にしないなあ」というなにものかを持(じ)している人があるでしょう。
その人と、出たとこ勝負で嘘はつく、ゴマはする、小さな裏切りはする、ちょっとした迷惑はかける……そして割合、平然としているような人と比べ合わせてみれば、人格の差が歴然とするでしょう。前者は何か一本背骨が通っている感じ。後者はいかにも崩れた感じ。極端な例を挙げましたが、とにかく己に克つ精神を持つ人とそれのない人では、いわゆるひと味違うものです。
人格に深みがあると、そこから品位が生じます。政治家などでも、非常に力があり、権勢をほしいままにしている人でも、どことなく品のない人があります。品がないというのは、上に立つ人間として大きな欠陥なのです。なにも一国の政治を左右する人ばかりではありません。会社でも、その他の団体でも、すくなくとも人の上に立つ者には、ある種の品位がなくてはならないのです。品位があってこそ、自然と人がついてくるのです。
なぜそうなるのか。ナーガールジュナは、「品位があれば光輝が生じ、またその光輝から威信が生ずる」と言っています。仏陀や、菩薩や、キリストや、その弟子の聖者たちの画像を見ますと、体から後光が差したり、頭上に円光が描かれています。あれは絵そらごとではないのです。そういう人たちほど偉くなくても、人柄に品位のある人はなんとなく輝くように見えるものです。そして、そういう人格の輝きからほんとうの威信が生ずる……というのです。
われわれ普通の人間でも原理は同じであり、その大本は「己に克つ」という努力にあることを胸に刻んでおきたいものです。
題字 田岡正堂
立正佼成会会長 庭野日敬
克己の人には人格の深みがあり、さらに人格の深みから品位が生ずる。品位から光輝が生じ、またその光輝から威信が生ずる。
ナーガールジュナ・インド(ラトナーヴァリー)
克己はすべての聖者の教え
これはナーガールジュナ(龍樹菩薩)が南インドのある王のために書簡体で説いた約五百項目にわたるぼう大な教え(漢訳『宝行王正論』)の中の一節です。
克己というのは、文字通り、己に克つことです。人間の想念・欲望・行為というものは、ほうっておけばエゴのおもむくままにどこへ突っ走っていくかわかりません。怒り・妬み・貪り・偽り・虚栄・権勢・享楽……おもむく方向はいくらでもあります。
もし、己の心のままにそれらを突っ走らせるならば、第一に自分を堕落させ、第二に人を傷つけ、第三に社会の秩序を乱します。いいことは一つもありません。それゆえ、あらゆる聖賢は、何よりもまずそういったエゴの抑制ということを教えます。
釈尊は「治水者は水を導き、矢作りは矢を矯(た)め直し、木工は木を調え、賢者は自己を調御する」と説き、セネカ(古代ローマの哲人)は「己れを制する者は最も強し」と叫び、スコット(イギリスの文豪)は「克己を教えよ。これを行うを愉快とせよ」と言っています。
この「これを行うを愉快とせよ」と言う言葉は、人間の心理をよくつかんだ、そしてこの難事に立ち向かう勇気を鼓舞する名言だと思います。この難事には、取り組むに値する大きな意義があるのであって、その意義をナーガールジュナの言葉は余すところなく説き明かしているのです。
輝きを持つ身となろう
まず、克己の人々は人格に深みが生ずるということですが、これは、あなたの知友や職場の上司などを見回してみればすぐ納得できることでしょう。なにも聖人・君子でなくてもよい。陽気でざっくばらんな人でもいい。しかし、「あの人はどんなことがあってもこれだけは絶対にしないなあ」というなにものかを持(じ)している人があるでしょう。
その人と、出たとこ勝負で嘘はつく、ゴマはする、小さな裏切りはする、ちょっとした迷惑はかける……そして割合、平然としているような人と比べ合わせてみれば、人格の差が歴然とするでしょう。前者は何か一本背骨が通っている感じ。後者はいかにも崩れた感じ。極端な例を挙げましたが、とにかく己に克つ精神を持つ人とそれのない人では、いわゆるひと味違うものです。
人格に深みがあると、そこから品位が生じます。政治家などでも、非常に力があり、権勢をほしいままにしている人でも、どことなく品のない人があります。品がないというのは、上に立つ人間として大きな欠陥なのです。なにも一国の政治を左右する人ばかりではありません。会社でも、その他の団体でも、すくなくとも人の上に立つ者には、ある種の品位がなくてはならないのです。品位があってこそ、自然と人がついてくるのです。
なぜそうなるのか。ナーガールジュナは、「品位があれば光輝が生じ、またその光輝から威信が生ずる」と言っています。仏陀や、菩薩や、キリストや、その弟子の聖者たちの画像を見ますと、体から後光が差したり、頭上に円光が描かれています。あれは絵そらごとではないのです。そういう人たちほど偉くなくても、人柄に品位のある人はなんとなく輝くように見えるものです。そして、そういう人格の輝きからほんとうの威信が生ずる……というのです。
われわれ普通の人間でも原理は同じであり、その大本は「己に克つ」という努力にあることを胸に刻んでおきたいものです。
題字 田岡正堂