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...父・母のこと 一 父の重吉は、一口に言えば実直な人間だった。百姓仕事を黙々とやっていた。 私が小さいころは、借金などがあって家の経済事情はそうとうに苦しかったらしいが、父がせっせと荒地を開墾して田畑をふやし、それでずいぶん楽になったのだと聞いている。 無口で、きびしくて、かわいがってもらった記憶などほとんどないけれども、なんとなく頼りがいのある父だった。野良仕事を手伝うようになった幼い私どもに、クワの使い方から草の取り方など克明に教えてくれた。 クワを土に掘り込むのにも、角度に微妙なコツがある。初めのころは深く突き刺さったり、浅く滑ってしまったり、なかなかうまくいかない。それを、父が「こうやるんだ」とやってみせると、一クワ一クワ機械のように掘れていく。 草取りにしても、根を切らぬようにうまく掘り取って、根についた土をクワでふるうようにしてまぶしていく……その手際の鮮やかさ、確かさに、驚異とも畏敬ともつかぬ思いをもって見とれていたのを、きのうのことのように思い出す。 そして、「さあ、やってみろ」と、手を添えて実地に教えてくれた、あの節くれ立った掌の大きさと力強い感触が、今も私の皮膚にまざまざと残っている。 そのような地味な百姓だった父にも、祖父ゆずりの特技が二つあった。一つは医者のまねごと、一つはもめごとの仲裁。 前者のほうは、祖父のやっていたのを見よう見まねでおぼえてしまったらしい。なにしろ昼間は田畑や山の仕事で家にいないので、朝暗いうちか、夜やっと晩飯をすませたころを見計らって、“患者”たちがやってくる。それでも父はいやな顔ひとつしないで、灸をすえたりしていた。 野良へ出かける途中につかまることもよくあった。うちの作場(田畑)は山の中腹や谷底などに分かれてほうぼうにあったが、家は村の一番はずれのほうにあったので、作場へ行くにはたいてい村全体を通り抜けて行かねばならなかったからだ。 私たちが一足先に出かけて、野良仕事を始めても、父はいっこうにやってこない。「またどこかに引っかかって、ヤブ医者やってるのか」と、よく笑ったものだ。 農繁期の、ネコの手も借りたいくらいのときでも、やはり変わりはなかった。だれかが、「この忙しいのに……」と文句を言ったことがあった。すると父はぽつりといった。「六、七人もの大家内だったら、そのうちひとりぐらいは、人のために尽くさなけりゃだめなもんだ。そうでなけりゃ、世の中はうまくいくもんじゃない」、それっきり、だれも文句を言わなかった。 父には、そんなところがあった。日ごろは無口だが、大事なときには、的に当たったことをぽつりと言う。その一言には、不思議な重みがあった。 後年、私が東京に出るとき、「なるべく給料が安くて、働く時間が長く、骨の折れる仕事の所へ奉公するんだぞ」と言った。その一言が、私の一生の生き方の軌道をあらかた敷いたのではないか、と今しみじみ思い出される。 とにかく、いつもは口数が少なく黙々としている父が、ときたまびっくりするようなことを言うので、それが非常に強い印象となって心に残るのであろう。 (昭和51年08月【自伝】) 父・母のこと 二 私の長男の浩一(日鑛)が、おじいちゃんの思い出としてよく話すエピソードがある。私が「十年間家族と別居して修行せよ」という神示を受け、家内や子どもたちを田舎の家に預けていたころのことだ。 正月の十五日に、いろりにあたりながら、しきりにいろりの中へ足を出していたら、おじいちゃんが突然火箸を振り上げて、「足を折ってやる」と叱りつけたというのだ。 十五日は勢至菩薩さまの日で、その日はいろりの中へ足を出してはいけないという戒律みたいなものが田舎にはあった。それを子どもたちはちゃんと承知していながら、かえって禁を犯してみたがるものなのだ。 いつもはたいへんかわいがってくれているおじいちゃんの、その恐ろしい権幕にはすっかり縮み上がったというのである。よほど身にこたえたらしく、おじいちゃんの思い出といえばこの話を出す。 私は、その場の浩一のびっくりさ加減がそのままよくわかり、笑いのうちにも懐かしさがこみ上げてくる。私の子ども時代にも、似たような経験がよくあったからだ。(中略) 道楽は何一つなかったが、料理が得意で、村でおおぜいの酒盛りなどがあると、父が料理方をつとめたものだ。 自分の親をほめるようで少し気は引けるが、父はそんな人だった。 (昭和51年08月【自伝】) 父・母のこと 三 私の父は若い時分、物の道理というものに対して、実に淡々とした、割り切った考え方をもった人でした。私はその父を、迷いのないような人だという点で、非常に尊敬していたのであります。 ところが、七十を越えてから、だんだん気が弱くなったということを聞きました。孔子は七十を越えられたとき、自分の心の欲するままに従って矩を越えず、という悟りの境地に入られたようでありますが、凡人はそこまで年をとると、あそこのおじいさんが亡くなった、というような話を聞くと、力を落として食欲も進まない状態になるのです。 私の村は、せいぜい、四十二戸しかない狭い村だけに、三里も先の家のお年寄りが亡くなったというようなことまで、聞こえてくるのです。私はその時分、東京におりましたので、田舎のほうからいろいろな消息を聞いたのですが、父親はそうした話を聞くたびに、元気をなくしてしまったということを聞いたのであります。 あんなに元気で、人間の死ということに対しても、「生あるものは必ず一度は死ぬんだ」と、あれほど物を割り切っていた父……。「だから、人間は生きているうちに、人さまにいくらかでもお役に立つことを、一生懸命にしなくちゃならん」といって、自分の死などいっこうに考えたこともなかったように見えたその父が、だんだん年が加わるに従って、そんなふうに気が弱くなってきたというのであります。 (昭和46年02月【速記録】) 父・母のこと 四 小柄でヤセ型。物ごしの柔らかな母だった。性格は地味で人とほがらかに話したり、歌を陽気にうたうといったタイプではなかった。田八反、畑五反の中農。十四人の家族。その生活の苦労が、母の性格をつくったのかもしれない。 しかし、仕事に打ちこむ母の姿は、物ごしの柔らかさなどフッ飛んでしまう。「仕事ならまかせてくれ」といわんばかりの気概にあふれていた。とくに、手の器用さはおどろくほどだった。忙しい農作業の合間をぬって、よく麻糸を紡ぐ。朝は人より早く起き、夜は一番おそく寝る。年に“越後上布”を三反も織りあげた。母は、物に感謝し、物を大切に生かすことを、無言のうちに教えてくれた。 いわば、不言実行型。何をするにも、家族の陣頭に立った。「人間は、こうしなくてはいけない」と、からだをつかって教える。実行は、口さきの指導よりもきびしい。家族は母にひかれて、ピリピリと働いた。朝食、野良仕事、そして夕食……家族の一致した行動はみごとなものだった。それでいて、頭から押えつけられるという感じが少しもなかった。 (昭和39年05月【佼成新聞】) 父・母のこと 五 数学にしても、教育を受けていないのに、一本一銭二厘五毛の大根を七本売ればいくらで、おつりはいくら出せばいいか、そばにいる私が計算している間に、母は暗算で答えを出してしまうのです。知的な内面を、昔の人たちは学問がなくても、ちゃんともっていたのです。 (昭和52年04月【佼成】) 「血すじ」というものは多少あるようです。(中略)母の父が、また非常に記憶力のずばぬけた人でした。この人は、材木屋の番頭でしたが、ぜんぜん字が書けませんので、一年中の材木の出入を全部暗記しており、盆暮れの勘定時には、一つも間違いなくスラスラやってのけたということです。 (昭和42年06月【佼成】) 父・母のこと 六 若いころから馴染んでいたせいもあるが、母は撚糸がうまかった。忙しい農作業の合間に、器用に麻糸を紡ぎ、越後上布を一年に三反も織りあげた。その金で、盆や正月、村祭のときは、六人の兄弟に兵児帯を買ってくれた。 東海道五十三次(つぎだらけ)のふだん着を新しい着物に着替え、買ってもらった兵児帯をしめて、祭り太鼓の聞こえる坂道を神社に向かって駆けていく。そのときの胸のときめきは、いまもまざまざと蘇ってくるが、駆けていく私たちを見送っていた母の眼差しもほうふつと想い起こすのである。(中略)薫育というのは、自分自身の生き方や身の振舞いによって、あたかも香りが周囲に染まっていくように、生きるための節度や美徳や品性を、自然のうちに相手の身につけさせることだが、私たちは無意識のうちに母の薫育を受けて成長した。 ──自然の限りない恵みと恩寵に感謝し、神や先祖をうやまい、我をはらず、人のために身を挺して尽くす。 そんなことを、母は口にだして言ったことはない。声を荒げて叱ったり、ましてや体罰を加えたりしたことは一度もなかった。しかし口で押しつけがましく教えられたり、叩かれたりする以上に、母のひたぶるな生き方は私の心の内奥に沁み入った。 母は、疲れると肩がこった。母は苦痛をもらさず、さりげない顔をしていたが、母の顔色や所作を見ると、私には肩がこっていることが直感的にわかった。 「お母さん、肩をもんでやるよ」 「いいよ、いいよ。なんでもないんだから」 「遠慮はいらないよ、もませてくれ。な、お母さん」 「そうかい」と母は、嬉しいような、こそばゆいような表情になって、くるりと背中を向けた。小さな肩であった。この小さな肩で、よくぞ重労働の農作業に耐え、十四人の大家族の家事をひとりできりまわしているものだ、と思うと、少年だった私は胸が熱くなるのだった。 (昭和50年10月【初心】) 父・母のこと 七 私が十七歳の三月、母は病床に臥した。兄は朝鮮の大丘に現役兵として入隊し、末っ子の妹は三歳になったばかりだった。兄に代わって私は必死に看病したが、越後の山々が緑にもえる六月二十二日、ついに母は不帰の客となった。数え四十三歳であった。 私はよろめくような衝撃を受けた。医者のいない僻村の不便さを、残念に思った。だが、それよりも烈しく、深く、私の心をわしづかみにしたのは形容しがたい無常感であった。 〈あんなにもやさしく、ひたぶるに生きた母、かけがえのない母が、なぜ四十三歳の若さで死んでしまったのか……〉 もう永劫に母の顔を見ることもできず、永遠に母の声を聴くこともできない、それを思いつめると、身をよじるような悲しみと無常の寂寥が胸の中を吹き抜けていくのである。(中略) 母のことを思うとき、すぐ頭に浮かんでくるのは、「鬼手仏心」という言葉だ。仏心とは限りなく包容する心、無私の大愛であって、そこから無償の行為が生まれる。しかし無償の行為とは、かたちのうえで相手に歓びを与え、相手を満足させる行為だけではない。ときによっては相手に打撃を与え、反感を起こさせることもあるだろう。皮相な愛憎を超えた高い慈悲の行為の根元が仏心──つまり菩薩の心である。 表現をかえていえば、自分の幸福と同時に人の幸福を願い、自分の心の平和を社会の平和、世界の平和に広げていく、という広い人間性を培うのが仏心というものだ。 厳愛二法のこの仏心にたいして、舐犢の愛という言葉がある。親牛が子牛を舌で舐めるように、親が子を溺愛することであって、そのような動物的な狭い愛は、むしろ人にあまえ、社会にあまえ、利己的で閉鎖的な人間を育てる温床になりやすい。 宗教にも似たようなことがいえる。とかく宗教者は現実から遊離した存在になりがちで、社会から孤立した教団の小さな枠の中に閉じこもり、その枠の中での内省のみにおちいりやすい。だが、自分だけが家の中で先祖の供養をすればこと足りる、という隠遁的な姿勢や、自分だけが救われたい、という狭い考えでは時代の潮流に押し流されてしまう。全人類の連帯性が強まった現代では、みんなを幸せにしないかぎり、真実の幸せは訪れないのだ。これからの宗教者は広い視野に立ち、自分の悩みを社会に拡大して社会の病弊と取り組み、全人類の平和のために取り組む、という衆生済度の積極的な活動が必要である。 (昭和50年10月【初心】) 父・母のこと 八 私の人生を振り返ってみても、両親が、「世間さまに不義理をするようなことがないように」「人さまに迷惑をかけないように」と、まったく陰日なたなく、十四人の家族を食べさせていくために一心不乱に働き、その毎日に心から感謝している姿、そして、それぞれの子どもに、できることをちゃんとやらせていくといった家庭の中で、「人間は、こう生きるものなんだな」ということがおのずと身についてきたのです。 (昭和54年01月【躍進】) 父・母のこと 九 瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処より 来りしものぞ 眼交に もとな懸りて 安眠し寝さぬ 反歌 銀も黄金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも 山上憶良 日本人は、昔から父親でも、このように子煩悩だったようです。まして母親においてをやです。子のためにはどんな苦労をも厭わぬ、どんな犠牲にでもなるというのが、日本の父母の伝統的な考え方だったと思います。 父母のこういう考え方や態度は、理屈抜きに強い印象を、子どもの胸に残します。一生の間、それが心の支えになるものです。 私の父も、母も、別にえらくもないふつうの人でした。(中略) 小学六年生まで出してくれたきりで、上の学校へ上げてくれたわけでもありません。蝶よ花よとかわいがってくれたわけでもありません。すばらしいものを買ってもらったおぼえもありません。それどころか、朝起きると、「草を刈ってこい」、学校から帰ると「桑を摘んでこい」と、遠慮会釈もなく使われどおしでした。 それなのに、今の私の心底に残るものは、そういった現象面を超えたところにある父や母の惻々たる愛情のみです。 どう説明していいか、言葉に窮しますが、とにかく、私たち子どもを見る目つき一つにも、他の人とは明らかに違ったものがありました。 温かさといいましょうか、潤いといいましょうか。一体感といいましょうか……あれが親というものなのだろう、とつくづく思います。 十六歳の秋、発電所建設の工事場に働きに行き、一か月半に百五十円という大金を稼いで帰ったとき、そのお金を仏壇に上げ、長い間手を合わせていた母の顔を思い出します。 十七歳の夏、「東京へ働きに行かせてくれ」と父母に相談したとき、しばらくジッと考え込んでいた父が、「よし、東京へ出て、ひと働きするか」とキッパリいってくれた、その言葉の重みを思い出します。 いよいよ出発というとき、しきりに涙を流しながら「からだだけはたいせつにな。着いたら、すぐ手紙をくださいよ」と、わかりきったことをクドクド繰り返した母の、瘠せた肩を思い出します。(中略) なにも特別なことはしてくれなくても、特別な愛情は示さなくても、親は親です。父はきびしく、母はやさしく……このごく自然な親らしさが、子どもの一生に与える影響は実に計り知れないものがあると思うのです。 ですから、子どもを生きがいとするからといって、けっして異常なことをいったり、したりする必要はなく、ほんとうの愛情をもって、ただ、親らしくしてやればいいのではないかと思います。自分の体験からしても、そう信じざるを得ないのであります。 (昭和44年11月【生きがい】)...
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...大自然にいだかれて 一 生きがい……人間にとって、これほどたいせつなものはないのに、その生きがいとはどんなものかということになりますと、なかなかつかみにくく、表現しがたい嘆きをおぼえます。 それは、意識と無意識のちょうど中間あたりのところを上下している浮沈子のようなものだと、私は感じています。しかも、人により、年齢により、環境により、場合によって、内容が千差万別なわけですから、まことに微妙・不可思議のものといわざるを得ません。 しかし、強いてあらゆる人間の、あらゆる場合に通ずる定義を……ということになれば、きわめて抽象的なようですけれども、次のようにいうことができるのではないでしょうか。 「生きがいとは、生命の充実感である」 ものごとに接し、ものごとを行ない、あるいは、ものごとを期待するとき、自分の心身の中で生命が躍動するような喜びを感ずる……これが生きがいの実体であるといえましょう。 もちろん、その喜びは、意識の上だけの浅いものではありません。心のもっともっと深いところに感ずる喜びです。いわば、いのちそのものが喜ぶのです。 そういういのちの喜びの中で、一番素朴なのは、大自然に接し、大自然に融け込んだときに感ずるもののように考えられます。 今思い返してみますと、私が子どものときに感じた生命の充実感は、おおむねそのたぐいであったようです。 (昭和44年11月【生きがい】) 大自然にいだかれて 二 山の中の大自然にいだかれた生活は、まったく楽しいものでした。 四月にはいりますと、それまですっかり野山をおおっていた雪が解けはじめます。なにしろ、十一月から降りはじめる雪は、一番深くなるころは家の軒まで達し、白一色の世界が約半年つづくのですから、それが解けはじめるころのうれしさは、なんともいえません。 田んぼの黒い土が、ところどころから顔を出してきます。小川の流れも見えてきます。土手には水楊が銀色のつぼみをふくらませ、セリやアサツキが目にしみるような緑色を見せるようになります。すると、日当たりのいいほうから、見る見る雪が解けていって、野も山も懐かしい地ハダを現わしてきます。 道路も、冬じゅう降り積もった雪がコチコチに固まって氷のようになっているのを、四月の初めごろ、〈道割り〉といって、ところどころ雪を切り開いて土の表面を現わしてやりますと、上からの太陽と、下からの地熱で、一週間ぐらいの間にズンズン消えてしまいます。 四月下旬になりますと、山かげや谷間を残して、あらまし雪がなくなります。すると、野山にはワラビやゼンマイが勢いよく顔を出し、木々も、いっせいに芽を吹きます。 アケビをはじめ、タラ、クコ、ウコギなどの芽は、春の農家にとっては天与のごちそうで、おひたしやゴマよごしにして食べます。竹やぶにはタケノコも出てきます。兄弟たちと山に行っては、このような山菜をカゴ一杯摘んで帰るのです。それが、なんともいえぬ楽しみでした。 この季節の、胸の躍るような快さは、北国の人間でないと、とうてい味わえないでしょう。 (昭和44年11月【生きがい】) 大自然にいだかれて 三 幼い心は、なんらの抵抗もなくスーっと大自然の中へ融け込んでしまいます。 それからすこし成長しますと、万物万象に対して驚いたり、感動したり、不思議をおぼえたりするようになります。 幼い心に比べれば、その間にワン・クッションが置かれているわけですけれども、しかし、驚き、感動し、不思議がることは、やはり、大自然の中に融け込んでいることにほかなりません。 そのような瞬間には、意識するとしないにかかわらず、内なる生命がはちきれそうに躍動しているのです。いのちが喜んでいるのです。〈一番素朴な生きがい〉の感じです。 しかし、素朴であり、原始的なようであっても、これは人間にとって、非常にたいせつなものだ、と私は信じています。 (昭和44年11月【生きがい】) 大自然にいだかれて 四 この地球上の自然の成り立ちや、その運行のありさまを眺めてみましょう。 雪をいただいた高山があります。いかにも神々しい姿。それを仰ぎ見ていますと、身も心も洗われる思いがします。しかし、そこには一本の木も生えていません。われわれの実生活とは一応なんらの関係もないようです。 それよりずっと低いところに、平凡なかたちの山なみがつづいています。ところが、よく見ると、スギやヒノキの美林でビッシリです。 清らかな急流があります。舟は通れませんが、水力発電には利用できます。洋々たる大河があります。黄色くうす濁ってはいますが、あたりの平野をうるおし、またたいせつな交通路ともなっています。 植物にしても、高さ数十メートルに達するチークの巨木もあれば、庭先に風情を添える小さなナンテンの木もあります。動物にしても、牛がおり、馬がおり、犬がおり、猫がおり、ウグイスがおり、ツバメがおります。鉱物にしても、ダイヤモンドがあり、水晶があり、石炭があり、硫黄があり、鉄があり、ウランがあります。 こういった、千差万別、無数雑多な種類のものが、それぞれあるべき所に位置を占め、一定の均衡を保ち、微妙なリズムをもって運行している──というのが、われわれの住んでいる世界の姿です。自然の実相です。 ところで、われわれ人間も自然の一員です。われわれのつくっている社会も、大きな意味における自然の一部です。ですから、人間といえども、人間がつくっている社会といえども、こういう自然の成り立ちや運行の姿に背反することはできないのです。 石炭や硫黄や鉄がみんなダイヤモンドになってしまったら、どうにも始末に負えないでしょう。教室のストーブに焚かれる石炭が、溶鉱炉で鉄鉱石を溶かす石炭を羨ましく思ったとしたら、まったくバカな話だといえましょう。それと同じように、人間の社会も、千差万別の個性と能力をもった人間がそれぞれあるべき所に位置し、一定の均衡を保っていてこそ、この社会は微妙な調和とリズムをもって、運行し、成長していくのです。 (昭和41年11月【人間らしく生きる】) 大自然にいだかれて 五 われわれが今こうして生きているのは、空気・水・土・太陽光線・山川草木、その他のあらゆるもの(もちろん人間も含む)に支えられて生きていることがわかります。つまり、この世はあらゆる生命の共同体であって、われわれは、その共同体の一構成分子として、万有・万物のもちつもたれつの関係の中で存在しているわけなのです。そのことが真底からわかれば、おのずから天地万物の恩を感じ、万有・万人に感謝する気持ちが起こってくるのは当然のことではありませんか。 これは、なにも特別なことではなく、じつは、ごく普通の心情なのです。もし、あなたが寝たきりの病人で、ある人に全生活の世話をしてもらっているとしたら、その人に恩を感じ、感謝せざるを得ないでしょう。ところが、その世話をし、生かして下さるのが世の中のたくさんの人びと、山川草木ということになると、それに対して感謝の念を起こすということが、なかなかできにくい。ましてや、仏とか、霊とか、祖先とかいうような目に見えない存在になると、もっと感謝の念を起こしがたい。なぜそういう念が起こりにくいのかといえば、理由はただ一つです。それは、そういうものに自分が支えられている実相を知らないからです。 仏教の教えというものは、詮じ詰めれば、天地すべてのものに支えられているという実相、目に見えないものにも生かされているという実相を、われわれにわからせるためのものなのです。「縁起」の教えといい、「諸法無我」の法門といい、法華経の方便品の「諸法実相」の教えといい、如来寿量品の「永遠の生命」の教えといい、すべて、そのことをわからせるためのものなのです。 それがわかれば、すべてのものに感謝せずにはいられなくなります。たくさんの人びとが、そんな気持ちになって感謝し合えば、世の中は和やかな、明るい、温かさに満ちたものになります。そうなれば個々人も幸せになってきます。それが、とりもなおさず浄土であり、寂光土なのです。仏教の理想は、ここにあるのです。「仏教の思想は恩の思想だ」と言い切った人は、おそらく、こういう理由からだったと思うのです。 (昭和54年04月【躍進】) 大自然にいだかれて 六 いろいろなかたがたのおかげをありがたく思い出していますと、幸せとは恩を感ずることから生まれる情緒ではないか……という気がしてきます。なぜならば、恩を感ずるということは相手の愛情を感じ取ることであり、多くの人びとの恩を感ずるのは、とりもなおさず多くの人びとの愛情に包まれているという実感をもつことにほかならないからです。とすれば、仏教で感謝・報恩ということを強く教えているのも、たんなる倫理としてではなく、現実に幸せになる道だからではないのだろうか……と考えられてくるのです。 今の世の中には、すべてのことを理屈で割り切ったり、権利・義務だけでかたづけたりする風潮が濃厚なようです。たとえば、「親が子を育てるのは動物としての本能であって、別にありがたがることはない」とか、「教師が生徒を教育するのは、それで月給をもらっているのだから、当然だ」とかいう考え方です。そういう考え方をおしひろげていけば、「植物が炭酸ガスを吸って酸素を吐き出しているのは、植物自身が生きるためなのだ。太陽が光と熱を地球上に降りそそいでいるのは、たんなる自然現象だ。何も感謝する必要はない」というような思想に行きついてしまうでしょう。 そういう思想は、ぜったいに人間を幸せにはしません。極端なエゴに閉じこもり、他と協調することをきらう、思い上がった人間を造り上げるばかりです。そういう人間が多くなればなるほど、この世はギスギスした、住みがたいものとなってしまいます。それどころか、自然をもしたいほうだいに破壊し、汚染し、そのシッペ返しを受けて人類は滅亡してしまうほかありません。 それよりは、父母にも感謝し、先生にも感謝し、世の中の人びとはもとより、草木国土・天地万物にも恩を感じて、「ありがたい、ありがたい」といい暮らすほうがどれほど幸せか知れません。自分は天地万物の恵みに包まれているのだ……と実感し、すべてのものに愛情をおぼえつつ生きるのですから、こんな幸福なことはないわけです。しかも、このように感ずる人が千・万・億とふえていけば、人間同士がお互いに愛情をもって支え合っていけるばかりでなく、植物とも、動物とも、土とも、水とも、空気とも仲良くしていくことになりますから、世の中は必ず平和な、住みよいものになっていくのです。これは必至の成り行きです。 理屈っぽい人は、このような感謝・報恩の考えを、「甘い」と一笑に付すかも知れません。が、それは浅薄な理屈からの見方です。大きな目でこの世の成り立ちを眺めてみれば、天地万物は相依相関して存在し、そこに微妙な調和の世界が造り上げられていることを発見できます。それこそが宇宙の実相にほかならないのですから、「すべてのものに感謝し、すべてのものと仲良くする」という生きざまは、表面のあらわれは情緒的なものでありますけれども、その大本を探れば、おごそかな宇宙法に立脚した、真の意味で理にかなったものであり、けっして甘いなどと笑えるようなものではないのです。 人間お互いがギスギスした冷たい気持ちで、対立して生きているのと、甘い、温かい情緒の中で肩を寄せ合って生きているのと、どちらが幸せであるかは、言わずとも決まっているはずです。生きることは本来的には苦の連続なのですから、その上にわざわざ苦を造り出してつけたすなど、バカげた業ではないでしょうか。 (昭和50年11月【佼成】) むかしの単純な構造の社会においては、着るものも自分で紡いで自分で織り、食物も、お米をのぞけばたいていの家庭が自給自足していました。(中略)それにたいして現代は、どこのだれにお世話になっているのかわからぬほど広域化し、複雑化しているために、恩を感じ、それに感謝する気持がうすれてきたのだと考えられるのです。しかし、世の中が進めば、人間の知恵もそれにつれて進まなければならないはずです。恩を受ける相手がひじょうに広域化し、複雑化したら、それをちゃんと見ぬくほど知恵も進まなければ、進歩した社会の人間としての資格はないはずです。 (昭和41年07月【復帰】) 大自然にいだかれて 七 おおかたの人は、おとなになって世の荒波に揉まれていくうちに、しだいに大自然に背を向けるようになり、大自然から尊いものを受け取る感受性も鈍化し、すりへらされていくものですが、魂の純粋な人は、いつまでたっても、それを珠玉のように保持しつづけます。一生涯、大自然に対して驚き、感動し、不思議をおぼえ、大自然と共にあること自体に生きがいをおぼえるのです。 たとえば、人麿がそれであり、芭蕉がそれであり、西行がそれであり、良寛がそれであります。 巻向の山辺とよみて行く水の水沫のごとし世の人われは 人麿 人間の魂が山川草木の魂にまったく融合し合ったところに生まれる、純粋無垢の無常観です。 人麿は、「水沫のごとし」と、わが身の無常を詠嘆しながらも、その澄み切った観照の中に、かえって深い生きがいを感じていたことでありましょう。 よく見れば薺花咲く垣根かな 芭蕉 垣根の下にヒッソリと咲いているペンペン草の小さな花。ふつうの人なら、たいてい見過ごしてしまうでしょう。たとえ、目についても、なんらの感興をも起こさないでしょう。 ところが芭蕉は、その平凡な、目立たない花に、生命というものの不思議さ、力強さ、美しさを新鮮に感じとったのです。 おそらく、この花に目をとめた芭蕉の心の奥には、曰くいいがたい生きがいのようなものが、静かに息づいていたにちがいありません。 願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ 西行 こうなると、大自然への融合を人生の願望としている態度が、ハッキリとうかがわれます。 生死一如……このような死は、とりもなおさず生のたいせつな一部にほかなりません。生とひとつづきのものなのです。そして、こうした死の願望こそ、晩年の西行の生きがいであったわけです。 霞たつながき春日をこどもらと手まりつきつつこの日暮らしつ こどもらと手まりつきつつこの里に遊ぶ春日はくれずともよし 良寛 天地とも、子どもらとも完全に同化してしまった、ゆうゆうたる境地の、なんというスバラしさ。 「くれずともよし」は「くれるともよし」に通じます。暮れれば、山の庵へ帰るまでのことです。まったく大自然の中に融け込んだ、いわゆる自然法爾のやわらかな心の中に、宝玉のように澄み切った生きがいが底光りしているのを、われわれは、まさしく感じとることができるのであります。 (昭和44年11月【生きがい】)...
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...ふるさとの生活 一 私の村は山の中だったけれども、なかなか眺めがよかった。東南のほうには清水峠・中将岳・八箇峠の峰々が連なり、そのはるか向こうに越後三山の一つとして名高い八海山がそびえていた。西の方には薬師岳・黒姫山を望むことができた。 菅沼からさらに一キロばかり山奥へ行ったところに、直径二百メートルほどの蓮池があり、大池といった。山のわき水をたたえたきれいな池で、夏になると、ここで釣りをしたり、泳いだりして、大いに遊んだ。 (昭和51年08月【自伝】) 遊びもみんな相互扶助でした。いい塩梅に遊んだり遊ばせたりでした。冬になると、一日中雪の中で遊んだものです。雪の中は暖かいのです。雪の高さは背丈より少し高いから、それより低いところに道路が通っているわけです。風がビュービュー吹いても道路は風がさえぎられて、わらぶし(註・わら帽子)をかぶって歩いていると平気なのです。 そして、雪国だからスキーもよくやりました。指ぐらいの太さの山竹を五本か七本並べて、火箸を焼いてあけた穴に針金を通して三か所をゆわくのです。それを雪ぐつの下につけて足にしっかりゆわえて滑ると、それはいい気分です。ほんもののスキーは、私より二つ年上の田村俊雄という人が、高等学校時代に村に持ってきたのを見たのが初めてでした。私どもの村一番のだんなさんの家の娘が彼のお母さん(註・田村タウさん)で、川の向こうの中魚沼郡上野というところに嫁入りしたのですが、その上野の坊がスキーに乗ってきたわけです。それがカッコよかったものですから、とても羨ましくて、うちに竹がたくさん切ってありましたから、真剣になって火箸を焼いては穴をあけ、針金を通して長いスキーをこしらえたりしたものでした。 (昭和54年01月【速記録】) ふるさとの生活 二 五月の初めには、田んぼに苗代を作って種おろしをする。そして、六月の中旬ごろになると、どこの家でもいっせいに田植えが始まる。学校は農繁期休暇となって、子どもたちもみんな手伝いをさせられる。苗代での〈苗取り〉、それを籠に入れて田んぼに運ぶ〈苗背負い〉、この二つが子どもにちょうどいい仕事だ。(中略) 田植えが早く終わった家では、まだ終わらぬ家へ手伝いに行くし、初めから手のたりないことのわかっている家同士では、あらかじめ話し合い、日を変えて助け合う。 そして、どの家でも、田植えの終わった最後の夜には〈植上げ〉の祝いをした。小豆団子をこしらえ、ニシンやイワシを焼き、とにかく、この日のための取っておきのごちそうを出して祝杯を上げる。子どもたちは、大きい朴の葉に包んだ煎り豆やあられをもらって、遊びながら食べた。農家ならではの楽しさだった。 (昭和51年08月【自伝】) ふるさとの生活 三 家で十三回忌など法要があるようなとき、お客さんは山を越えてやってきてくれるので、本膳を出す前にお着き膳(註・到着した客に、すぐに出す食事)といって、手ごろなお椀にアベカワ餅を入れて出すのです。お客はそれを食べて、ひとまず腹をしっかり決めてから、大きな茶碗で酒を飲む会に移るわけです。 (昭和54年01月【速記録】) 長男が生まれたときは、もうえらい騒ぎになります。ところが、われわれみたいに次男以下の子が生まれたときは、ぜんぜんおかまいなしでした。 (昭和54年01月【速記録】) ふるさとの生活 四 私の村には九軒の仲間があって、庚申の日にはそれぞれの家に順繰りに集まります。庚申は六十日ごとにやってきますが、その日は魚臭いものがあってはいけないというので、前の晩に茶碗から皿・小鉢に至るまで全部灰磨きして清めます。出す料理にしても、煮干しや鰹節などの魚臭いものはいっさい使ってはいけない。それでちゃんと味をつけなくてはならないわけですから、これがむずかしいのです。 庚申の日は六十日ごとですから、一年に六回しかありません。それを九軒で順繰りにやるのですから、そのほかに七草正月を加え、さらに間戸を中間に二つもってきます。そのためにみんなで、くじ引きをするのです。 山菜の出回る時期に自分の番が当たった人は、まことに具合いがいいのですが、なんにもないような時期にぶつかると、ちょっと具合が悪くなります。ところが間戸に当たった家は、いつでも自分の好きなときにやればいいことになっていたので、そのくじを引くと都合がいいわけです。秋の収穫後のものがたくさんあるときや、山菜のどっさりあるときにやればいいのですから。それ以外の場合は庚申の日と決まっていましたが、こういう夜の酒盛りは家々のおやじさんたちにとって、最高のレクリエーションでした。 (昭和54年01月【速記録】) ふるさとの生活 五 最近は都会でも田舎でも“隣は何をする人ぞ”といった生き方が、あたりまえになりましたが、昔は周囲から自分の家が常に見られているという、ある意味での社会への責任感がありました。間違ったことをしたら家族全体に影響する。それが規制力になって、道徳と倫理が厳として存在していたのです。 (昭和49年08月【佼成】) 今では家の周りの道路一つ掃くにも、人を雇うのがあたりまえのようになっていますが、たとえば、それを近所の青年たちが朝早く起きて、清掃するというかたちで手近なことから始めていく。それが大事なのです。郷土意識もそのことから芽生えてくるでしょうし、そのときに感じ合う清々しい気持ちは、人びとの心に信仰への信念をはぐくんでいくでしょう。すでにこの運動は、全国各地で、そうしたかたちで進められていますし、だからこそ、また、地元の人びとからも喜ばれ、高く評価されているのです。 (昭和52年07月【佼成】) 私も外国を歩くたびに、痛感しますが、エレベーターに乗り合わせても、知らないもの同士がお互いににこやかにあいさつし合うというように、人びとの気持ちも明るいのです。郷土意識の基礎になるのは、そうした連帯感だと思います。 (昭和52年07月【佼成】) ふるさとの生活 六 自分の村について、私が自慢にしていた話があります。それは年寄りから聞いた話ですが、かなり以前に飢饉があったとき、みんなが食べるのに困ってどこの村からも乞食が出たのに、私の村からはひとりも出なかったというのです。しかも開闢以来、乞食を出したことのない村だというので、昔は、県庁からほうびをもらったこともあると聞きましたが、村の人たちもそれを誇りにしていたものです。今でいう、相互扶助の精神が生きていて、この村から乞食を出すまいとしたのでしょう。 (昭和54年01月【速記録】) 昔、飢饉のために食べるものが何もなくなってしまうと、私のおじいさんは山に葛の根を掘りに出かけたものだといいます。とってきた根を水の中で叩くと真っ白な澱粉が流れ出てきます。クズが下に残って、上澄みを取ると、それが食糧になるのです。 おじいさんは、また、私の家の隣の人と一緒に山へ行ったという話も聞かせてくれました。そのときは葛の根がたくさん取れた。そこで背負って帰ろうとしたのだけれども、隣の家の人は汗ばっかりかいていて、足が進まない。どうも弱っているように見えたので、からだが悪いのかなと思って聞いてみたが、そうじゃないといって、タラタラ流れる汗を拭きながら、山を下りようとする。そのうち、あたりもだんだん暗くなってきた。おじいさんはそのとき、“腹が空いて歩けないのじゃないか”と直感して、「ここに餅が一つ残っているよ」といって、それを食べさせたのだそうです。お昼のために持ってきた葛やヒエ、モチ草などを入れてついた餅を、一つ残しておいたのがあったというのですが、それを食べたあと、隣の人はもう汗もかかなくなり、どんどん足を早めて帰ってくることができたそうです。「腹が空いては戦はできない。私たちは、こういう思いをして生き延びてきたんだ」といって、教えてくれたおじいさんの話を、私たちは笑って聞いたものですが、人間困ってくると、そんなものなのです。 (昭和54年01月【速記録】) ふるさとの生活 七 人間のこれからの問題は、自らの心に大安心があるかどうかということに尽きると思います。いいかえると、それは、全体のためにやるべきことをやっているかどうかということです。 (昭和52年05月【佼成】) 狭い地球上の人類が生存するためにも、お互いが共存し、仲良く長生きできるような集団社会としての知恵が生まれなければなりません。また、生まれてほしい時代です。 (昭和52年05月【佼成】)...
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...庭野家の家風 一 私は新潟県の山奥の純農家に生まれました。裕福では決してないが、さりとて食うに困るということもないていどの暮らしでした。したがって、一家じゅうがマメに働きました。働かざるを得なかったのです。母も、忙しい田畑仕事の合間に、越後上布の原料である麻糸をつくったり、蚕を飼ったりして、現金収入を計っていました。私たち子どもも学校から帰れば、桑摘み、草刈り、赤ん坊の子守などで、親の手助けをしたものです。 小学校を卒業してからは、ほとんど一人前に近い百姓として働きました。耕地といっても平地は少なく、田畑に肥料を運ぶにも険しい山坂をかついで登らねばならず、つらさが骨身にこたえたものです。冬になると、撚糸工場に行ったり、発電所の工事場に行ったり、現金収入を得るために、いろいろ工夫したものです。 一方、食生活はどうだったかといいますと、おきまりの飯とみそ汁と、つけ物と野菜の煮つけぐらいのもので、海の魚など、一年に一回か二回しか口に入ることがありませんでした。行商人が売りにくる塩いわし一ぴきが、どんなにすばらしいごちそうだったか。まるで宝物のように、頭からしっぽまでなめるようにして食べたものです。それでいて病気一つせず、頑丈な大男に育ったのですから、あまり栄養、栄養と騒ぐのはおかしいのではないかと思うのです。それはともあれ、このような苦労の中で育ったことが、私の一生にとって大きな幸せだったと信じています。 (昭和49年11月【佼成新聞】) 庭野家の家風 二 幸いだったのは、一つ屋根の下に、二家族十四人が住むという大所帯の中で育ったこと、しかも、そうした大家族でありながら、みんなとても仲がよく、貧しいながらも、明るく活気に満ちた家庭だったことです。 (昭和49年11月【佼成新聞】) 祖父も、父も、母も、いたって無欲恬淡で、人のために何かしてあげることが好きなたちだったのです。 (昭和49年11月【佼成新聞】) 庭野家の家風 三 私など、幼いときは、田舎で、ノホホンと育ちました。“教育”といっても、私は小学校を出ただけですが、一番、印象に残っていますのは、祖父が「人間は万物の霊長だから、自分のことだけをしているようではだめだ。やはり人さまのために、一生懸命尽くしてこそ、人間に生まれたかいがある」と言っていたことです。 (昭和45年08月【佼成】) 楢のマキを割ると、その中に穴をあけてすんでいる虫がよく見つかります。私の田舎では鉄砲虫などと呼んでおりますが、きっと突き貫くということから、この名前がついたのでしょう。そんな虫でさえも、自分できちんと道をくり抜いて生き通します。まして、万物の霊長である人間です。ただ生きて通るだけでは、何の役にも立ちません。 (昭和41年11月【速記録】) 私は今も、祖父の言葉をよく思い出します。「家族の者が一生懸命稼いで、めしを食べてゆくだけなら、鉄砲虫とおなじだ。虫ケラでも食うだけのことはする。だから、自分たちが食べていくだけでなく、家族のだれかひとりぐらいは、社会のために、お役をする人間を出そうと考えなくては、世の中はよくならない」といっていました。それで、田舎の道普請など共同の仕事がありますと、うちでは一番の働き者を出して、「うんと奉仕してこい」というのです (昭和44年04月【佼成】) 村の道普請のときなど、「骨惜しみせず、人の何倍も精出してこい」というものですから、自然に私も人のいやがる仕事は、一手に引き受け、もりもり働きました。奉公にでてからも、「仕事がつらい」なんて弱音を吐いたことは、一度もありません。 (昭和45年08月【佼成】) 「人をごまかしてはいけない。何か人のためになることをしなくては人間は万物の霊長といえない。霊長というのは、あまねくものに潤していくものだ」と、いつも祖父に聞かされました。 そして、うちでは、行商の人とか、芸人とか、宿がなくて困っている人を、よく泊めたものです。 (昭和44年04月【佼成】) 庭野家の家風 四 父は祖父ゆずりで医者のまねごとがじょうずでした。なにしろ無医村のことで、毒虫に刺されたとか、たちに悪いできものができたとかいった場合、村の人たちは、まず父のところへやってきました。また、灸もじょうずでしたので、それをすえてもらいにくる人も多かったのです。なにしろ昼間は田畑や山の仕事で家にいないので、朝暗いうちか、夜やっと晩ごはんをすませたころを見はからって、“患者”たちが押しかけてくるのでしたが、父はイヤな顔一つせずに治療してあげました。 また、村の家庭にもめごとがあると放っておけない性分で、自分から出かけていっては、それをうまく納めたものでした。とにかく、人にはまめに親切を尽くしました。野菜など家にあまっているものは人にどんどんあげたものですが、それも一番いいものをえらんであげ、家で食べるのはクズばかり……といったふうでした。そういう父の行動を日夜見て育ったことが、私の一生をどれほど左右したか、まことに計り知れないものがあると思うのです。 (昭和52年11月【佼成】) 庭野家の家風 五 家庭の中から得たものはたいへん多かったと思いますが、一番大きいのは協調の精神だったといってもいいでしょう。子どもだけの世界においても、なにしろ九人の子どもが一緒に住んでいますと、ひとりびとりがわがままを言い出せば、どうにも収拾がつかなくなります。そこで、もちろん当時はハッキリ意識してやったわけではないのですけれども、とにかく自然に、言うことなすことにわがままを控えるようになったのです。協調的な精神が知らず知らずのうちに身についたわけです。 これは非常にたいせつな事柄だと思います。人間が社会的動物である以上、協調の精神は人間の根本的資格の一つです。その精神を養うには、幼少時から、なるべくたくさんの仲間と一緒に暮らすのが最も効果的であることは論をまちません。 (昭和46年02月【躍進】) 若い人にとっては、年寄りと同居していますと、いろいろな面での気苦労があると思います。食事の面では、米とパン、味つけの濃淡、肉食、菜食と、年寄りに心づかいをしなければならないでしょう。そうすれば、若夫婦にしてみれば、「思ったこともできない」という“不自由さ”を感じることでしょう。 しかし、子どもの教育となると、年寄りがいたほうが合理的で、いい環境になるのではないでしょうか。若夫婦が働きに出ても、老夫婦が家庭をしっかり守れば、家庭教育はりっぱに行なえます。いわゆる、カギっ子ということもなくなります。子どもが家へ帰ってくれば、必ず年寄りが温かく迎えてくれるでしょう。手づくりの愛情のこもったおやつも子どもに与えられるでしょう。 (昭和41年08月【佼成新聞】) 庭野家の家風 六 私は別に自分を偉い人間などとは思っていませんが、ただ欲がないことと、苦労をいとわないこと、人間同士の和合を第一に考えることと、人さまのお役に立つことを人生の喜びとしていること、この四つだけは、いささかの取り柄ではないかと自負しております。 この四つの取り柄を育ててくれたのが、小さいころの生活と家庭の有り様だったと思うのです。 (昭和49年11月【佼成新聞】)...
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...祖父の薫育 一 大家族の中心となる存在は、祖父でした。ノンビリした、愉快な性格の人で、私ども孫たちをとてもかわいがってくれました。それも、今思い出してみますと、いわゆる、チヤホヤ甘やかすというかわいがりかたではなく、そのなかに一本の筋金が通っていたように思われます。 四つか五つの遊びざかりのころは、冬になると、雪のなかでこけつまろびつして遊んだものですが、そうしているうちに、着物のスソにはツララがさがり、手の甲は紫色になって、指も自由に動かなくなってしまいます。そんなすがたで家へ帰りますと、祖父は、「バカヤロウ。こごえてしまうじゃないか」と叱りつけながら、私をとっつかまえ、クルリと裸にして、綿入れの背中にスッポリ入れてくれるのでした。 (昭和42年02月【佼成】) 外で遊んで冷えきって帰った私を、祖父は体温で温めてくれるのですから、なんともいえないくらいいい気持ちでした。そうやって背中に入って、おじいさんの脇の下に手を入れると、「こらっ、そんなことをしちゃ冷たいじゃないか」といいながら、それでもかわいくて温めてくれるわけです。そして、背中の私に、「人間というものは、人さまのためになることをするように心がけなくてはいけない」とか、「人に迷惑をかけるようなことをしちゃいけない」などと、繰り返し繰り返しいうのです。「私は、おまえがかわいくて、こうして一生懸命になって育てているんだよ。おまえも、おとなになったら、人のためになるような人間になれ。人に迷惑をかけるような人間になってはいけない……」、そういうことを口癖にいっていた祖父でした。 (昭和41年11月【指】) 「悪いことをしちゃいけない。ずるいことをしてはならない。正しいことをしろ。そして、人のために働け」と、いいつづけたおじいさんは、「七仏通誡偈」を三歳の童子(註・道元「正法眼蔵」の説話に出てくる童子の譬えを指す)の私に、聞かせてくれていたようなものです。 (昭和41年11月【速記録】) 祖父の薫育 二 私もまだがんぜない子どもですし、毎度のことなので、「ウン、ウン」と返事だけはしても、──また、じいさんの寝言が始まった──ぐらいにしか聞いていませんでした。しかし、今にして思えば、この寝言がたいへん重大なものだったのです。 なにしろ、子どものことですから、いわゆる、〈表面の心〉は、そんな言葉などすぐ忘れてしまいます。いい子になろうとか、人さまのためになる人間になろうとか、そんな殊勝なことは、いっこう考えもしません。しかし、その言葉は、いわゆる、〈かくれた心〉にすっかり沁みこんでいたらしいのです。そして、二十年あまりもたってから、とつぜん芽を吹き出してきたらしいのです。 いや、「らしい」ではなく、ハッキリ「そうだ」と断言してもいいでしょう。なぜなら、私が信仰というものを知るようになってから、しきりと祖父のその言葉を思いだし、シミジミ味わいなおすようになったからです。ですから、私が微力ながらも人さまのために仏の道を説く人間になったというのは、その祖父の口グセがひとつの大きな因をなしているのだ、と断ずることができるのです。 それにつけても考えられるのは、もし祖父が私にたいする愛情を態度にあらわせぬ人だったとしたら、そして、私が祖父を好きでなかったとしたら、その言葉が私の潜在意識(かくれた心)にどういうかたちで残っただろう……ということです。かわいがってくれず、いつもガミガミ叱ってばかりいる、冷たいじいさんが、「人さまのめいわくをかけない人さまのためになる人間になるんだぞ」とおしつけるようにいったとしたら、おそらく「なにをッ」という反抗の気持ちとなって心のシンに残り、後日、きっと歪んだかたちで芽を吹き出したにちがいありません。恐ろしいことだと思います。 私は、いい祖父をもって、幸せでした。田舎の百姓のじいさんながら、子どもを育てるうえのひとつの信念と、それを子どもに植えつけるタイミングを、人間ほんらいの智慧として心得ていたのではないか、とつくづく思うのです。 (昭和42年02月【佼成】) 祖父の薫育 三 昔は、こういった家庭教育が一般に行なわれていました。目標の大小・高低は別としても、「大きくなったら、えらい人になれよ」とか、「三国一の花嫁さんになるんだよ」と、赤ちゃんのときからいわれて育ったものです。これが全般的にいって、どんな効果をもたらしたか、にわかに立証することはむずかしいのですが、私は必ずなにがしかの影響はあったものと信じます。 いずれにしても、暗示の力の大きいことは、心理学や精神分析学でもじゅうぶん認められていることです。これを家庭教育に活用しないのは、大きな損失だと思います。もの心のつかぬ乳幼児は、顕在意識の世界においては半分眠り、半分醒めているような状態だと考えていいでしょう。そのようなときに、よい暗示を繰り返し繰り返しあたえてやれば、睡眠中にテープレコーダーで英語を聞かせるのとおなじように、その言葉は、必ず潜在意識となって植えつけられてしまいますから、必ずその子の一生にすばらしい好効果をもたらすはずです。 なお、ほんとうに力のある暗示は、「……するんだよ」とか、「……になるんだよ」というすすめの言葉ではなく、「おまえは賢い子になる。あなたは心のきれいな子になりますよ」といった断定的な言葉であるべきだと思います。その確信に満ちた断固とした言葉が、子どもの魂のなかの揺るぎない杭になるからです。 (昭和42年11月【育てる心】) 祖父の薫育 四 一つの家訓とでもいいますか、教育というかたちではなく、子どもの時分に、おじいさんが自分の主義として話してくれたことが、やがて十七、八歳のころに上京して奉公先の主人の信仰にふれたとき、強く心の中に芽ばえてきたように思います。“人さまが悩んでいること、苦しんでいることを解決してあげたい。病んで困っている人のために役立ちたい”という気持ちが強くなってきたのです。 そういうことから、だんだんと信仰から離れられなくなって、きょうまできたのですが、過去を考えますと、やはり、「人さまのため、世の中のために役立つようになれ」と、小さいころにおじいさんからいわれたことが、潜在意識に刻み込まれていたからだと思うのです。 (昭和41年11月【速記録】)...
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...菅沼と庭野家 一 菅沼には、昔は四十二戸の農家があった。耕地面積は田畑合わせて二十六ヘクタールである。一戸当たりの面積は、昔風にいえば五反歩しかない。祖父が若いころには白い米のごはんを食べるのは、一年のうち三日ぐらいで、稗めしや大根の葉を煮込んだめしを常食とし、夜は松の根を灯して囲炉裏ばたで緒を撚って、なりわいの足しにしたという。 私の少年時代には、それよりも生活は向上していた。 だが、四方を山に囲まれて耕地は少なく、一年のうち六か月は雪に埋もれた“雪ごもり”の暮らしである。 (昭和50年10月【初心】) 菅沼には、一冬のうちに雪がだいたい三丈五尺(註・一丈=約三メートル、一尺=約三〇センチ)ぐらい、少ない年でも一丈五尺ぐらいは降るのです。一丈五尺といっても、そのまま積もっているわけではありません。振った雪は、少しずつ下にたまっていきますから、三丈五尺降ったとしても、平地では九尺か、一丈ぐらいしか積もっていませんが、そうやって五メートルも降る雪の中で、半年も埋もれて暮らすのです。その残りの半年間に百姓は、一年生活していけるだけのものを穫らなくてはなりません。ですから、無我夢中で稼いでも足りない、雪国の生活であったわけです。 (昭和37年05月【速記録】) 越後でも、とくに十日町界隈を中心とした魚沼三郡は、上布の名産地として知られ、昔から南国の薩摩上布と、この越後上布が、上布の中でも最優秀品とされていた。越後上布は亜麻または苧麻(からむし)の繊維を糸にして織るのだが、とくに有名な越後縮は撚りの強い緯糸を用いて織るので、その糸撚りが基礎的なたいせつな仕事だったわけだ。 (昭和51年08月【自伝】) 菅沼と庭野家 二 親戚でも、村のどの家でも、何かごたごたが起こって納まりがつかないようだと、とどのつまりは「重左衛門に行け」ということになったものだ。重左衛門というのは私の家の屋号だ。今の都会人にはわからぬかも知れぬが、田舎の村に行くと庭野なら庭野という姓がたくさんあるので、姓で呼ばずにこうした屋号で呼ぶわけだ。 (昭和51年08月【自伝】) もめごとがあったら、「重左衛門へもっていけ」というのは、父の代になっても変わりがなかった。 なにしろ、本家と分家とか、分家仲間とか、姻戚同士とか、村の内外にはそんな関係の家がいっぱいある。その中で、夫婦げんかが陰にこもってしまったとか、相続のことで深刻な争いが起こったとか、そんなことがあると、とどのつまりは父のところへもってきた。それをうまく裁き、納めてやった。 いや、向こうからもってこなくても、父のほうから出かけて行き、仲裁役を買うことも、よくあった。困っている人を見ると、放っておけない性分だったのだ。 山道に上から土砂が落ちてきて邪魔になったり、路肩が脆くなったりしているのを見ると、仕事の帰りなど、それをていねいに直していた。あのような豪雪地帯では、ちょっとしたいたみが山崩れやなだれにつながるからだ。 (昭和51年08月【自伝】) 菅沼と庭野家 三 菅沼という村は祭りの多いところで、次から次へと祭りがあった。一方、それを楽しみに、祭りと祭りの間はじつによく働いた。一つには、近在の村々にくらべてわりに暮らしが楽だったせいもあったようだ。菅沼にはよその村へ年貢を持ってゆく家は一軒もなく、よそから年貢を持ってくる家はずいぶんあった。そのように比較的豊かであったことが、祭りやそれにともなう娯楽を盛んにしていたものと思う。 (昭和51年08月【自伝】) 子どものころ、たしか七月十一日だったと思いますが、夏の鎮守さまのお祭りに湯の花という行事がありました。 これは、鎮守さまで大きな釜にお湯をグラグラわかし、神主さんがその中に笹を入れて、お参りにきた人たちの頭をサアっとふってくれるのです。夏の暑いときに、熱いお湯をふりかけてもらい、頭を清めるという儀式なわけです。 この日は、私たちも、子ども心に頭を清めてもらおうと、鎮守さまにお参りし、熱い笹の葉の露が、頭にチーンとふりかかってくるのを、一生懸命合掌して待ったものです。 考えてみますと、このような儀式は、やはり、人間が神さまのまえで清めてもらい、ありのままの姿になろうという願いからきているのだと思います。私たちの心は、時間がたつにつれて欲で濁っていき、業障の方向へ向かい、なかなか自らは清まらないのです。そこで、一年にいっぺんのお祭りのときにでもせめて、神さまにあやかって頭を清めよう、ということで、このような行事になったのだろうと思うのです。 今日、宗教行事として、いろいろなかたちで伝わっているものも、もとは、人間が心をきちっと治めて、みんなが幸せになってもらいたいという真心から出てきたものなのです。 (昭和38年12月【速記録】) 菅沼と庭野家 四 同じ集落、同じ村の者たちが集まって自然や神に豊作を祈り、豊作の恵みを感謝する。日本の村には古来からそれがあったのだ。 「日本の古来の宗教は自然のなかの八百万の神を祭り崇めるという形式であった。この自然信仰と祖先崇拝は、仏教の情操的な母体といえるだろう。日本に仏教が定着したのは、そういう日本人の心の底の地下水を掘り当てたようなものである」(中略)暮らしは貧しくとも、そのような心の潤いが満ちているのだった。(中略) 人間の精神風土が形成される幼年期から少年期にかけて、最も大きな影響をもたらすのは、故郷の自然である。大自然のこころと摂理に触れ、先祖をうやまうこころをは無意識のうちに仏心をはぐくむのだ。 (昭和50年10月【初心】)...
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...暮らしぶり 一 私のうちは大家族でしたから、母の役はたいへんだったと思います。機も織れば、蚕も飼っていました。お針もよくやりました。私の兄弟は、男の子は五人ですが、それだけでなく、家じゅうの者の針仕事を、全部引き受けてやっていました。 それも、今の人には想像もつかないことでしょうが、着物など、私どもは、上から下までおなじ縞、おなじ柄のものは着たことがないのです。みんな袖は袖、衽は衽で、いろいろの布をつぎ合わせた着物ですから、私は「東海道ひとまくり」なんていったのですが、それこそ五十三つぎです。私どもは、盆か正月でなければ、上下おなじ柄の着物を着ることはありませんでした。 (昭和43年12月【佼成】) 親は正月には、新しい着物を着せますが、私も、母がちょっとよそ見してる間に、ポイと脱いで、東海道まくりを着て、すぐ外へ飛びだしたものです。うちの田舎なんか、半年は雪のなかでしょう。それを毎日外で遊ぶのですから、いい着物など、着ていられません。 (昭和43年12月【佼成】) 暮らしぶり 二 冬眠生活に入る準備が十一月の末に終わると、あとは冬よ来れと構えている。その点、農民はのんきなものです。そして大晦日になると、悠々と白いごはんを炊き、塩引きサケを焼くのです。切り身を囲炉裏の周りに刺して、ジージーと焼き、五合瓶ごと燗をして大きな湯飲みで酒を飲む。なかなか景気のいいものです。それも、お昼ごろから酒盛りが始まり、いい加減ごきげんになったところで、「今年も無事に済ませてもらうことができました」、と本家へあいさつに出かけるのです。その大晦日の夜は、零時になると家族みんなが起きて、男の子は下着を上下全部替え、新しく整えた着物を着て、雪の中を鎮守さままでお参りに行くのです。 ですから、東京に出てきて一番がっかりしたのは、正月でした。大晦日は夜中まで勘定取りがきて、ひどいのになると、元日の朝になっても、まだ、「今晩は、今晩は」……とやってくる。東京というところは、つまらないところだと思いました。 (昭和54年01月【速記録】) 暮らしぶり 三 私の子どものころは、正月にいただく塩引きのサケの大きな切り身が、一年じゅうを代表する魚でした。その切り身を、大晦日に一切れ、そして、お一日にもまた一ついただくのですが、正月三か日の間、家族のものはひとりひとり、自分に分けてもらった塩ザケ全部を差せるように、わらを束ねておき、それをまた、三、四センチのくしに刺して、だれそれのだとちゃんとわかるように、とっておくのです。塩ザケですから、焼くと切り身の周囲に塩が吹くので、味の変わるような心配はありません。ですから、自分にいただいた分は、決してむだにしないようにと、そのサケの切り身が正月1か月くらいたって、ようやくなくなるというぐらいに、外に沁み出た塩までなめるようにして、たいせつに食べたものでした。あとは、大根か芋の煮たのを食べて生活する毎日だったのです。 (昭和44年04月【速記録】) 私どもの郷里の雑煮の具というと、かんぴょう、大根、スルメ、人参、ゴボウ、とうふなどが思い出されるが、なお、このほかにお汁粉とアベカワも必ず作られる。こうした雑煮でお祝いしたあとひと休みし、朝になってから今度は親戚へ年始回りに出かけるというのが、だいたいの順序だ。二日の夜はトロロイモで食事をすることになっている。 (昭和41年01月【躍進】) 暮らしぶり 四 大池のあたりはなかなかハイカラで、おいしいものを食べていました。塩引きとサケとか、池で飼っているコイかフナ、それにドジョウも食べていました。 タニシやイナゴもいるのですが、私の田舎のほうでは、それらは食べませんでした。 (昭和54年01月【速記録】) 暮らしぶり 五 正月の遊びに使ったのは銀杏でした。銀杏は焼いても食べますが、正月は銀杏投げといって、かなり離れたところから投げて遊ぶのです。 まず、かかとで雪をぐりぐりっと踏んで、銀杏を受ける穴をこしらえ、ひとり何粒というように出し合う銀杏の数を決めるのです。次にはそれをまとめて、十人ぐらいでじゃんけんして、一番目の子が集めた実を次々に雪穴めがけて投げるわけです。そして、穴に入った分だけが自分のものになります。二番目の子は、一番目の子のはずれた実を集めて投げ、入った分を自分のものにするというしくみですが、子どもたちは、その遊びをなかなか熱心にやったものでした。 (昭和54年01月【速記録】) 私の家には、根っ子山という山があって、そこに大きなグミの木があり、それがとても自慢でした。グミの実を取りに行こうというと、子どもたちはみんな、喜んでついてくるのです。クワは、葉に縮みのある昔ながらの木でしたが、この実を食べると回虫が湧くなどといって、あまり食べてはいけないといわれていました。 (昭和54年01月【速記録】) 暮らしぶり 六 私より一つ年下で『田宮坊太郎』だとか、『宮本武蔵』だとかの単行本をよく読んでいた、子がいましたが、その人はあとで、東京に出て印刷屋になりました。しかし、私は、そうした本を読む余裕がないくらい、家の仕事をさせられました。 伯母のつれあいの弟は、細尾という所の出で、のちに長野県か群馬県かで、養蚕の先生になったのですが、お祭りのときなどに、伯母の家へ遊びに行くと、この人が、「なんでもいいから本を読みなさい」と、よくいってくれたものです。けれども、兵隊に行く前までの私には、いろいろ本を読む時間をつくることはなかなか大変でした。 (昭和54年01月【速記録】) 暮らしぶり 七 私の田舎では、正月の何日かに山の神さまをお祀りします。これは自然崇拝ですが、そのことを非常に幼稚な信仰のように考えている人もいました。現に、十五、六年前までは、宗教学者たちの中にも、山や木や石ころを拝むのは、原始的な宗教だというような人がいたものです。 ところが、よく考えてみると、草木国土・悉皆成仏で、みんな成仏の姿、自然の姿であり、その中にわれわれの生命があることがわかってきます。ですから、偉大なものに合掌し、自然の生あるものを拝むことは、愚かであるどころか、それこそ人間本有のすばらしい所作であったともいえるのであります。 (昭和50年04月【求道】) 私たち子どものころ、ふだんは説法を聞きにいったこともなかったし、先生から、「神さまにお参りに行きなさい」といわれたから行くというふうでした。兄をはじめ先輩も私とおなじ学校にかよい、校長先生もおなじでしたから、やはり、神さまを拝むようにいわれたはずなのですが、そういうことをしなかったのです。 「拝めば神さまに通じる」、といわれて拝んだのは私だけでした。「子どものくせにおかしなやつだ」、などといわれながらも、拝んだのです。 (昭和54年01月【速記録】)...
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...家事の手伝い 一 農家の子は、ずいぶん小さいときから生産活動の手伝いをさせられます。(中略)それを辛いとも思わなければ、不服にも感じませんでした。農家の子にとっては、まったくあたりまえのことだったからです。朝になると、お日さまが出て、夕方になると、お星さまが輝きだすのとおなじように、天然自然のことだったのです。(中略) 田植えの時期には学校も農繁期休暇になって、子どもたちも何かしら手伝いをするのです。苗代での苗取り、それを籠に入れて田んぼへ運ぶ苗背負い、この二つが、たいてい子どもの役目になっていました。 (昭和44年11月【生きがい】) 家事の手伝い 二 私の生家では、そばを作っていた。畑に種子を蒔き、肥料をやり、雑草を抜いて育て、汗を流して収穫した。収穫したそばを石臼でひいて粉にするのである。そのそば粉をこねて、手打ちそばをつくるのだ。手打ちそばは貴重な食糧だったから、私は子どものころからそれを見て育った。収穫の手伝いもしたし、自分で石臼もひいたこともあるし、手打ちそばをつくったこともある。 (昭和50年10月【初心】) 子どものころ、祭りの日やお盆には、豆腐づくりのために石臼で大豆をひきました。ソバも石臼でひくのです。ですから、お祭りは楽しいけれど、その前には山で一日仕事をして帰ってくると、毎晩夜なべをして、石臼をひくのを一生懸命に手伝ったわけです。それをやらないと、ソバもできないのです。 今は動力を使うからいいのですが、昔はおばあさんが中心になって、学校にかよっている子どもたちが、夜になると、そうした仕事の手伝いをしたものです。 (昭和54年01月【速記録】) 両親は朝から晩まで野良仕事。なにひとつかまってもらえない。しかし、私はその姿をみて、いかに親というものは大変であるか、しみじみ考えさせられ、“親孝行をせねばいかん”という心が、自然に植えつけられたものです。 要はそれぞれの立場で、“真剣に生きる”ということがたいせつです。 (昭和49年04月【佼成新聞】) 家事の手伝い 三 最近(昭和三十八年ころ)、子どもの教育ということについて、さかんに論じられております。自由にのびのびと育てなければいけないとか、親の考えを子どもの押しつけてはいけないというように、いろいろと、とるべき態度が論じられております。 しかしまた、その一方において、どうもわれわれは子どもの教育の仕方──それもとくに育児教育について反省すべき点があるのではないか、という声が上がっています。それは、どういう点であるかと言いますと、ごく最近のこと、ある幼稚園で、子どもたちに“お手伝いはなぜするのですか”という質問をしたというのです。 この質問に対して、大部分の子どもたちが“ごほうびをもらえるから”とか、“お金をもらえるから”と答えたというのです。 その報酬というのも調べてみると、子どもたちによって十円から百円の幅があったといいます。「お金を上げるからやりなさい」という方法によって、子どもたちも「きょうのお母さんはしけてるな。五十円しかくれないからお手伝いも半分しかやらないよ」というふうに、すべてが打算的に考えられる傾向になっているわけです。 よくドライだなどといいますが、子どもたちが、このように小さなときから、ものごとを損とか得とかということで動いていると、“無報酬で人のためになる、またはお役に立つ”という考えをもたない人間に育っていくことが、実に恐ろしいという反省の声もなされております。 人のために奉仕する喜びを知らない子どもたちが、やがて大きく育っていくかと思うと、その子の将来はもとより、これからの日本の前途のためにも、教育家をも含めたおとなたちは、深く考えなおすべきではないかという、まことにもっともな説が出てきているのです。 (昭和38年09月【聚】) 家事の手伝い 四 ある家庭では、ごく小さな子にも、たとえば、朝起きたら新聞受けから新聞を持ってくるとか、夕方は必ず空の牛乳ビンを門の箱に返しておくとかの用を、受け持たせています。少し大きくなった子は、雨戸の開け閉てとか、犬に食事をやるとかの仕事、もっと大きくなった子には部屋や庭の掃除などを受け持たせます。 子どものことですから、つい忘れたり、怠ったりすることがあるのですが、そのときは、おとうさんや、おかあさんからピリリとしたお小言を食います。あるときは、兄さんから怒鳴りつけられることもあります。 お小言を食うのはイヤなことです。口惜しいものです。まして、怒鳴りつけられたりすれば、恨めしくもなります。しかし、自分が悪いのだから仕方がありません。その子は、小さな胸で口惜しさや恨めしさをジッとしんぼうし、ボクがよくなかったのだ──と反省します。そういうことから、道義の感覚というものが除々に養われていくのです。 また、こうして「受け持ちの仕事は必ずやらなければならぬ」ということになりますと、それが一種の精神的習性となって、今度は、それをしなければ自分の気がすまなくなります。これが責任感というものです。初めは他から押しつけられたものでも、いつの間にか、自ら進んでそれに責任をもつようになります。これが正常の人間の心理であります。 家庭生活の中の仕事だけにかぎりません。たとえば、友だちに頼まれたことをキチンとしてやるとか、クラブ活動でみんなと一緒にやるような仕事をスッポカさせないとか、とにかく自分たちの仲間に対する責任を果たすことをも、親はきびしく教えなければなりません。こういうことから、社会に対する責任感がしだいに養われていくのです。 (昭和44年11月【生きがい】) 家事の手伝い 五 神戸海星女子学院大学の森信三教授が、幼児期の躾の三大原則を発表しておられますが、それは次の三つです。 一、朝の「おはようございます」というあいさつ。 二、「ハイ」という返事。 三、履物をそろえ、イスを入れる。そして、自分のことは自分でさせる。 大賛成です。私なんかも、こんな方針で育ちました。呼ばれたときの返事などは、もっときびしく、「『ハイ』と返事したら、同時に立ち上がっていなければならぬ」と訓練されたものです。 第三項の「自分のことは自分でさせる」ということも大事なことです。それは子どもにできる家事を手伝わせるという方法で躾ができていくからです。毎朝、新聞受けから新聞を取ってくるのはだれの受け持ち、玄関を掃くのはだれの役目というふうに、簡単な仕事を受け持たせるといいのです。責任感というものが養われますし、勤労を厭わぬ習性も育ちます。 何よりもたいせつなのは、それをやらせると、子どもに生活の常識というものが自然に具わってくることです。うちの小さい孫娘など、毎晩、布団を自分で敷くのですが、ピーンと平らに敷かないと、自分が寝てみて気持ちがよくないので、小さな手でけんめいに伸ばして敷くのです。「よくできた」とほめてやると、喜んでいます。一事が万事、このコツです。 福沢諭吉の『子育ての書』の中に、自分の子どもたちの日常についての定めがあります。たいへん参考になりますので、その一部を紹介してみましょう。(『東洋文庫』から) 定 一、子供は活発にして身体を大丈夫に致す可し。 一、暇あるときは必ず家の外に出でて運動遊戯し、風雨寒暑も非常の外は一切これを憚りて退縮すること勿るべし。 一、人の家に居れば、年齢に相応してその家事の一部分を引き受け、一身の職分に尽くす可し。 一、故に身体の健康大切なりとは申しながら、唯、日に遊び戯るるのみにては充分に非ず。遊戯の傍に朝夕家事を勤めて活動を致し、次第に有用の仕事に慣るること緊要なり。 一、今一太郎と捨次郎との年齢は既に家事の一部分を引き受くべきものに達せり。故にその事に当たる可きは自然の順序なり。決して父母の作為に非ず。ここにその仕事を示すこと左の如し。 とあって、庭や縁側の掃除、草取り、雑巾掛け等々の仕事が列記してあります。福沢家には下男下女がいつも八、九人いたのですが、子どもたちにもチャンと家事が割り当てられていたわけです。この中でおもしろいと思うのは、「運動遊戯を本位として傍ら家事を手伝え」とあり、「勉強せよ」とは一言も書いてないことです。また、「家事の一部を引き受けるのは、自然の順序であって父母の作為ではない」とあることです。 (昭和53年06月【躍進】)...
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...小学生の頃 一 私がかよった小学校は、生徒は百人ほどいましたが、先生は校長と代用教員のふたりだけでした。校長先生が四年生から六年生までを受け持ち、代用教員の先生は、一年生から三年生を受け持って一つの大きな教室で教えたのです。そんなわけで、国語を教えるときでも、巻一から巻十二までの教科書を、順を追っていかないで、三年生のときは四年の国語を教え、四年生になると今後は三年生の国語を教えるという方法がとられました。さらに五年生になると、六年生の国語の教科書を教え、卒業する学年になってから、五年生の国語に逆もどりするという状態で、矛盾した教育が行なわれていたのです。それでも私たちは学校で教わったことをもととして、なんとか勉強しようとしたものでした。 (昭和40年10月【指】) 小学生の頃 二 子どものころの私は、たいへんいたずらでした。小学校に上がりましたとき、私は背が高く、一年生の私のほうが二年生のいちばん背の高い子よりも少し高かったのです。小さな学校のことですから、一年生と二年生が一緒になって隊を組むことになっておりましたので、背の高い私は学校に入るとすぐ、いちばん前に出されました。子どものときから、人よりからだが大きかったわけです。相撲にしても、駆けっこをするにしても、あまり一生懸命にやらなくてもいつでも勝てるものですから、同級生と渡り合って相撲をとったり、駆けっこをしたりする必要もないようなありさまでした。いたずらといえば、卒業の直前のころだったと思いますが、上級生の女の子に、お針を教えていた代用教員の小野塚先生が、ちょっと腰を上げたすきに、針のたくさん刺さった針刺しを、先生のいすの上に置いたことがあります。先生が腰をおろしたら痛いことはわかっていて、そういう悪いことをしたのです。 なぜ、あのころそんなことをしたのだろう、と反省しながら考えてみますと、それは、どうも先生の関心を引こうとしての、いたずらであったように思います。やはり、私の家の孫がそうです。きょう(註・昭45年11月15日)三歳のお祝いをしたわけですが、孫にしても妹ができて、みんながその小さな妹のほうをかわいがるものですから、自分に家族の関心を引こうとして、さまざまのいたずらをしてみせる。なかなかおとなしくしていないのです。それを見ていると、私と同じような気持ちでいたずらをしているのだと思います。 そのときの私どもの受け持ちは、校長先生でした。きっと、いたずらしたことを叱られるに違いないと思って、たいへん心配しながら翌日登校したのですが、小野塚先生はニコニコしておられて、どうも校長先生にいいつけたように見えないのです。よくいたずらはしましたが、その関心を引こうとしたときの心境は、いまだにおぼえていて忘れることができません。 そのように、いたずら坊主で学校を卒業した私でしたが、その後五、六年たって、近くの十日町へ焚物を背負って売りに出かけたことがありました。東京ではソダ、私の田舎などではボイと呼んでいる焚物でしたが、この町に住んでおられた小野塚先生が買ってくださるといわれるのです。きっと、あのときのいたずらを叱られることだろう、と思いながらうかがったのですが、家に案内してくださった先生は、そういうことをいっこうにいわない。わずかな時間ではありましたが、特別のお茶菓子を出してくださって、たいへんにこやかに迎えてくださったことをおぼえております。 (昭和45年11月【速記録】) 小学生の頃 三 学校時代の私は、わりあいに成績がいいほうでした。その私に、親がなんていったかと申しますと、「学校に行って一生懸命に字ばっかりをおぼえると、ろくな人間になれない。だからお前は、学校で勉強するだけでたくさんだ。家に帰ったあとは仕事をしろ」というのです。そして、家では本を取り上げられてしまい、絶対に勉強をさせてもらえないのです。そうしますと、かえって子どものほうではもう少し勉強したいという意欲が出てくるものです。六年生のときなどは、家の手伝いが半分でした。 学校の勉強だけやっているようでは困るというので、そういう状況の中で小学校だけは卒業させてもらったのですが、今でも私が一生懸命に勉強をつづけておりますのは、勉強したくても上の学校に出してもらえなかったためといっていいでしょう。 (昭和40年09月【速記録】) 小学生の頃 四 私が大学を出ていたら、法華経の解釈にしましても、もっと早くみなさんにわかってもらえるような説明をすることができたろうと思います。ところが、学校を出ておりませんので、小林一郎先生の『法華経大講座』や、日蓮宗が六百五十年の遠忌にあたって出した堀龍淳先生の『法華経講話』、その他いろいろな参考書を読んだり字引を引いたりして勉強させていただいたのであります。法華経は、文字を見ただけではなかなかわかるものではありません。ですから、学校さえ出ていたら、もっとわかるだろうにと考えながら、苦労して勉強をつづけたのです。 今になってみると、大学を出た人であっても、うまく生きていけない人が世の中にはおられるし、人生苦に悩んでいるかたもあります。そしてまた、私は、自分が勉強をする機会が限られていたために苦心したので、子どもをみんな大学に入れているわけですが、その大学を出た子どもたちを見ていますと、私のように本気になって、真剣に勉強していないように思えます。 このようにみてきますと、学校へ十年、十五年もやっても、たどりつくところは、だいたい似たりよったりのところになるようです。 そう考えると、もしも私が上の学校を出してもらっていたら、意欲のない人間になって、今のように真剣に勉強しなかったかも知れません。父が、「おまえは、学校を出すとろくなものにならないから、このくらいでたくさんだ」といって、上の学校に行かせてくれなかったことが、私のためにはよかったのだということが、最近になって、ようやくわかってきたのであります。 (昭和40年02月【速記録】) 小学生の頃 五 当時の小学校の教課の量が少なかったために、学校でしっかり勉強しさえすれば、読み・書き・算数の基礎を身につけることができたのです。ですから、後日、海兵団に入って高等小学校出や中学出の人たちと一緒に勉強しても、いわゆる、“落ちこぼれ”にならずにすみました。それどころか、半年後には班長に選ばれ、卒業のときは分隊一九六名中一番の成績がとれたのです。けっして自慢するわけではありません。基礎を身につけることが、どんなにたいせつであるかの生きた証人として、偽らざる体験を語ったまでです。 (昭和52年04月【佼成】) 時代が変わったといえばそれまでですが、それでいて、ちゃんとした成績をとることができたのです。特に数学はそうでした。(中略)私にとって数学は、授業の中でも最も得意な学科でした。歴史や国語は、そのつど、次から次に記憶していかなければなりません。ところが、数学は習ったとおりに方程式を当てはめていきさえすれば、正しい答えが出てきます。 (昭和52年01月【佼成】) 小学生の頃 六 私は代数でも三角法でもやります。会のあれこれの建物を建てるときなど、基礎的な計画を立てるのに、いつも朝早く床の中で暗算でそれをやるのです。それを建築の専門家に話してみると、「そのとおりです」と感心されます。また、青写真ができてから、設計の誤りを発見したこともあります。それも、前日に見た青写真を朝、床の中で思い出し、暗算でやってみて、おかしいぞと思って設計者に尋ねてみると、「いや、これはどうも……」と頭を掻いているのです。 つい自慢話になってしまいましたが、小学校六年しかいかずに、どうしてそうなったかといいますと、海軍に入ったとき、砲手を命じられたために、どうしても勉強せざるを得なかったからです。では、二十歳を過ぎてからの勉強で、どうして代数や三角法をモノにできたかといいますと、小学校時代に加減乗除の計算の基礎がガッチリ出来上がっていたからです。(中略) 小学校時代は勉強するなどという環境ではなく、親も文部省のほうでも、あまり多くを詰め込もうとせず、読み・書き・そろばん(算数)の基礎をつければよい、といった指導方針だったようで、これが実にありがたかったのです。 (昭和51年05月【躍進】) 小学生の頃 七 昨年(註・昭和五十年)、文化勲章を受賞された広中平祐博士(数学)が、『文藝春秋』の新年号の座談会で、「ぼくは頭のいいほうじゃなかったですからね」と前置きして、こう語っておられます。 「……ただ、今考えてよかったと思うことが一つあります。戦争中、ぼくは中学生だったわけです。当時の教育というものは混乱をきわめていましてね。一年生の時には勤労動員で農家へ行って農業の手伝い、二年生では兵器工場で働いていました。もちろん、週に何回かは授業があったのですが、時間不足のため、詰め込み教育というのはなかった。本当に大切なところだけを、何度も繰り返すという授業でした。先生のほうも何人か変わりましたが、後の先生は前の先生がどこまで教えたがわからない。なにしろ戦時中ですから、先生同士の連絡もそれほど密ではありません。ですから、いつでも、大切と思うところだけを教えるしか仕方がなかったんでしょうね。反復、反復の連続でしたよ。基礎的な部分を三度も続けて教えられると、大体わかってくるものなんです」 どうですか。貴重な話でしょう。 小・中学校では、このように、だれにでもわかるていどの基礎しっかりと叩き込めば、それでいいのです。 その基礎の上に、それぞれの人の分に応じ、生きる進路に応じて、違ったものをみずから積み上げていく……これがほんとうの教育というものです。もちろん、いわゆる「人間教育」は別の問題として、ここでいうのは、学問の教育に関してなのですが……。 (昭和51年05月【躍進】) 小学生の頃 八 私も過去を振り返ってみますと、まだまだ自分ができていないという慚愧の念に堪えないのでありますが、ただ現在の境涯に不満をもたないという気持ち、恵まれているのだという気持ち、すなわち、日常のいっさいの事柄に真心から感謝を捧げるという心が貴いのでありまして、そこにまた、人間生活の幸福感が生まれるのであるというふうにみずから解釈し、これを私は信仰生活の理想とし、念願として今日まで(註・昭和30年)まいったのであります。“微塵でも善き事あれば迷うのに、まるで悪うて儂は仕合せ”という歌がありますが、人間はどんな境涯にあっても、まるで悪うて儂は仕合せ、という心のもち方がたからであると思うのであります。もっと上の学校へやってくれと父親にせがんで、頭をこづかれたことがあります。なぜ親が学校へやってくれなかったのか、その親のほんとうの心もわからずに頭をこづかれるようなことを申しましたが、学問というものも、ただ学校に行くだけで身につくものでないということが、後になってわかったのであります。それで、私は私なりに、現在でも一生懸命に勉強をいたしているのであります。 (昭和30年07月【佼成】)...
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...師の恩 一 私の家は小さな農家で、兄弟も多く、経済的に恵まれてませんでしたから、十歳ぐらいでいっぱしの手伝いをさせられ、からだで百姓を経験いたしました。そのようななかで学校へ行き、勉強できる時間が与えられるのですから、登校できるのがうれしく、その気持ちで先生の教えられることを聞くわけですから、先生を神さまのように敬ったものです。いわば、子弟教育の根本は家庭にある、というのが私の持論です。 (昭和48年10月【佼成新聞】) 師の恩 二 私は、若いころから人の長所だけを見、尊敬するようにつとめてきた。その人がどんな欠点をもっていても、いっこう気にならなかった。小学校四年ぐらいのときだったと思う。受け持ちの先生の素行がよくないということで、友だちはみんな批判していた。だが、私は、その先生から学問を教えてもらっているのだから、と尊敬していた。先生が休むと“さあ、みんなで勉強しよう”と率先してやったものだ。今日、私が人にお話できるのも、つねに先輩の長所だけを見つけては学んできたからだと思う。 (昭和38年05月【佼成新聞】) 師の恩 三 校長先生は大海伝吉先生といって、二十年以上もこの学校(大池小学校)に勤続しておられた。親切で、温厚な、ほんとうにいい校長先生だった。私は校長先生のいわれることは、無条件に守った。とくに忘れられない教えは、「人には親切にせよ」ということと、「神さまや仏さまを拝め」ということだった。「人に親切をする」というのは、友だちがケガをしたとか、本を忘れて困っているとか、そんな特別な場合にすることだと、思い込んでいた。それで、校長先生に教えられた当時は、友だちが何か困りはしないか……田んぼや川にでも落ちたら助けてやるんだが……と、心待ちに待っていたものだ。とんだ親切者もあったものだが、それぐらい校長先生の教えには忠実だった。 「神さまや仏さまを拝め」という教えは、その日から実行できた。家の宗旨は曹洞宗だったが、むろん神棚もちゃんと祀られてあった。祖父も父母も信心深いほうで、朝夕の礼拝を欠かしたことはなかった。 兄弟たちは、校長先生にそう言われるたびに、二、三日の間は、神棚の前でかしわ手を打ったり、仏壇の鐘を鳴らして拝んだりするのだが、長つづきせず、いつの間にかやめてしまう。私だけは毎朝、それを欠かしたことはなかった。学校に遅れそうになって、兄弟たちがあわてて駆け出していくのを見ながら、胸をわくわくさせつつも、とにかく、神さまや仏さまを拝み、それから後を追った。そうしないと、なんとなく気持ちが落ち着かなかった。 学校への道筋にある鎮守さまの諏訪神社の前を通るときも、これもやはり道端にある子安観音さまや、石の地蔵さまにも、必ずおじぎをして通った。だから、「あれはおかしな子だよ」と、人に言われていたものだ。 また、一方がけわしい崖、一方が深い谷になっている危ない場所があった。春先になるとよく雪崩が起こって遭難者が出たこともある難所なので、自然石に〈大日如来〉と四文字が刻んで祀ってあった。これも、行き帰りに必ず拝んで通ったものだ。 何かは知らないが、とにかく人間の生命をつかさどっている絶対なもの、人間を正しいほうへ導いてくださる大きな力……そういったものへ帰依する気持ちが、稚い、かたちの上だけの礼拝からも、自然自然に養われていった経過を、今になってまざまざと思い出すことができる。 とにかく、〈人に親切にせよ〉〈神さま仏さまを拝め〉という、この二つのことは、校長先生から受けた教えのうちで、最大・最高のものだったと、今でも確信している。そして、この二つの教えが私の一生の生き方を方向づけたということができる。平凡は田舎の校長先生だったのだろうが、私にとっては終生の大恩師である。 (昭和51年08月【自伝】) 師の恩 四 最近(註・昭和36年)は政府でも、農地法など、いろいろな対策をめぐらして、農家のことを考えるようになりましたが、昔を振り返ってみますと、当時は非常な努力をしてもいっこうに浮かばれなかったのです。何か生きがいのある生活の方法はないものかということで、上級の学校に進もうとしても、私どものような田舎の農家では、ほとんど上げてもらえなかったものでした。ただ先祖伝来の土地で、同じように百姓をつづけ、生活していくことだけに汲々としている状態でした。 そうしたなかで、私は、十二、三歳のころから、なんとかして自主独立したいという気持ちを強くもつようになりました。しかし、自分の力を考えてみますと、後ろだてもないし、だれも応援してくれる者もなく、金を出してくれる人もいない。あくまで自分ひとりの力があるだけなのです。そういう状態から、なんとかなろうとするには、物ごとを自分の力で考えていかなければならないわけです。 その時分の私どもの小学校には、格言を書いた柱掛けが、一本一本の柱に掛けてありました。書がじょうずであった校長先生が書かれたものでしたが、そのなかに、「誠は天の道なり」という言葉がありました。ところが、たまたま、私の村と隣村との間で秋の農作物品評会が小学校で開かれ、両方の村から、大根や人参、ゴボウ、白菜、それにカボチャなどが出品されたことがあります。 その審査にきていた人が柱掛けを見て、「『誠は天の道なり』と、ここに書いてあるが、これは間違ってはいないか」と、校長先生に難題をなげかけました。「誠は人の道なり」がほんとうであって、“天の道なり”というのは、少し浮き上がっている、というのがその人のいい分でしたが、校長先生も“天の道”でいいんだ、といってゆずらない。ふたりがしきりに論争しているのを、ちょうどそのそばにいた私は、聞かせてもらったのです。 そればかりではなく、その人は一つ一つの柱掛けを、順序を追って読んでいきました。「誠は天の道なり」の隣にあった「人事を尽くして天命を待つ」には、何もいいませんでした。次には、「為せば成る為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」と書いてありました。私は最初の問答にヒントを得て、そのときから、柱掛けの言葉を見ては、どこか間違っているところはないだろうか、間違っているとしたら、どういうことがほんとうなのだろうか、と考えるようになりました。疑問をもったことをきっかけに、言葉を真剣に見つめようとする気持ちが起こったのです。 その後、東京に出て奉公するようになってからも、何か事にぶつかったときには、いつも「人事を尽くして天命を待つ」で、一生懸命になって最善を尽くし、人間のなすべきすべてのことをし尽くしたあと、天命を待つという気持ちを起こさせてもらいました。また、自分でなんとかしようとしても、なかなか思うようにはなれませんでしたが、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」なのだから、どうしても為し通そうという気持ちでやったものです。 そうしたことが、信仰生活に入ってからもつづき、「誠は天の道なり」か、それとも「誠は人の道なり」かという疑問が、相当の年になってからも思い出されたものでした。子どものころに見た、顔色を変えて論争をかわしている校長先生の姿が、いつになっても印象に残っていたわけです。一つの物ごとに対していだいた疑念は、物自体を真剣に見つめてかかろうという態度につながり、やがて、一つの難題にぶつかると、格言をよく読んでは考える、ということをつづけていったのです。私は、貧しい家に生まれて、いろいろな修行にぶつかるなかで、人を頼らずになんとか生きていかなければならない。それには、やっぱり誠で進まなくてはならないし、自分の考えたことを成就させるためには、どうしても自分の力だけでは及ばないということに気づいて、そこで神さまや仏さまを考えるようになったのでした。 そこまでいって気づいたのですが、小学校時代の校長先生と品評会の審査にきた人との間で交わされた“誠は天の道”か、それとも“人の道”かという論争は、天という問題を神にふりかえて考えるか、それとも、神に人間の正しく歩む道を依存しきってしまうことは誤りで、まず自分から誠をもって道を行かなければならない、と考えるかの視点の置きどころの問題であったわけであります。 私どもの小さな時分には、仏門について、わかりやすく説明してくださる人がなかったのですが、私は信仰につながる“天の道”とか、“天命を待つ”という言葉、あるいは、自分の責任で為していかなければならないことを教える“為せば成る”という言葉、その一つ一つが、すばらしい影響をもっているものだと感じました。 (昭和36年04月【速記録】) 師の恩 五 『文藝春秋』の九月号(註・昭和48年)に、前尾繁三郎さんが、恩師である旧制一高の哲学とドイツ語の先生・岩元禎というかたのことを書いておられましたが、この先生は授業中、いつも大声で「バカッ」「バカッ」と叱り飛ばすばかりか、試験の採点もじつにからく、四十人の組で二十人近くも落第させられた年もあったということです。それなのに、亡き先生を慕う門下生一同が、この七月に先生の碑を総持寺境内に建立されたとのことでした。その文章の中で、前尾氏はこう書いておられます。 「それから五十年経った現在、私などは、すっかりドイツ語は忘れてしまったし、哲学概論も冒頭の文章以外何一つ覚えていない。しかし学問に対する尊厳と、それに挑む気魄というようなものが知らず知らずのうちに培われ、私のその後の人間形成に、どのくらい役だったかは量り知れない」 これなのです。当時の世相が、岩元先生のような教育者を存在せしめていたのです。四十人のうち二十人も落第させるような先生を、父兄たちも問題にせず、学生たちも頭を掻いてすませた世の中、学問を人間形成のためのものとして尊重していた世相、それが教育者らしい教育者をつくっていたのです。 (昭和48年11月【躍進】) 学校で先生の学問や仕事に対する情熱を目のあたりに見聞きしていますと、無意識のうちに、それが魂の底にしみついてしまいます。いわゆる、下種結縁です。その種が、いつの日か、なんらかのキッカケで芽を吹くのです。 また、反対に、無意識の底に下種結縁されたまま眠っているものを表面に引き出すのも、教育の大きな働きなのです。教育を英語で「エデュケーション」ということはご存じでしょうが、これはもともと、「引き出すこと」という意味だそうです。その人が生来もっているよきもの、仏教的に言えば、生き変わり死に変わりした長い前世から今世にかけて下種結縁されたよきものを表面へ引き出す……これが教育の大きな働きです。 (昭和48年11月【躍進】) 子どもは、いずれの点においても未成熟で、おとなに劣っています。高等動物になればなるほど胎内にいる期間が長く、生まれてから一人前になるまでの期間が長いのであって、野生の動物などは、生まれるとすぐ立ち上がり、一年もたてばりっぱにおとなになるのに対して、人間の子どもは、生まれて一年間は立つこともできず、一人前になるのにも十数年から二十年もかかります。 その期間、乳幼児には母親が、胎内にいるのと同じように愛情深く保護・養育し、幼児期になると両親がよく見守って、生き抜くための動物的な知恵を身につけさせると同時に、人間らしく生きるための躾をしていきます。それから小・中・高校に入れば、先生がたが子どもの知・情・意をバランスよく発達させると同時に、それぞれのもちまえをグングン伸ばすように導かれます。最後に大学へ進めば、専門の知識と経験を豊かにもった教授たちが、それぞれの分野において、世の中の進展に役立つ人間になるようにと指導されます。これが教育というものです。 つまり、親と子ども、教師と学生・生徒は、人間としての本質は平等であっても、現実の姿においては人生体験といい、学識といい、考えの深さといい、すべての点に大きな隔たりがあるのです。ですから、子は親を、学生・生徒は先生を尊敬し、その教えに随順するのは当然の成り行きではないでしょうか。自然の摂理といってもけっして大げさではないでしょう。 (昭和49年11月【躍進】) 師の恩 六 〈鉄は熱うちに鍛えよ〉という言葉があります。(中略)躾は幼・少年の時代にジックリやっていただきたいものです。それも、昔のように頭ごなしにやるのではなく、あくまでも、「それでは人のめいわくになるのではないか」「それでは人にイヤな感じをあたえるのではないか」「それでは人を困らせることになるのではないか」と、つねにひとのためということを強調することを忘れてはなりません。 人のため一点ばりでいいのです。自分のことは、教えなくたって必ず考えるのですから、教えるのは人のためだけで充分です。それで、ちょうどいいつりあいがとれてくるのです。今の教育は、あまりに自分のため、自分たちのためを強調しすぎます。もともと、人間は自分のことを第一に考えるものであるのに、そのうえ自分のため、自分たちのためという思想を植えつけられるのですから、ますます利己一点ばりの人間ができて、どうにもならなくなるのです。どうか、幼・少年期の道徳教育は、このひとのための一本やりでやっていただきたいものです。鉄が熱くて柔らかいうちに、その思想をしっかりと叩き込んでいただきたいと、せつに願うものであります。 (昭和41年07月【復帰】)...
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...竹馬の友 一 私は小さいときから背が高く、(中略)相撲でも、徒競走でも一番だったし、それやこれやで、いつのまにかクラスの大将格になった。 勉強のほうは、まあ中以上といったところだったが、だんだんできるようになって、四年生のころからはずっと二番だった。一番は、仲が良かった高橋宗太郎君で、家は大池部落にあったが、代々秀才の家柄というか、三人の兄さんはみんな一番で級長だった。家庭の雰囲気もそういった家で、学問とか勉強ということを重んずるふうがあった。それにひきかえ、私の家は純粋の農家で、うちへ帰ればすぐ子守か、田畑の手伝いをさせられる。私自身もそれを当然のこととして、うちで勉強しようなどとは考えたことさえなかった。 だから、宗太郎君が私よりできるのは、私にとっては、まるで自然現象のようなものだった。まったく気の合う親友でもあったし、かれを抜いて一番になってやろうなんて競争心など、これっぽっちもなかった。 ところが、六年生の二学期に一つの異変が起こった。四年生以来ずっと宗太郎君が級長、私が副級長で通してきたのに、クラスの連中、何を思ったのか、私を級長に選挙してしまったのだ。おそらく、宗太郎君はからだも小さいし、おとなしい性格なので、馬力があってガキ大将的な私にやらせてみるのもおもしろい、とでも考えたのだろう。 私も少々面くらったが、宗太郎君のほうはそれどころではない。一家を挙げての大問題となってしまった。代々一度として級長の地位を人にゆずったことのない家だから、無理もないことかも知れないが、とにかく、目に見えない暴風が一家の中に渦巻き、その風当たりがいっせいに宗太郎君に注がれたわけだから、本人としてはたまったものではない。すっかりしょげこんで、今の言葉で言えば、ノイローゼ気味になってしまった。 私としては、第一の仲良しのことだし、気の毒やらかわいそうやらでたまらない。とはいっても、選挙を決定したことだから、どうしようもない。そこで、二学期だけは仕方なく級長をつとめたが、三学期になるとクラスのひとりひとりに「こんどおれを選挙したら、ただではおかねえぞ」とおどかしてまわり、無事旧に復して、宗太郎君の級長、私の副級長で、明るく朗らかに〈螢の光〉を歌って別れたのであった。 (昭和51年08月【自伝】) 高橋宗太郎君は、のちに十日町田川町の小西材木店へ養子に行ったが、旧姓を名乗って高橋材木店を経営し、地方での成功者とて知られていた。 終戦後、義務教育が六、三、三制になって、十日町中学校の分教場が大池小学校のそばに建築されたとき、この高橋君がいっさいを請け負って材木を提供し、大いに義侠的に努めた。当時、私も金一封を寄付したが、なおそうとうの不足が出、それを高橋君が負担したということだ。 なお、同君は立正佼成会の新潟教会越後川口支部所属の信者として精進していたが、惜しいことに先年、この世を去った。 (昭和51年08月【自伝】) 竹馬の友 二 私はガキ大将的な存在ではあったが、あまりケンカはしなかった。クラスの中で一番強かったから、ケンカする必要がなかった。ただ仲間が上のクラスの者にいじめられたり、ケンカを吹っかけられたりすると、よしっというわけで、そいつをかばって大いにやった。だから、ケンカといえば、上級生相手で、そのため教室に立たされたこともあった。しかし、ケンカのしっぱなしにはせず、すぐ仲直りしたので、いつまでもにらみ合うような相手というものはなかった。 (昭和51年08月【自伝】) 竹馬の友 三 上の者とは、ときどきケンカをしたけれども、同級や下の者のめんどうはよく見てやったと思う。小さいときから、しょっちゅう弟たちのお守をさせられていたので、自然そういうことがあたりまえのようになってしまったのではなかろうか。 学校が退けてからの子守は普通のことで、農繁期になると、出席して子守をするか、もしくは田畑の手伝いをしなければならない。私は格別勉強が好きというほうではなかったけれども、欠席だけはしたくなかったので、必ず子守のほうを選んだ。そして、毎日弟をおぶって学校に行った。授業中もおぶったままだった。 おんぶすることはなれたものだし、ハナをたらしたといってはふいてやったり、おしっこや、うんちをさせてやったりすることも、子ども好きだったから別になんでもなかった。だが、授業中に泣き出されるのばかりは閉口だった。教室の隅に行って、よしよしとゆすってやってもいっこうに泣きやまないときは、こっちが泣きたくなったものだ。 うんこのことで思い出したが、汚ないことや、人のいやがることが、私にはそれほどいやではなかった。一年生のとき、同級の子どもが粗相をしたことがあった。どうも変な臭いがするぞ──と隣近所のやつがざわざわし始めたと思ったら、ひとりの子が変な腰つきをしてベソをかいている。あいにく先生は何かの用で教室にいない。みんなはクスクス笑ったり、、ひやかしたり、騒いでいるばかりだ。本人は、今や泣き出さんばかりだ。そこで私は、その子の尻をまくって、きれに始末してやった。 こんなこともあった。ある年、村にチフスがはやって、何軒か患者が出た。衛生知識の乏しい時代のことだから、その患者が避病院に連れて行かれたあとでも、村の人は怖がって、患者の出た家にはいっさい寄りつかない。全快してしまってからも、その家の前を通るときは駆け足で走り抜けたものである。 池田惣吉君という子の家にも患者が出た。幸いうまく助かって、もうすっかり治っていた。ところが、ある日、惣吉君の家が〈雪踏み当番〉に当たることになった。雪踏みというのは、村から大池小学校までのおよそ六百メートルほどの道づくりのことで、朝早くカンジキをはいて、前夜道の上に降った新雪を踏み固めて歩くので、何軒かずつ交代でそれをやることにいなっていた。 その当番を惣吉運の家に知らせなければならないのに、あそこへ行けば伝染るといって、だれひとり行こうとはしない。そこで私は、もう治ったのだから怖がることはない、よし、おれが行ってやる──といって、知らせに行った。それからしばらくは、「鹿は無鉄砲なやつだ」と、みんなにいわれたものだ。思えば、滑稽な話だ。 (昭和51年08月【自伝】) 竹馬の友 四 私の子どものころは、(中略)ラジオもなければ、テレビもない。玩具ひとつない。遊ぶ道具はみんな手づくりでした。山から竹を切ってきて、竹馬をつくる。スキーをつくる。竹といっても、若い竹はいけないし、あまり年取ったのもいけない。ちょうど壮年のしっかりした竹をえらぶのですが、子どもたちはだれから教わるともなく、その切りごろを知っているのです。(中略)そろそろ雪がきそうだとなると、子どもたちは、それとばかりに勇み立ち、準備にかかるわけで、スキーも楽しいけれども、この準備がまた、なんともいえず楽しいものでした。 今の子どもたちには、こうした創造の楽しみがありません。玩具といえば、ほとんど完成品で、スイッチ一つ押せば動き出すといったものが多く、どんなに精巧に出来ていても、すぐ飽きてしまいます。組み立てを楽しむプラモデルの類もありますが、これとても説明書のとおりやっていけば、キチンと出来上がるので、工夫というものが要りません。とにかく、すべてが他力本願で、受動的で、人間を無精に育てるものばかりです。 そのうえ勉強、勉強とやたらと責め立てられ、われを忘れて遊ぶ暇などたいへん少なくなりました。おおぜいの友だちといろんな遊びを考え、一緒に楽しむこともなくなりつつあります。これでは人間らしい人間が出来上がるはずがなく、学業そのものも健全に伸びていきません。やはり、昔の教育の合言葉のように「よく学び、よく遊べ」でなければならないと思うのです。 (昭和52年04月【佼成】) 竹馬の友 五 雪に閉じこめられた冬の生活だって、けっして捨てたものではありません。四つ、五つのころから、毎日、雪の中で、こけつまろびつして遊びました。今にして思えば、よくもあの冷たい白一色の世界の中で、時のたつのも忘れておられたものと、ちょっと不思議のようでさえあります。 冬の思い出で忘れられないのは、毎年一月十四日にやるホンヤラ洞です。雪をよく踏み固めながら山のように積み上げ、その下を掘って四メートルぐらいのホラ穴をつくります。その上に何人乗っても、潰れるなどということはありません。外から見ると、小さな城のようです。 そのホラ穴の中に、ムシロやゴザを敷いて座敷をつくり、子どもたちが集まっていろんなことをして遊ぶのです。めいめいの家から豆がらを持ってきて焚火をしますと、ウソのように暖かいものです。これも持ち寄った餅や甘酒を、その火で焼いたり、温めたりして食べ、夜の十二時ごろまで遊んだものです。 (昭和44年11月【生きがい】) 竹馬の友 六 さきごろ故郷に帰って、小学校時代の同窓生と会合しましたが、十二名のうち健在なのは八名で、その顔ぶれを見ますと、みんな明るい性格で、働きもので、頼りになるシンをもった人ばかりなのです。このことは、大きな示唆を含んでいると思います。 ついでですが、女八名のうち亡くなったのは一名であるのに対して、男四名のうち三名がすでに先へいってしまっています。 やはり、全国の統計が示すとおり、女性は長生きなのだなあと、しみじみ感じさせられました。それよりも感銘が深かったのは、その七名の女の人たちが、ひとり残らず幸福な生活を送っていることです。そろって丙午ばかりというのに……。ここにも、あのバカバカしい迷信をうち破る生きた証拠があると、たいへんに愉快でした。 (昭和41年11月【佼成】)...
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...家業と人間形成 一 小学校時代、私が学校から帰ると「家にきたら仕事しろ。勉強は学校でしてくるだけで上等だ」といわれるので、九歳になるころから、親から命じられた家の仕事の一端をしなければならなかったわけです。 (昭和52年08月【求道】) 家には馬や牛を飼っていたので、朝早く草刈りもしなくてはならない。養蚕もやっていたから、学校から帰るのを待ちかねて、「それっ、桑をいっぱい積んでこい」といいつけられる。それが、別に不服でもなければ、辛くも思わなかった。ごくあたりまえのことだったし、そういう軽労働がけっこう楽しくもあった。 (昭和51年08月【自伝】) 家業と人間形成 二 小学校二年ごろから、馬の鼻とりをさせられました。 私はからだが大きかったので、けっこうそういう仕事ができたのですが、毎年田の“代掻き”のころには、足の爪がすりへってなくなったほどです。うちの田がすむと、よその田まで手伝いにやらされました。砂地の田に入るときなど、足がヒリヒリ痛みました。けれども、そんなことで、なんとなく精神力が鍛えられて、“たいへんだ”とか、“苦しい”といって、仕事にのまれることはなかったのです。 ですから、やはり、だいじなときに落ち着いていられる自信は、平凡なことですが、毎日一定の時間に起きること、そして必ず、きちっと決まったことをやることからできてきます。そういう節度をもった生活を、毎日、子どものときから積み上げていく修行がたいせつだと思うのです。 (昭和43年11月【佼成】) 家業と人間形成 三 私は自分の経験からいきますと、数えの十六、満年齢で十五歳のとき、親のそばから離れて、叔父の家へ仕事を習いにいったのです。叔父さんですから、とても私を歓迎して、大事にしてくれるのですが、やはり、親から離れて他人のめしを食うというのはつらいものです。 叔父のところは、十日町の撚り糸屋でしたが、毎朝五時というと動力をかけるのです。朝五時から夜十時まで動力が回っているから、休むわけにいきません。ノホホンと遊んでいて、時間を制限された経験のない人はわからないでしょうが、それはそうとうきついものでした。へたばりはしなかったけれども、つま先で立って機械に乗りかかるようにして糸をむすぶものですから、足の甲がむくんでしまったものです。 (昭和42年02月【佼成】) 家業と人間形成 四 今の親は家庭で子どもに用事をさせなさすぎます。勉強さえしていてくれればいい、といった態度です。これが、どれくらい子どもをスポイルするかわかりません。だれの言葉だったか、ちょっと忘れませしたが、「子どもを働かせない家庭は家庭ではない」と言い切った人があります。私も大賛成です。家庭も一つの小さな社会です。共同体です。したがって、その構成員はなんらかの働きをして共同体に貢献する義務があります。これは重大な社会のルールです。 このルールも、口先だけで教えたのでは身につきません。小さいときからからだでそれを守り、果たしていってこそ、大きくなってからも自然にできるようになるのです。ですから、庭掃除でもよい、ガラス拭きでもよい、皿洗いでもよい、これはこの子の役目とハッキリ決めて、必ずそれを実行させることです。小さなことのようですが、けっして小事ではありません。そうした習慣が、責任ある社会人をつくり、立派な社会をつくる基本となるのです。 子どもの働きの結果は、おとなのそれにくらべて完全ではありません。しかし、その不完全さを寛大に受容するのがおとなの慈悲というものです。 私たちが育ったころは、(中略)畑を耕すにも、時間はかかるし、鍬を入れたあとは不揃いだし、かえって作業の邪魔になるぐらいだったかも知れません。しかし、おとなたちは、辛抱強く教え教えしながら、そのへたな働きを受容してくれたのです。そうでなければ、絶対にいい農夫は育たないからです。 とにかく、「やらせること」「やってみせること」、これが人間育成の大道なのです。 (昭和54年01月【躍進】)...
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...百姓は楽し 一 小学校を卒業すると、家ではもはや半人まえ以上の働き手として期待している。卒業式がすむと、まず雪の消えていない山林にはいって、ボイの伐り出しだ。私どもの田舎ではこの作業を〈春木山〉と呼んでいるが、この時期に次の一冬をしのぐための燃料を用意しておくのだ。 それから、部落共同の〈道割り〉、田んぼの苗代づくり、代掻き、田植え、それがすんでしばらくすると一番草・二番草と、中耕・除草の仕事が追っかけてくる。その間に、畑のほうも、耕う、肥料をやる、種をまく、それに追肥だ、さく切りだと、ちっとも遊ばせてはくれない。 小学校時代の手伝いと違って、半人まえながらもほんものの百姓だ。辛さが骨身にこたえるときもある。山だらけの村だから、耕地といっても平地は少なく、崖をくずしたり、山を一部分ずつ切り拓いてつくったものが多い。田も畑も段々になっている。行くにも帰るにも坂を上り、谷をわたるといった具合で、平地の農家より何倍も骨が折れる。 下肥(人糞尿)を運ぶのも、平地なら天秤棒でかつぐのだが、山坂ではそれができない。背中に一桶ずつ背負って行くのだ。ポチャンポチャンという音を首筋のところに聞きながら。 さすがに働き好きの私でも、ときどきは、「こりゃあ、やりきれん」と思ったものだった。しかし、根が楽天的というか、のんきなたちだったので、どんなに辛い仕事でも、やってしまえばそれまでで、別に苦労にはしなかった。それから逃れようなどとは、思ったこともなかった。ただ、広い世間へ出てみたい──という望みだけは、いつも胸の中にくすぶっていた。 (昭和51年06月【自伝】) 百姓は楽し 二 百姓の仕事は忙しいものだ。私も若いころ、田植えは、雨の降る中で田にはいり、しまいには腰の痛みが感じられぬほどになった。 夏は夏で夏草とりのときは、背中にやけるような陽をうけて働いた。だが仕事はつらいなどと思ったことはなかった。「一日がもっと長ければ、こっちの仕事もかたづくんだがなあ」と時間のないのが気になってしかたなかった。 (昭和37年06月【佼成新聞】) 最近の農業は、近代化が進んだとはいいながら、やはり農繁期はネコの手もかりたいほどの忙しさです。また、農閑期とて、まるで仕事がないわけではありません。このように時間と忙しさに追われる農家の人にとって、たいせつなのは“生活の知恵”です。(中略)その生活の知恵は、まず、働く時間の正しい使い方から生まれます。忙しければ忙しいほど、また生産手段が進めば進むほど、働く時間というものの重要さが、増大したということです。それだけに、時間の浪費はつつしまなければなりません。あわせて、自分にとって働く時間が重要であるように、他人の時間を尊重する態度もたいせつです。 次に文化の知恵は、余暇の使い方によって生まれます。忙しい仕事の合間や農閑期は、精神や肉体の緊張をときほぐし、そして、新しい仕事の活力を呼びおこすことは当然でありましょう。しかし、“閑暇は文化の母なり”という言葉もあります。わずかな時間であっても、人生を意義あらしめるための時間や、農業研究の時間にあてたいと思います。 これまでの農家の人には、“天然百姓”の異名がありました。つまり、自然の力だけに頼って、工夫をしないというように、思索する習慣に欠けるきらいがあったのです。これからは“考える百姓”にならなければなりません。新聞を読むこともよいでしょう。教義の書に心をかたむけることもよいでしょう。農作業のプランをねることもよいと思います。 とにかく物を考える習慣は、生活の知恵を生み、精神生活を豊かにし、増産を約束するものです。 (昭和39年10月【佼成新聞】) 百姓は楽し 三 フランスの生んだ大彫刻かオーギュスト・ロダン(一九一七年没)は「都会は石の墓場である。人間の住むところではない」といったそうですが、今、ロダンが生きていたら、とても「石の墓場」などという生ぬるい言葉ではすまさなかったでしょう。 澄んだ空気と、緑の植物と、さんさんたる太陽のある農山村こそ、人間の住むところであり、人間らしい暮らしのできるところです。そこに生活できるという恵まれた条件に感謝し、その生活に楽しさを再発見することが、農民の生き方のたいせつなポイントの一つであると信じます。 (昭和45年08月【躍進】) 北海道の原野で、動物たちと一緒に暮らしている畑正憲氏のことは、すでにご存じのことと思います。その同氏のところへ住みつくようになった若い人たちの日記を見ると、「雨が降った。朝やけがきれいだった。何の花が咲いた」といったことが書いてある。つまり、若者たちが自然の移り変わり、自然の心のようなものに触れて、ものすごく感動しているのを読んで、畑氏自身が驚いておられます。 先日も、都会の娘さんが農村に嫁いで行ったところ、ニワトリがタマゴを産んだ、といっては大声をあげて喜び、野菜が育っていくのを見ては感激する──その嫁の姿を見て、そんなことはあたりまえと思っていた家の人たちが、逆に新鮮な気持ちで物をながめるようになったし、家の中が明るくなったという放送をうかがいました。 (昭和50年03月【佼成新聞】) 百姓は楽し 四 百姓ほどすばらしいものはありません。稲の穂花が出て、日一日と大きくなり、もうすぐ穂が出るという時分には、私など、朝目がさめるとすぐ田の畦に行って、それをながめるのが、何ものにもかえがたい楽しみでした。 (昭和42年10月【佼成】) 農家の人の信仰の基盤は、なんといっても大自然に対する感謝の心であり、先祖が遺してくださった土地に対する、“ありがたい”という報恩の念でありましょう。 俗に、“土を愛する”という言葉があります。作物は、人間と同じように自然の一員です。その生命にかぎりない愛情をそそぎ、自然の恵みに感謝する心は、農作業を営む人の喜びであると同時に、正しい生き方であると思います。 その意味で、“土地にほれ、妻にほれ、仕事にほれる”。いわゆる、“三ぼれ”は農業にたずさわる者にとって、もっともふさわしい言葉であり、お百姓さんの原則ともいえましょう。 (昭和39年10月【佼成新聞】) 百姓は楽し 五 農村というと、すぐ“嫁としゅうとめ”の関係が、とやかくいわれます。双方が仲良くいくには、お互いの精神面の修養がたいせつとなってまいります。しゅうとめは、かつて嫁であり、嫁はやがてしゅうとめになることをお互いに自覚すれば、自然と思いやりの心がわいてまいりましょう。しかし、なによりもたいせつなのは、嫁は愛する夫の母親として、しゅうとめを尊敬する気持ち、しゅうとめは、愛するむすこの妻として、嫁をいとおしく思う気持ち、つまり愛情をもとに自他一体観に目ざめることだと思います。とかく農村の人は、隣近所のつきあいを重んじ、評判に敏感であるようです。 家庭環境の正しさは、他人に強い影響をおよぼさずにはおきません。(中略)すなわち、“生活即信仰”でなければならぬわけであります。 (昭和39年10月【佼成新聞】) 親のメンツや、卒業証書がほしくて、農村でも、田畑を売ってまで子どもを大学にやるという風潮があります。それで私は、この三、四年まえから、逆に農村青年にネジをまいているのです。 「農村に青年がいなくなって困る」というものですから、「それはけっこうな話じゃあないか。追い出してはいかんけれども、自発的に出ていくのだから、残った者は、三、四軒分の土地を集めて、大規模な農業をやれ。外国の農業に伍していくには、日本の昔からの百姓ではだめだ。広い土地を確保して、その気になってやってみろ」といったのです。(中略)そうしたら、そのとき集まった二十人ぐらいの青年が、みんなその気になって頑張ったのです。去年(註・昭和43年)三年目に回ったら、当時七ケタ農業を目標にしていたのが、今、八ケタ農業でやっているのです。(中略) サラリーマンではとても月百万なんて、とれません。みんな三十代の青年ですが、ほんとうに農業は楽しくてすばらしいもので、“サラリーマンよりもはるかにいい”と再認識してやっています。(中略) それから、そのとき集まった連中が「農村には嫁がこない」というのです。それで「君たちには、嫁さんはいないのか」と聞くと、二十五、六の青年が、みな結婚しているというのです。だから、「みんなちゃんと奥さんがそばにいるのに、マスコミが嫁が足りないと宣伝すると、嫁がいないと思い込むのは君たち間違っている。事実は事実と、認識したらどうだ」といったのです。 (昭和44年03月【佼成】) 百姓は楽し 六 戦前の農村は、貧乏でしたから、お金と励みの問題は大きいのですが、これからの農家は一軒で五町歩ぐらいつくって、多角経営にしていけば、豊かな生活ができると思うのです。たとえば、日本人は、肉でも松坂牛のようなすばらしいものをつくるのですから、もっと頭を使えば収入はふえます。(中略) 人間は霞を食っているわけではありませんから、やはり、報酬があまりアンバランスではダメだと思います。私の郷里では、今、私の親類が五軒残っているだけですから、いずれ十日町駅の近くに全員が引っ越すということもあるかも知れませんが、とにかく、共同経営などで能率を上げ、多角的に農業を拡大することを私はすすめています。(中略) 私の知人に婿養子に入った家の耕作面積を四倍にして、農作業は請負に出して、自分は毎日道場に出て、信仰活動をつづけている人がいます。(中略)農作業を請け負える人にやらせて、自分は奉仕する境遇になれるということは、ある意味からいうと、農村に余力があるということですね。ですから、そういうものをうまく組み立てて、たとえば田植えや稲刈りの農繁期に、非農家の人が少し手伝うとか、鶏糞集めや堆肥づくりなども、“予備隊”があれば、そういうものを土地に還元できるし、私はすばらしい方向が出てくると思うのですが……。 (昭和51年04月【佼成】) 百姓は楽し 七 知り合いの人がNHKテレビの『農家の時間』を見ていたところ、都城市の間さんという畜産農家の人が自分の体験をいろいろ話した結論として、「おかげで、“経過”を楽しむ農業ができるようになりました。“結果”は自然に出てくるものと思います」と肩っておられたというのです。「経過を楽しむ」──いい言葉ではありませんか。 近ごろの農民には、結果ばかりを望む人が多くなったように見受けられます。なるべく楽をして、なるべく高収入をあげたい、という考え方です。そういう精神でいますと、つい農薬を使い過ぎたり、化学肥料ばかりに頼ったりして、肝心の土を瘠せさせてしまいます。また、結果だけを望んで働いていますと、毎日毎日の労働の辛さばかりが身にこたえ、仕事への興味は薄れていきます。すると、当然の成り行きとして、何かもっと楽で儲かる仕事はないものか、と心がだんだん農業から離れていきます。心が離れていけば、いい作物はできない。ますますおもしろくなくなる──ということになってしまうのです。 そこで、「経過を楽しむ」という言葉が光ってくるのです。一日一日の仕事を楽しみ、一日一日に作物や家畜が育っていくのを楽しむ──そうした農業をしておれば、必ずいい結果を得ることができます。よしんば、天候その他の不測の異変のために、ある年は不本意な結果に終わっても、またすぐ埋め合わせることができます。それよりも大事なことは、一生を通じて見た場合、その人はけっきょく、楽しくて充実した人生を送ることができるわけで、これこそが、ほんとうの幸せと言わなければなりません。反対に、結果のよしあしだけを考えて一喜一憂したり、ほかの仕事へ心をフラつかせたりして、何もかも中途半端で終わる一生がどんなに空虚なものであるか──それを思うとき、「経過を楽しむ」精神のたいせつさが、いよいよ肝に深く銘じられてくるのです。 (昭和51年08月【佼成新聞】)...
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...青年期の体験 一 土地の慣わしで、数え年十五歳になると青年団の仲間入りをしなければならなかった。今では二十歳で成人となるわけだが、当時の農村では、十五歳になれば、たしかに成人並みに近い働きをしたもので、けっして早くはなかったようだ。(中略) 青年団員にならせてもらった私は、その実はまだ子どもであったけれども、なんだかおとなになったような気がして、「これからはなんでも力いっぱいやろう。人のいやがることでもいやがらずにやろう」と決心した。 それから一年あまりたったころのことだが、ふと感じたことがあって、「これからは絶対にうそは言うまい」と覚悟し、心ひそかに神仏に誓いを立てた。ところが、それまでは春先のポカポカした暖かい日には頭のシンが痛くて困ったものだが、その誓いを立ててからさっぱりと治り、以来頭が痛いなどということはなくなった。不思議な経験だった。 (昭和51年08月【自伝】) 早い子ならば中学のころから、今まで無邪気になにもかもしゃべっていたのが、フッと無口になり、自分の経験を一から十まで親に話さなくなることがあります。何か考えこんでいるようなようすを見受けることもあります。そのような変化にあうと、親は、なんとなく不安を感じます。子どもが自分からスーッと遠のいていくような、寂しい思いをすることもあります。 それは、じつは自然の現象なのです。独立人となる準備が無意識のうちにソロソロ始まっているのです。どうせいつかは、巣から飛び立ち、独立していく子鳥とおなじです。ですから、親はそのような変化を、むしろ好ましいことと考えなければならないのです。 この時期は、あるときはおとなでありたいと思い、あるときは子どもでありたいと思う、不安定な人生の過渡期です。ですから、親は親であり、人生の体験者であるという自信をもって、もし、なにか相談でもされたらいつでも応じてやるという、つかず離れずの態度で、愛情深く見守ってやらねばなりません。 この時期に、甘やかしすぎたり、干渉しすぎたりすると、あるものはそれをうるさく思い、イライラした心理状態におちいります。あるものは自主性のない、動揺しやすい精神のまま青年期へ移行してゆきます。 昔の武士の子なら、そろそろ元服し、早いものは戦場へでも出かけた年ごろです。私自身も、村の習慣にしたがって満十四歳で青年団にはいり、満十六歳で消防団にも加わりました。この年ごろは、まだ子どもっぽいところはあるにしても、からだはメッキリおとならしくなり、精神的にも広い世界へ出かかる時期ですから、指導のしかた一つで、おどろくほどの伸びを示します。学業のほうでも、いわゆる優秀児と名づけられる子どもたちは、十二、三歳のころから、グングンと加速度的に、クラスメートを引きはなすようになる、といわれています。 ですから、この時期には、自分で自分の夢をもち、その夢をせいいっぱいふくらませていくよう、かげながら助力してやりたいものです。そうすれば、子どもはまっしぐらにそのほうへすすんでいきます。 (昭和42年11月【育てる心】) 青年期の体験 二 越後には有名な山がたくさんありますが、なかでも下越後の八海山は信仰の山として、古くから知られています。標高一千七百メートルで、山頂には八海神社が祀られているのです。山中には八つの池があり、八海という名もそこから来たものです。 新潟県下の青年たちの間には、二十歳になるまでに、必ず一度は登らねばならぬ山だという不文律みたいなものがありました。私も、数え年十五歳(満の十四歳)で青年団にはいった年、みんなに連れられて登りました。 山らしい山に登ったのは、それが最初でした。村から幾つかの山を越え、峠を越えて、ようやく八海山にたどり着き、これからがたいへんなんだよ、と聞かされたときは、正直な話、ヤレヤレと思いました。しかし、息を切らし、汗みどろになりながら頭上を窮めたときの気持ちは、なんとも形容のできない快さでした。 青々と広がる越後の国原と、目路のかぎりうち霞んでいる日本海の広さを見渡したとき、腹の底から勇気のようなものが力強く湧いてくるのを覚えました。 「よし、やろう」 私は心の中で、そう叫びました。何をやろうという決まった考えはないのですが、ただ何かしら大いにやろうという、積極的な気持ちが一時に沸騰してきたのです。大空へでも飛び立って行きたい血の騒ぎを覚えたのです。 あの一瞬の、えもいわれぬ快い充実感、あれこそ、若い時代でなければ感じられぬエネルギッシュな生きがい感だと、今でも懐かしく思い出されるのです。 (昭和44年11月【生きがい】) 青年は未知の世界を開拓すべきものです。青年がそれをやらなければ、だれがやるのでしょうか。だれもやらなければ、人間の進歩はありうるのでしょうか。 それゆえ、青年に剖検はつきものです。(中略) 危険を恐れるのは、人間の本能にはちがいないのですけれども、その恐れよりも未知の世界へのあこがれのほうが強いのが、青年の本質なのです。ですから、親としても、まちがった愛情から安全コースだけを押しつけたり、危険を冒す勇気をくじけさせるような言動はつつしむべきです。 青年期に達したとはいえ、親にとってはまだまだ子どもに見えるものです。危なっかしくて、とてもひとり歩きをさせたくない気持ちになるものです。そんな場合は、その子が赤ちゃんのとき、つかまり立ちをしたりヨチヨチ歩きを始めたときの、自分の態度を思い出してください。危なっかしくて思わず手を貸してやりたくなっても、やはり、それを思いとどまり、「さあ、ここまでおいで」と励ましてやったのではないでしょうか。それとおんなじことを、たくましく成長した青年に、なぜ、してやらないのでしょうか。 期待と信頼の言葉は、たっぷり投げかけてやるべきです。しかし、もう、手は引いてやらないほうがよろしい。慈悲のつっぱなしが肝要です。「さあ、おまえの道を歩いて行きなさい。おまえならだいじょうぶだ」……と、腰をドンと押してやるような気持ちが肝心です。親がそんな態度をとれば、青年は勇気百倍するのです。 親がいつまでも手を引いてやれば、子どもはひとり歩きできません。ひとり歩きするにしても、人のあとからついて歩くことしかできないのです。人のあとからついて歩けば、その背中がじゃまになって、前が見えません。だから、新しいものを発見することもなく、創造をすることもなく、きわめて生きがいのない人生を送らねばならないわけです。 また、人のあとからばかりついて歩く人間は、多くの人を率いる立場に立つことはできません。立ったにしても、その使命を充分に果たすことはできないのです。今はやりの言葉でいえば、人間管理ということができないわけです。 (昭和42年11月【育てる心】) 青年期の体験 三 今の都会の子は、学校と家庭という二つの世界しかもっていません。昔は、都市のすぐ近くにも豊かな自然があり、そのなかで仲のよい友だちと楽しく遊ぶという第三の世界をもっていました。野山を駆けまわったり、木のぼりをしたり、川で泳いだり、メダカをすくったり、われを忘れて楽しんだものです。 今の子は、その点たいへんかわいそうです。学校と家庭のあいだを伝書鳩のように往復し、学校では知識をギュウギュウに詰めこまれ、家へ帰ってからも、それ宿題、それテストの準備と追いまくられるのでは、たまったものではありません。せっかくの楽しい少年時代を、そんな暮らしかたで過ごしたのでは、大きな夢も生じなければ、豊かな人間性も育ちません。近ごろ小さくヒネこびた、自主性のない人間が多くなったのには、こういった原因もあるのです。 (昭和42年11月【育てる心】) 近ごろの子どもたちには、ほんとうの友人がいないのでいかということです。うわべだけは友だちとして付き合っているけれども、心底からの友情がない。一帯感がない。だから友だちにも本音はけっして打ち明けない。つねに一線を画している。これでは寂しいです。いつも孤独なのです。このことが、悪い仲間へ入っていく大きな原因をなしているように思われるのです。 悪い仲間には、不思議と強い連帯感があります。密接な“友情”でつながり、いわゆる、邪定聚を形成しています。その妖しい魅力が青少年を惹きつけるのではないでしょうか。 (昭和52年02月【躍進】) ふつうの人間にはとうてい考えられぬような残虐な犯罪行為が、しかも青少年の手によって次から次へと行なわれ、私どもを深刻な暗い思いにおとしいれています。(中略) おとなの犯罪がおおむね物欲と色欲と権勢欲にもとづく汚ならしいものであるのに対して、これらの青少年の犯罪にはそのような汚ならしさがないだけに、かえって人間悪の底知れぬ深淵をのぞかされるような身ぶるいをおぼえざるを得ません。その深淵とは何か?……「それは孤独地獄である」と私はいいたいのです。 これらの青少年たちに共通していえることは、地方から大都市の真っただ中へほうり出されたとか、心からの友人のいない寮生活をしていたとか、とにかく、「おおぜいの人間の中での孤独」にさいなまれていた人たちでした。 この「おおぜいの人間の中での孤独」が一番恐ろしい、不幸の源泉なのです。私は新潟県の山奥の僻地に育ちましたが、はたから見れば、そんなところに住んでいる人たちは孤独でやりきれないと思えるでしょうが、案外そうではありません。それはそれなりに自分たちの世界をつくって、けっこう和やかな心境で暮らしているのです。それに反して、何百万人もの人間がヒシメキあっている大都会の真ん中で、その何百万人が自分とはなんのかかわりもない人間だと感ずるとき、その寂しさは真実やりきれないものなのです。 今の日本には、こうした孤独感がしだいにはびこりつつあるのです。史上未曽有の反映を謳歌し、生活は一般に豊かであり、私たちの青少年期(大正末期から昭和初期)に経験したような失業や求職難もなく、物質的には、まことに恵まれた時代であるといえましょう。その反面、人間性というものが日一日と疎外されるようになってきています。金と物とレジャーの奴隷のような生活が、しだいに人びとを極端な自己中心主義へと導きつつあるのです。「人のことなど、どうでもいい。自分さえ楽しく暮らせれば……」という思想が、人びとの気持ちをカサカサにひからびさせようとしているのです。 そうしたバラバラな人間集団の中へ、地方から出てきたばかりの少年たちが投げこまれた場合、閉鎖性の強い子どもだと前記のような悲劇の主人公にもなりかねないのです。もちろん、そのような極端なケースはまれだとしても、一般的に人間味のうすい、利己的で孤独な性格が、そこでしだいにつくり上げられていく傾向は、どうやら否めないようです。とすれば、これから先の世の中がどんな様相のものになるか……考えただけで胸がふさがる思いがします。(中略) 何よりもまず、縁あるすべての人に対して、人間味をもって接することです。温かい友情をもって、できるかぎりの親切をつくすことです。 そうすれば、相手の人は知らず知らずのうちに孤独地獄から解放され、人間同士の連帯の快さ、友情の流れ合いの美しさを、からだで会得するにちがいありません。 (昭和44年07月【躍進】) 青年期の体験 四 青年団の仕事には、道普請とか、雪おろしとか、その他の共同作業など、生産的なものもいろいろあったが、一番楽しみであり、それだけに印象に残っているのは、お祭りのお神楽や踊りだった。 (昭和51年08月【自伝】) 村の鎮守さまは諏訪神社だった。祭礼は七月十一日。十日町の諏訪神社の祭礼が八月二十七日。その両日には仕事を休み、餅をついたり、赤飯をふかしたりして祝った。 それよりにぎやかだったのは、旧暦の十五夜に行なわれる子安観音のお祭りだった。ちょうど収穫の終わった時期でもあり、豊年祝いも兼ねて、なかなか盛んなものだった。 この日は、お神楽その他いろいろな余興があり、青年たちが中心になってやった。余興のおもなものは面神楽で、獅子をかぶって踊る舞い込み・岩戸舞い、それからおかめ・天狗・高砂の尉と姥の面をかぶって踊るもの、獅子と天狗と掛け合いの茶番踊りもあった。 手踊りもやった。高大寺踊り、よしよし踊り、伊勢音頭、花輪踊りなどがあり、フィナーレとしては必ずおけさ踊りをやった。このおけさは昔からのもので、現在ほうぼうで歌われているおけさとは別物である。当時はまだ電気がきていなかったから、裸ろうそくをつけたり、提灯やカンテラなどをつるしてやったもので、まったく野趣に満ちた光景であった。 私も、こうしたにぎやかなことが好きだったので、見よう見まねでやっているうちに、みんなにうまいとか、筋がいいとかおだてられ、いい気になって稽古に身を入れた。十六のときから稽古を始め、二十一、二の連中にまじって盛んにやったものだ。 (昭和51年08月【自伝】) 尺八も稽古した。なにしろ一年のうち半分は冬ごもりで、この時期は家の中でワラ製品をつくったり機織りなどの仕事をして過ごすのだが、十六、七の若者にとっては、何かしら娯楽がほしい。それで、四、五人が集まって一つ尺八をやろうじゃないか、ということになった。もちろん、師匠も流派もありはしない。夜仕事がすんでから、おのおの自分勝手にプウプウ吹いて楽しんだものだ。 ところが、尺八は俗に〈スースー三年、首ふり三年〉といわれるぐらいむずかしいものだ。とりわけ私は仲間のうちで一番へただった。どうしてもうまく吹けない。そこで、夜みんなが寝込んだあとで、ふとんの中にもぐって繰り返し繰り返し練習した。そのおかげで、しばらくのうちに人並みより、ちっとはましになった。追分が得意の曲だった。 (昭和51年08月【自伝】) 青年期の体験 五 祭りと祭りの間は一生懸命働きました。レジャーの真骨頂はそこにあると思うのです。レジャーを楽しみにして、けんめいに働く。けんめいに働けばこそ、レジャーも楽しい。そして、それが生活に健康なリズムをつくる。ありきたりのことのようで、案外、たいせつなことなのです。 (昭和48年04月【躍進】) 仕事そのものを生きがいとしている人は、余暇には、まったく自由になんでも好きなことをやっていい……これが原則だと思うのです。 その反対に、仕事は義務でやっている、生活のためにしかたなくやっているという人たちは、余暇の過ごし方に大きな条件をつけなければならない、と思います。 というのは、そういう人たちは、不幸にして仕事の中で生命を完全燃焼させることができず、仕事によって自分を高めることができないわけですから、もし余暇の中にそういったものをもたなければ、全生活が生煮えの、歯切れの悪い、味気ないものになってしまいます。 それゆえ、そのような人は、余暇にやる仕事はないし、趣味については、いちおう、よく考え、選択する必要があると思うのです。 では、どういうものを選択すべきでしょうか。 第一に、なるべくただ一つ、自分を生かしきることのできるものをもつことです。シンソコから好きで、それに打ち込み、熱中することのできるものをもつことです。 第二に、それが一生の楽しみになるような、息の長いものであってほしいものです。 第三に、質的に高いものでありたいと思います。なにも高級なものという意味ではありません。すくなくとも、自分を高めるような意義をもち、広い意味で世の中に少しでも貢献するところのあるものです。 どんな人にも、この三つの条件を満足するような余技的な仕事、もしくは趣味をもちうる可能性はあると思います。「私はまったく無趣味です」という人も、たまにはありますが、それは、たいてい本業に熱中し、仕事を趣味としている人です。ただ趣味を発見するチャンスがなかったというだけのことで、まったくの無趣味の人は、まずないといっていいでしょう。 (昭和44年11月【生きがい】) 青年期の体験 六 諸君はこの颯爽たる 諸君の未来圏から吹いて来る 透明な清潔な風を感じないのか それは一つの送られた光線であり 決せられた南の風である これは宮沢賢治の詩、「生徒諸君に寄せる」の冒頭の一部です。私は、この詩に青年の特質がじつに美しく、そして的確に表現されていると思います。 青年は、未来圏から吹いて来る風です。ですから、透明であり、清潔であり、颯爽としています。純真であり、濁りのない正義感をもち、高く美しいものへの憧れをいだいています。 そして青年は、この詩にいみじくもうたわれているように、宇宙の永遠なるいのちから送られて来た朝の光線です。新しい時代をひらく、すがすがしい光です。また、永遠なるいのちから堰を切って溢れ出して来る南の風であります。新しい春をはぐくむ南の風であります。 壮年・老年層には、青年たちの考えが未熟で、言うことが生硬で、することが激越であるといった現象面のみを見て、まだ嘴が黄色いとキメツケたり、世の中を知らぬ半端者と相手にしなかったり、何をやり出すかと危ながったりする傾きが大いにあります。それがどれぐらい青年たちを誤るか、計り知れないものがあるのです。伸びるべき芽を潰したり、あるいは手のつけられぬ曲がりくねった悪材に育ててしまったりするのです。(中略) 青年を理解するとは、右に上げたような“青臭さ”の奥にある尊いもの、宮沢賢治の詩にうたわれているよな特質を、しっかりと見定めることをいうのです。その見定めがつきますと、現象面の“青臭さ”がじつはきわめて自然のものであることがわかってくるのです。すなわち、未熟・生硬なのは、新鮮だからなのだとわかります。 木になっている果実でも、これからうまくなろうとするのは、硬くて、未熟で、新鮮ではありませんか。熟しきった果実は、きょうはうまくても明日の楽しみにはならないのです。 言動が激越なのは、エネルギーがありあまっているからであって、これも自然の現象です。円熟しきった老人が穏健であるのが不思議でないのと同様に、血の気の多い若者が強く叫び、激しく行動するのはごく当然のことなのです。しかも、青年の激しさは、この詩にもたとえられているように、南風の激しさです。沈滞した冬枯れの野山に新しい生命をよみがえらせる季節の訪れを告げる春一番の激しさです。 春一番は、まだまだ寒い早春のある日、とつぜんやってくる荒々しい風ですので、たいていの人が迷惑がります。いまいましいと思います。ところが、舌打ちでもしたいその気持ちをちょっと押えて、この風こそ春の前ぶれなのだということに考えおよべば、身をすくめながらも一抹の楽しい期待が胸に湧いてくるのをおぼえるのです。 (昭和46年07月【佼成】)...
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...願いをもって働く 一 米の取り入れが終わってから、中津川の水力工事に働きに行った。〈冬扶持かせぎ〉といって、雪に閉じこめられる期間によそへ出て働くのが土地の習わしで、前の年は撚糸工場に行ったのだが、ことしは一つ思いっきり骨の折れる仕事で自分を試してみたいとう気持ちもあって、十六の若者には、ちょっと無理なその仕事を志望したわけだった。 中津川は、水源は上州吾妻郡の野反池だが、中魚沼郡の、ずっと奥地を清津川と並行して南北に流れ、つまりは、信濃川に合流するかなり水量の多い川で、ここに東電が発電所をつくる工事をやっていたのである。 私に与えられた仕事は、背丈のつり合ったふたりが棒組みになり、モッコに砂利をいっぱい盛って、ふとい丸太でかついでいくという重労働だった。私の相棒となったのは、三つ四つ年上のおそろしく頑丈な男で、これと気を合わせて、もりもりかついだものだから、仕事はとってもハカがいった。 けれども、今までの百姓仕事とはくらべものにならない重労働だった。両肩とも真っ赤にはれ上がり、おまけに馬の目ほど、皮が破れ、血が出て赤めだらになってしまった。その肩でモッコをかつぐときの痛さときたらなかった。地獄の苦しみとは、あんなものをいうのだろう。だが、何くそっと歯を食いしばって我慢して働いた。そのかわり、ふつうの人夫の日給は一円七十銭だったのに、私たちは二人まえ以上、四円ぐらいもらった。 いくら収入がよくても、また意地っぱりの私でも、皮の破けた肩では、そういつまでもつづけられるものではない。きょうはまいってしまうか、あすはへたばるかと思いながらがんばっているうちに、天の助けが舞い下りてきた。雪が降ってきたのだ。それも、初雪にしてはそうとうたくさん降ったので、鉄索場に働いていたひとりの先輩が、「家の冬囲いがまだしてない。心配だから帰る」といって、暇をとったのだ。 そこで、監督は、どうやら、かねて私の働きに目をつけていたらしく、思いがけなく私をその人の後釜に抜擢してくれた。それを言い渡されたときは、文字通り天の助け、とうれしかった。 こんどまわされた仕事は、車のついた鉄鍋に砂や砂利やセメントなどを入れて押して行き、ざーっとあけてくる役で、肩を使わないですむうえに、日給もモッコかつぎと同じだった。それで、その後は別につらい思いもせず、一か月半ほどをぶじ働きおおせて帰宅した。その間、飯場に寝泊まりしていたのだが、食費や小遣いを引いても、百五十円ぐらい残った。 家へ帰ったのは、ちょうど年の暮れだった。私は、その金をそっくり父へ渡した。父も母も、喜ぶ前に、まず驚きあきれてしまった。物価の安かった大正十一年の百五十円だから、現在の五、六十万円ぐらいには当たろうか。いや、現金収入の少ない農家にとっては、その倍ぐらいの値打ちがあったろう。同じ年に、兄の重造が岐阜県の大垣へやはり水力電気の工事に行き、ひと冬働いて持って帰った金が二十円だったから、一か月半で百五十円というのは破天荒な稼ぎだったわけだ。 父も喜んでくれたが、母の喜びようといったらなかった。とめどもなく涙を流しながら、その金をお仏壇に上げ、長い間、手を合わせていた。むろん、母の喜びは、金そのものでなく、それだけの金を稼いできた、私のたくましい成長ぶりに対する喜びであったのは、私の目にも明らかであった。 (昭和51年08月【自伝】) 何も特別なことはしてくれなくても、特別な愛情は示さなくても、親は親です。父はきびしく、母はやさしく……このごく自然な親らしさが、子どもの一生に与える影響はじつに計り知れないものがあると思うのです。 (昭和44年11月【生きがい】) 願いをもって働く 二 自らも敢然と新しい道へ踏み出していくのは、ほかならぬ青年諸君です。いわゆる、大人は概して現状維持的心情の持ち主です。それには無理からぬ理由がいろいろあるのですが、大胆率直にいわせてもらうならば、その最大の理由は、「おとなはすでに生命力が弱りかけているからだ」と、私は思います。 生命力が弱りかけているから、過去の経験に照らして、「目先に間違いを犯さぬ生き方」を選ぶのです。いわゆる、分別です。もうやり直しはきかぬという、無意識の意識があるために、結果を予測できぬ冒険など、したがらないのです。また、大法・大義に反することは承知していながら、気力(生命力と通ずる)の衰えのゆえに、つい目前の現実と妥協してしまうのです。 それに対して、青年は生命力の塊です。燃えさかる火の玉みたいなものです。ですから、夢があり、勇気があり、先の見えぬ世界へもドンドン突進していくのです。純粋で潔癖で、ゴマカシのない法則をひたすらに求めます。そして、そのような法則を知れば、いちずにそれに随順して生きようとし、また、その法則を世に宣布する行動に命までかけます。これが、真に青年らしい青年の生きざまなのです。 (昭和50年03月【佼成新聞】) そのときそのときの情勢に自分をどう合わせていくか……そういうことばかりに憂き身をやつしていたのでは、功利的な、小利口な、その日暮らし的な人間にしか育ちません。青年は、もっと大志をいだかねばならないのです。壮大な望みをもたなければならないのです。 (昭和51年02月【躍進】) 若い人の中には、“希望がもてない。それは世の中が悪いからだ”という人があります。現実の困難を理由にはじめからあきらめるその気持ちは、いかにも負け犬的で、青年らしくありません。また、何を心のよりどころとし、何をめざして努力すべきかが、つかめなくて苦しんでいる青年も多いようです。この点について、仏教に「総願」と「別願」という言葉で道が示されています。「総願」とは、世界は平和でありたいとか、経済的にも、精神的にも、悩みのない社会を実現したいなどという、すべての人に共通する「願い」です。その実現のために努力することは、社会人としての当然の義務ともいえましょう。さらに、「総願」に対して、「別願」というのは、その人の性格に応じ、才能に応じ、職業に応じた特別の願いをいいます。 人間としての共通な「総願」のほかに、ただ一つでもいいから、一生をかけた「別願」を立てて、そのために努力していくところに人生の価値があり、日々の生活の充実があるのです。いったんこうと心に決めたら、どんなことがあってもやり抜くという熱意と、粘りがなくてはならないのです。そうすれば、「願」は必ず成就されます。 (昭和38年05月【躍進】) 願いをもって働く 三 修行は一生のものだ、とよく言います。たしかにそのとおりです。しかし、世のすべての物ごとにリズムがあり、波があるように、修行にも、やはりそれが必要です。バイタリティー(活力)に富んだ若いときには、大きな波を乗り切るはげしい修行が必要であり、からだも生活も沈静におもむく老成期には、波は小さくても粘り強い不断の修行がふさわしくなってくるのです。 この自然のリズムに従うことが、最も賢い、そして、正しい生き方であると、私は確信しています。お釈迦さまも、お若いときに出家され、六年の間、生死の境をさまようほどの苦行をされました。そういう体験をなさったからこそ、「苦行は究極の悟りを得る最終的な道ではない」ことを悟得されたのです。 よく、お釈迦さまが苦行を否定されたことを、身勝手に受け取って修行を軽んずる人がありますが、それはたいへんな考え違いです。「お釈迦さまでさえ、六年間の難行苦行をされたのだ。まして、われわれがきびしい修行をせずに、いったい何が得られるというのだ」と、こう考えなくてはならないのです。 私自身も、若いときははげしい修行をしました。大波を何度もかぶり、何度も乗り切りました。それが以後の人生にどれほど役立ったか、信仰生活の基盤を、どれほど強固にしてくれたか、まことに計り知れないものがあります。 (昭和51年08月【佼成新聞】) 自動車王のヘンリー・フォードでしたか、次のような名言を吐いています。「暖炉にくべる薪を自分で割れば、二重に暖まる」というのです。他人が割った薪をくべたのでは、からだの外から暖まるだけですが、自分で薪割りをすれば、その労働によって内からも暖まるというわけです。人生すべてのことにおいて、この内から暖まるということが、一番大事であり、価値あることでありほんとうに身につくものなのです。 私は自分の体験から、そう確信しています。若い時代は、いろんな試行錯誤を繰り返すものですが、その場その場において、最善の努力を尽くせば、必ず何ものかをほんとうに自分のものとして得ることができます。たとえ小さなものでも、それが貴重なのです。(中略) そういう努力を繰り返していくうち、いつしか、どんな場合でも、人事を尽くして天命を待つという安らかな心境でいられるようになったのです。この格言は、小学校のとき、壁にはってあったもので、いつも心に残っていたのですが、それをほんとうに自分のものにしたのは、みずから正直に、努力に努力を積み重ねてからのことなのです。 (昭和46年02月【躍進】) 願いをもって働く 四 熊本の八代に、松田農場という青少年の練成を主目的とした農場があり、間さんは十七、八歳のころ、そこに入ったのだそうです。農場主の松田さん(故人)というかたが非常に強固な信念の人で、「人を作り、土を作り、作物を作る」という信条を掲げ、「感謝の心と汗を流す喜びを身につけさせる」という方針で、じつに厳格な練成をしたのだそうです。朝から晩まで一挙一動にきびしい教育を受け、ヘトヘトになるまで働き、しかも、食事は雑炊が主という粗末なものでしたので、期間はわずか一年なのに、同時に入った百数十人の若者のうち、二十数人とかが途中で脱落したそうです。 間さんは、もちろんがんばり通したひとりでした。その一年の艱難辛苦が、間さんの一生を変えたのです。五十歳を越えた現在でも、その修行によって得た“あるもの”が、間さんの生活を強く推進させているのです。その“あるもの”が、「経過を楽しむ」生き方として実を結んでいるのです。もちろん、間さんの言葉のなかにあった「おかげ」は、「松田農場一年の修行のおかげ」だったのです。 (昭和51年08月【佼成新聞】) お釈迦さまも、喝破しておられますように、この世は苦の世界なのです。苦を忍ばなければ生きられない“忍土”なのです。 植物生態学の宮脇昭(註・横浜国立大学教授)さんの著書、『植物と人間』を読みますと、大部分の植物は、その種本来の最適生育地からはずされて、我慢しながらなんとか芽生え、生長し、花を咲かせていることが、さまざまな実例によって述べられています。あまりにも完全な環境だと、その植物は、かえって死滅してしまうのだそうです。 野生の動物だってそうでしょう。どれもこれも大自然や外敵の脅威の中で苦闘しつつ生きているのであって、苦闘することが生き抜く力を育てているのです。動物園のオリの中で安全無為の生活に入った動物が、どう変化するかを見れば、そのことが歴然とわかりましょう。 人間だって同じです。あまりにも気楽な環境の中に長くいれば、必ず、心身がフヤケて、ダメになってしまいます。 (昭和50年02月【躍進】)...
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...上京のとき 一 新潟県の山の中の貧乏百姓の次男坊に生まれた私ですから、家にいたのでは、とうていりっぱな百姓にはなれないのです。なぜかというと、小さな百姓だけに、もし兄から田畑を分けてもらって半分ずつにしたら、子どもを教育するどころではなく、生活も困難になってしまうからです。それも、男の兄弟が五人もいたので、兄に全部の財産をそっくり渡すためには、私が先に立って東京へ行き、なんとか一旗あげて、弟たちにも東京で暮らせるようにしてやらなくてはいけない。私はそう考えて、十六歳のとき、小さな風呂敷包み一つを持って、単身で東京へ飛び出してきたのです。 (昭和40年06月【速記録】) 田舎の言葉でいえば、財産はかまどの灰まで、みんな長男のものなのであって、私は次男坊ですから独立独歩、なんとかして自分で一人前にならなくてはいけない。親から財産分けしてもらうことに、望みをかけるほうが無理な話なのです。 (昭和48年03月【速記録】) 上京のとき 二 いよいよ東京へ出ることが決定すると、祖父さんが、シミジミこう言うのです。 「おまえがいてこそ、家じゅうが賑やかなんだ。おまえがいなくなると、火が消えたようになるよ。行くのはやめにしないか」 そのころの私の家には、二家族合わせて十四人が一つの屋根の下に住んでおり、子どもだけでも九人いたのですから、賑やかすぎるほど賑やかな家庭でした。その中からひとりぐらい抜けたってどうということはない、と私はたいして気もかけず、 「子どもは、まだたくさんいるじゃないの。我慢してくださいよ」 と言って、とにかく、東京へ出てきたわけです。 しかし、今になって、なぜ祖父さんが、そんなことをシミジミ言ったのかを思いめぐらしてみますと、つまり、私がいつも陽気でニコニコしていたからなのです。それだけのことなのです。兄弟やいとこ同士たち、みんなが仲が良く、親に心配をかけるような者はいなかったのですが、弟たちはまだ小さく、兄は無口のムッツリ屋でしたので、私が抜けるのが祖父さんにとっては、やはり、寂しかったらしいのです。 もちろん、私はなんの気なしに、ただ陽気に騒いだり、笑ったりしていたのですが、このことが大きな意味をもっていたのです。日蓮聖人の御遺文の中に、「親によき物を与えんと思いて、せめてする事なくば一日に二三度笑みて向えとなり」(上野殿御消息)とあります。親に何かいい物をさし上げて喜ばせてあげようと思っても、何も上げるものがなかったら、せめて一日に二、三回、笑顔を見せなさい……というのです。子の笑顔、それこそ親にとって最高の贈り物といっていいでしょう。 (昭和49年10月【躍進】) 上京のとき 三 きょうは東京へ行くんだ、とはりきって村を出た私は、(中略)朝のすがすがしい大気を胸いっぱいに吸いながら、信濃川に沿って下り、一路小千谷町へ向かった。 そのころは、まだ上越線は通っていなかったし、長野と越後川口をつなぐ飯山線もできていなかった。それで、ひとまず小千谷まで出て、そこからオモチャのような軽便鉄道に乗り、来迎寺で信越本線に乗るのが、東京へ出る順路であった。 その朝の一部始終は、ついきのうのことのように思い出せる。縞のシャツに紺がすりのひとえ、それに黒木綿の三尺帯を結び、腰には母がにぎってくれたお祭りの赤飯のにぎり飯をぶら下げていた。ふところには、旅費を入れた財布、その紐をしっかりと帯に結びつけていた。手には着替えが一、二枚はいった風呂敷、頭にはつばの広い麦わら帽子をかぶり、八里の山路をわき目もふらずに歩いた。 途中、にぎりめしを食べるのに川端にちょっと腰を下ろしたきりで、あとはひと休みもせず歩いたので、八里の道を五時間ぐらいで歩いてしまった。 来迎寺で上野行きに乗り換えたあとは、車窓にうつり変わる風景にわれを忘れて過ごした。とりわけ、柏崎を過ぎてから、すぐ目の前にうち広がる日本海の雄大な眺めには、すっかり魅せられてしまった。日が暮れると、さすがに疲れが出て、ぐっすり寝込み、駅に止まるたびに何度かうつらうつらしたが、ふと気がついてみると、汽車は信州の軽井沢に停車していた。 午前二時ごろだったが、プラットホームに降りて、冷たい水で口をすすいだ。そうすると、頭がはっきりしてきた。座席へもどり、もうひと寝入りしようとしたが、目がすっかり冴えてしまった。むりに目をつぶっていると、やがて汽車が動き出した。その瞬間、自分は東京へ行こうとしているのだ、という実感が胸に迫ってきた。急に身も心もひきしまるのをおぼえた。 東京へ行って、自分は何をしようとしているのか? 東京へ行って、どんなところに勤めるのか? いちおう、落ち着き先だけはわかっていたけれども、あとは五里霧中だった。なんでもやる覚悟はある。なんでもやれる自信はある。だが、生存競争のはげしい都会だ。東京は山の中の菅沼や、十日町とはちがう。数百万の人がひしめいている。しっかりしなければならないぞ──と、私は自分自身に言い聞かせた。 そのためには、自分というものを、しっかり定めておかなければならぬ──こう考えた。心の支えとなるべき誓いを、はっきりした言葉として確立しておきたかった。 私は青年団にはいってから次の三つの誓いを立て、それを固く守っていた。すなわち、 一、これからは、けっしてうそはつくまい。 一、力いっぱい働こう。 一、他人のいやがることを進んでやろう。 ということであった。 しかし、いよいよ現実に東京という未知の世界へ近づきつつあるとなると、それだけではなんとなく不安になってきた。何かもっと重大なことがあるのではないか──と気になり出した。 あれかこれかと考えているうちに、また、うとうとした。そのうち、眠っているとも覚めているともつかないもうろうたる頭の中に、次のことが浮かんできた。 一、他人と争わぬこと。どんなひどい目に遭っても、神仏のおぼしめしと思って辛抱すること。 一、仕事をするときは、人が見ていようといまいと、陰日向なく働くこと。 一、どんなつまらぬ仕事でも、引き受けた以上は最善を尽くすこと。 この三つを先の三つに合わせて、六つのことを固く守れば、激しい東京の生活にも、りっぱに耐えていけるに相違ない。そして、きっと人にも認められ、一人前になることができるにちがいない──こう考えた。そうして、この六つの誓いを、心の中でなんべんも繰り返し、胸のノートに刻みこんだ。そうしたらすっかり心が安まって、いつの間にかぐっすり寝込んでしまった。 (昭和51年08月【自伝】) 上京のとき 四 どうにかこうにか東京へ出たのですが、物心つくころからそれまでの間、祖父や父から、終始一貫、「正しいことをしなくてはいけない。人をごまかしたりしてはいけない」と教えられ、また、「世間のためになるような人間になれ、早起きして遅くまで稼げ」と明けても暮れてもいわれておりましたので、東京へ出てからも、そのとおりにやっておりました。奉公先の主人は、「おまえのように善良な青年はめったにいない」といってくれましたが、私は「田舎では、東京へ飛び出していったまま、郷里の家に金も送ってこないようなのは不良青年なんですよ。だから、私も大手を振って田舎へ帰るわけにはいかないんです」といっていたものです。 おかげさまで、それから後は、自分が希望していたように、父や兄から手伝ってもらわずに、弟たちみんなに東京で所帯を持たせることができました。そうやって妹に所帯を持たせ、いとこにも所帯を持たせたことを含め、それに自分の分を加えると、六つの所帯を東京に立てたことになります。相当頑張りました。私だけではなく、当人たちもむろん、頑張りつづけたわけですが、先に私が東京へ出ていたことが幸いして、貧乏はしておりましたが、弟や妹が所帯を持つまでの筋道は、私が道案内をつとめることができたわけであります。 こうして、三人目の弟が所帯を持ったとき、初めて上京してきた父から、「おまえの先見の明はたいしたものだ。あのまま家にいたら、今ごろどうなっていたか。こうやって、みんなにりっぱな所帯を持たせることは不可能だったろう」と、お礼をいわれました。しかし、それまでは、「おまえが、東京へ出て行ったものだから、弟たちも次々に東京へ出ようとして田舎にはいたがらない。こうなったのも、一番悪いのはおまえだ」と、七、八年もの間、手紙でこっぴどく叱られ通しだったのです。 (昭和40年06月【速記録】) 鳥は生まれて一か月もたたない雛に、飛ぶことを教えます。獣は、まだ母親の乳を恋しがっている仔に、餌のとり方を仕込みます。人間は、一人前になるまでの期間が長いのですし、また、ただ生きられればいいというのでなく、知的にも、情的にも人間らしい人間に育てなければならないわけですが、しかし、すべての養護と教育の底にある根本精神は、「独立して生きていけるために」ということであるべきです。人間も生き物の一種である以上、これは絶対に忘れてはならぬ大鉄則なのであります。 ところが、近ごろの親たちの中には、この大鉄則を忘れている人が、たくさんあります。とりわけ、中流以上の家庭に、それが多いようです。父親は、子どもに愛される存在になりたい、ということだけに気を使い、きびしさによって、子どもの精神を鍛練することを忘れています。 (昭和44年11月【生きがい】) 上京のとき 五 私が最近読みました本の中に、働く人間につきまして、次のようなたくみな表現をもって分類されておりましたので、紹介してみたいと存じます。それによりますと、 いやいやながら仕事をする人間、それは牛馬と同じではないか。 命ぜられただけをする人間、それは囚人と変わらない。 自分から思いたって働く人間、それが人間らしい人間だ。 生かされている恵みに感謝して、じっとしていられない心の迸りが、働きとなって現われる人間、それが人間の中の最高級の人である。(久平文庫)というのであります。 私が炭屋に奉公しておりましたときのことでありますが、そこの主人という人は有名な勤勉家でありまして、だれも仕事が辛くて、長く勤まらなかったのであります。そこへ私が入ったのでありますが、私は八時間働かなければならぬときには、十二時間働きました。やれと言われて働くのは辛いことでありますが、私はみずからすすんで経営者になったつもり、自分が主人だという気持ちで働いたものですから、働かされて辛いとか、束縛されて不自由だとか、と考えたことがまったくなかったのであります。給料をこれだけしかくれないから、それだけ分以上に働いては損だという、金と時間をすりかえたような考え、主人にこき使われているという考えでは、不平も出たでありましょうが、私の場合には、みずからが主になって自主的に飛びこんで働いたものですから、主人のほうが私に追い回されるような結果になったのであります。 その点で私は、人間らしい人間であったのかも知れません。私が働いた十二時間は、仕事をさせられるという束縛の十二時間ではなく、働きがいのある束縛なき自由の十二時間であったわけであります。 この自分が炭屋の主人であるというくらいの責任をもって、自主的に積極的に仕事をするところには、炭屋の主人と私という二つのものが相対立するのではなく、一対になっている。そこにこそ、束縛なき自由が存在すると思うのであります。 やれといわれて押しつけられた法は苦痛でありますが、捨て身になってみずから法を求める修行は喜びであります。 じっとしていられない心の迸りが、働きとなって現れる人間とは、けだし菩薩の心をもって物ごとをする人のことでありましょう。 (昭和37年09月【佼成】)...
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...関東大震災に遭遇して〈災害に対峙する心構え〉 一 あとで思えば、十一時五十八分、主人が、「もうそろそろ昼食にしようか」と言ったので、仕事にひとくぎりつけよう───と思ったとたん、ゴーッという地鳴りがし始めた。 おやと思う間もなく、家じゅうがグラグラッと揺れ出した。一瞬にして、落ちた壁土の埃があたりにもうもうと立ちこめ、その中で棚の物は落ちる、米俵は転がる。思わず外へ飛び出すと、屋根瓦が上から落ちてくる、看板が吹っ飛ぶ。この世の終わりがきたかと思われる、すさまじい光景だった。 第一震がやっとおさまると、なんということなしに、われもわれもと広い電車通りへ駆け出して行った。しかし、そこも、電車は脱線して道にはみ出しているし、切れた電線もぶらぶらして、危険千万だ。 そのうち、蛎殻町あたりの方角に火事が起こったらしく、黒煙がもうもうと立ち上がった。見ると、火の手は、あっちからもこっちからも上がっている。「火事だ、火事だ」と言う声が四方八方から聞こえてきて、人びとはただうろたえ、さわぐばかりだ。 (昭和51年08月【自伝】) 私の故郷の十日町は、東京にくらべて地震が非常に少ないところで、たまに起こっても、東京のように激しく揺れることはめったになかったのです。ですから、父はよく私に、「越後と違って、東京には大きな地震がたびたびある。そんなとき驚いたりすると、“田舎っぺ”といって笑われるから、驚いてはいかん」──といった意味のことを話してくれました。 そのときは、なんの気もなしに聞いておりましたので、たいして気にもとめていなかったすが、大震災で激しい揺れを経験したときは、なるほど、東京は地震の多いところだと思いましたし、“田舎っぺ”といわれないように、落ち着かなくてはならないという気持ちが、ひらめいたのであります。そのおかげで、つねに心に余裕をもち、冷静に判断しながら行動をとることができました。 まわりが火の海になったにもかかわらず、大八車二台に荷物をぎっしり積み込んで、そこから逃げ出すことができたという、尊い経験をしたのであります。 (昭和39年07月【指】) 関東大震災に遭遇して〈災害に対峙する心構え〉 二 まわりの人がみんな腰を抜かすものですから、“なんだ田舎っぺばかりか”と妙なところで安心しました。そうしたら瓦は落ちるし、京橋第八銀行の鉄筋の角もドカッと落ちるし、「外へ飛び出さなくてよかった」と思っているうちに、周囲に火がまわってきたのです。それで店の大八車二台に、大事な家財道具を全部積んで宮城前広場へ逃れました。 主人に「エチゴ(新潟出身の私のこと)のおかげで助かった」と喜ばれましたが、いま思うと、あのとき、気持ちに動揺がなかったのがよかったのだと思います。 (昭和44年11月【佼成】) 人間は、心の余裕と冷静さを失うと、前後不覚の状態になってしまうものです。もちろん、健康にもよくないし、ものごともよくいくはずがありません。心の問題がいかに重要かが痛感されます。 お釈迦さまが、“三界は唯心の所現なり”、すなわち、三界はみな心の現れであるといわれたのも、心の問題が人生において一番大切であることを教えられたものであります。そして、その心をいかに整えていくかが、宗教の役割であって、『仁王般若経』にも、仏法が盛んになれば“七難即滅、七福即生”、すなわち、七つの難が消えて、七つの福が現われる、と説かれております。しかしながら、鎌倉時代をみると、仏法が非常に盛んで、お寺の数も非常に多く、それがまたりっぱに繁栄し、お寺には金襴をつけたお坊さんや、たくさんのお弟子がたがおられて、あちこちで仏道修行をなさっている、いわゆる、仏教興隆時代であったにもかかわらず、当時は災難が非常に多かったものでした。 それに対して、疑惑をもたれたのが日蓮聖人でした。聖人は一心不乱に一切経を学び、よって起こるところの原因を究められて、かくあるべきことを、『立正安国論』と銘うってしたため、三回にわたって北条執権に提出されたのであります。 (昭和39年07月【指】) 関東大震災に遭遇して〈災害に対峙する心構え〉 三 人間からエゴイズムをなくしてしまうことは、言うべくしてまことに至難の業です。しかし、それをほどほどに抑えなければ、身は破滅し、社会は崩壊せざるを得ません。それゆえ、お釈迦さまは諸法無我の教えをお説きになり、全体と調和して暮らすところにこそ、涅槃(安穏)の境地があることを、強く強く教えられたのです。 その教えと正反対のことを、戦後の日本人はやってきたのです。仁王経に「人仏教を壊らば、復孝子なく、六親不和にして、天神も祐けず、疾疫悪鬼、日に来りて侵害し、災怪首尾し、連過縦横し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん」とあります。人間が仏の説く真理に背いてばかりいるならば、世の中に孝行な子どもはいなくなり、父・子・兄・弟・夫・婦の仲は悪くなり、諸天善神の加護も失われ、悪病は日に日に襲い、災難はくびすを接してやってき、人間は次々に罪過を犯してとどまるところがなく、死んでも地獄・餓鬼・畜生道に落ちるだろう……というわけです。 今の世相はそっくりこのままだとは思いませんか。親が子を殺し、子は親を泣かせ、兄弟は争い、夫婦の間は冷たくなり、離婚がふえています。人びとの心は神仏から離れ、そのために諸天善神も、人びとから離れてしまわれました。新しい奇病が次々に出現し、天災・人災の絶えることなく、死後どころか、死なない前に地獄・餓鬼・畜生道におちいっている人がたくさんいるではありませんか。 それもこれも、仏法を壊ったからです。あえて仏法と言わぬまでも、天地の万物は連帯して存在するという真理に背き、エゴをむき出しにして大きな連帯を破ったればこそ、今のような事態が現出したのです。ですから、ここでわれわれが、ぜひ、なさなければならない「心の大掃除」というのは、これまでの無茶苦茶なエゴイズムを掃き出してしまうことなのです。欲望をほどほどに抑え、譲るべきは譲ることによって、みんなが過不足なく生き、適度の幸福を享受するという生き方へ、ポイントを切り替えることなのです。 これさえできれば、日本は、きっとよくなります。間違いありません。 (昭和50年01月【躍進】) 関東大震災に遭遇して〈災害に対峙する心構え〉 四 上京して四か月目に、私は関東大震災に遭いました。そうした地震の災害を自分の身で経験してみると、どこかで震災があったときにも、それがどんな状況なのか、どんな具合だったのか、その被害の状態が気にかかり、被災地の人びとの気持ちが身にしみて感じられるのです。 そういうことを思い合わせてみますと、私たちは、こうして幸せでいられることを、すべてについて感謝し、感激してご法に精進しなければならないと思うのです。人間というものは、どうかいたしますと、幸せになれたのは自分でやっているからだ、と考えてしまいがちだからです。 とくに最近、立正佼成会の教えはみなさんから非常に喜ばれ、学者や有識者といわれているような人びとも、立正佼成会でなくてはならないというようなことをいわれ、また経済界や政界を含めて、あらゆるかたがたが、立正佼成会の発展ぶりと今日の宗教活動のあり方を、非常に期待しておられるのです。青少年の不良化防止という問題にしましても、その対策はこうすべきだ、ああすべきだといっておりますが、さて、こうやればいいというようなはっきりした方法があるかといいますと、それはまったく暗中模索であって、それに対する対策がないのです。「環境が悪いからだ」「いや唯物的な考え方をするからいけないんだ」「世間が悪いんだ」という声にしましても、確かにそういう条件はありますが、それを詮じつめていって、それでは解決の方法は、ということになると、何をどうすればよいか、はっきりしないわけです。 しかし、立正佼成会の信者として、この問題をとらえた場合、人生苦に対しての四諦の法門に照らすと、いっさいの現われた問題は、“この親にしてこの子あり”で、因果の法則によってお互いに自分の責任だということがはっきりしてきます。しかし、中には過去のことは、その順序できているにしても、未来のことはわからない、といいたがる人がいます。 ところが、過去を振り返ってみても、また未来に向かってみつめても、そして、現在のことも、まったく狂いのない法門が、はっきりとしてあるということをわからせてもらうと、疑う余地はもうなくなってくるのであります。 (昭和39年06月【速記録】) 私は大震災に焼け出されて逃げる途中で、四十歳ぐらいの男と一緒になって火の中を逃げたのですが、その人が私の肩を叩いて、「お題目を唱えろ、お題目を唱えれば助かるんだ」と申しましたが、自分は念仏だったのでお題目なんか唱えられるかという考えで、そのときはおりました。ところが、それから十五年間迷って、けっきょくお題目で自分も人も歩む道を見出したわけでありまして、反対する者は、すでに縁があるという証拠であると思うのであります。そういう道をたどりまして、どんな場合にも動揺しない信念をもって、自分は足りない人間だと反省すると同時に、また、ご法を確信するところの信念をもちまして、今日まで生きてきた人間であります。 (昭和30年07月【佼成】) 関東大震災に遭遇して〈災害に対峙する心構え〉 五 学説によると、新潟地方では震度“2”以上の地震はないといわれております。それはまた、歴史の上からみても間違いないのですが、“諸行無常”という法門から申しますと、過去になかったから、未来にもないということはできません。そのことを如実に教えているのが、今回の新潟地震(註・昭和39年6月16日)の災害である、といえます。 ところで、今回の災害では、今にも壊れそうな古い橋がなんの被害も受けなかったのに、近代科学の技術を集めてつくられた、もっとも新しい、「昭和大橋」が、第一番に落ちてしまいました。これは、あまりにも文明に頼りすぎた科学万能主義に起因するもので、この点を、とくに反省しなければならないと思います。 ここで一つ、私の田舎のあたりで見られるけっして近代的とはいえない“掘っ建て小屋”について、申し上げてみることにしましょう。この小屋に使われるのは杉の木です。傾斜面に生えている杉は、冬の間、雪の重味で押されるために、根本の一メートルから二メートルのあたりまで曲がっていて、それから先はまっすぐに伸びています。その曲がったところを、何本か適当に切り取り、一メートル置きぐらいの間隔で地面に埋め込んで丸屋根のように、上に茅を乗せたのが掘っ建て小屋であって、屋根は、ちょうど大聖堂のドーム(註・丸天井)の勾配と同じくらいになります。 それで、この掘っ建て小屋を、なんのために使うかといいますと、たとえば、家から一里も離れた山奥に田圃があるような場合、通うのが大変なので、そこに泊まり込むこともいたしますし、食事をとるとき、雨や風を凌ぐためにも使えるということで、各自がみな、そういうものをこしらえております。この掘っ建て小屋は大昔からあったもので、地震や大風にもまったく平気なのです。 ところが、近代建築は、鉄筋コンクリートの堂々たる建物であっても、少々地下に掘り込んだていどだと、一度に倒壊してしまうありさまです。これは近代建築が悪いのではなく、新潟地震の例をみましても、しっかりした地盤のところまで掘り下げて建てた、地下二、三階あるような建物は微動だにしなかった、ということです。 こうした例から考えましても、私どもは、すべてのものごとに対して、かたちだけにとらわれることなく、法門にもとづいて考えていかなければならないことが認識されるのです。 近代建築にたとえれば、上っ面のご都合主義ではなく、微に入り細にわたって計算し、地下二階、三階をつくるときのように、しっかりした地盤にまで掘り下げる企画設計をすると同時に、ほんとうにしっかりした建物を建てるのだ、という真心から出発しなければならないことになります。このように考えてみますと、私ども信仰者は現象のみにとらわれることなく、それを深く掘り下げることによって、大磐石の信仰を築き上げていかなければならない、ということになるのであります。 (昭和39年08月【指】)...
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...傍を楽にする働き〈職業観・勤労観〉 一 私が(中略)炭屋に奉公したときには、それまで田舎で畑仕事をしても平気だった手に、アカギレができたものでした。夜おそく血の流れる手で、一生懸命にマキ割りをしていたころがなつかしく思い出されます。そのころはまだ子どもですから、なんになるという具体的な目標はなくても、とにかく日本一になるという気持ちだけはあったようです。 したがって、何ごとも一生懸命にやらなくては日本一になれないぞ、という気概がありましたから、マキ割りがいやだから、サボるというような気持ちは毛頭ありません。マキ割りもできない根性で、他に何ができるかという気持ちでした。ですから、何ごとも真剣にまじめにやれば、必ず道はひらけるという信念を、今も私は持ちつづけております。 (昭和44年01月【佼成新聞】) 傍を楽にする働き〈職業観・勤労観〉 二 私が十六歳で単身上京したとき、父に言い渡されたのは、「なるべく暇がなくて、給料の安いところに奉公しろ」ということでした。 “労働は対価のためのもの”と単純に割り切っている現代では、まったく通用しない考えのようですけれども、そうではありません。私は青年時代に、この戒めによって、“労働の対価”以上の貴重なものを得ることができたばかりでなく、功利的でない働きを一生の仕事とする基盤が、それによって築かれたように思います。しかも、欲得づくでない働きをまじめにしておれば、けっして食うに困ることがないという真実を、身をもって知ることができました。 (昭和49年11月【佼成新聞】) 私は若いころ、大八車を引いて漬物の行商をしたことがありますが、漬物をいっぱい積んだ車は、引き始めはたいへん重いのですが、勢いがつくと、もう重さを感じなくなるのです。慣性とか、習性とかいうものの働きなのですが、この慣性・習性というものを見直すべきです。 若いうちは体力もある。生命力にも満ち満ちている。ですから、若いうちに思い荷─つまり辛い仕事─を引き始めることです。そうすれば、いつしか、それが習性となって、なんでも一生懸命にやるクセがついてしまいます。そのクセがどれほど一生のためになるか、計り知れないものがあるのです。 ところが、若いうちは、どうも周囲の目を気にしがちです。あまりモリモリ働けば、同僚たちに「あいつゴマをすっている」「いい格好しようとしている」と思われはしないか……そんなことを考えるものです。 戦前まではそうでもなかったのですが、戦後、民主主義が浅はかに受け取られるようになってから、意欲的に、自発的に、シャニムニ働くことを、何かこう出すぎたことのように考えるようになりました。罪悪感さえおぼえる人もあるようになりました。というのも、「労働は対価のために行うものである」という次元の低い唯物思想が一般化し、「働くのは社会への布施である」という崇高な真実が忘れられているからだ……と私は思うのです。 ですから、同僚のおもわくを気にして、せっかくの意欲を萎びさせてしまい、そして、仲間に調子を合わせてほどほどに働き、酒やマージャンなどのつきあいのほうに精を出すようになってしまうのです。これはつまり、上司にゴマをするかわりに、同僚にゴマをすっているわけで、ゴマスリという賤しい心理に変わりはないのです。ここのところを深く省察しなければなりません。 調子を合わすならば、宇宙法にこそ調子を合わさなければならないのです。因果の道理・諸法無我の法則にこそ、おのれを捨てて随順しなければならないのです。「おのれを捨てる」といえば、現代人はたいせつな自分を冒涜することのように考えがちですが、とんでもありません。宇宙法の前におのれを捨てることは、おのれを大きく生かすことなのです。道元禅師が、「わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして生死をはなれて仏となる」と説いておられるのは、ここなのです。 これを現代風に意訳しますと、「自分の心身を放ち忘れ、宇宙法の中へ投げ入れてしまえば、ひとりでに宇宙法のほうから何かと働きかけてくるから、それに身を任せてゆくならば、力むこともなく、あれこれ心を使うこともなく、ひとりでに現象世界に煩わされぬ境地に入ってしまうのだ。することなすことが宇宙法に即するようになってしまうのだ」ということになりましょう。 これが仏の境地です。おのれを捨てるというのは、たいせつな自分を捨てるどころか、仏という最高至上の人間になる近道なのです。これを現代人は知らないのです。全部が近視眼になってしまっていて、見えないのです。 だから、こういうこともいえましょう。現代において最もたいせつなことは、タテには、きょうあすのことしか見えない。ヨコには自分の身と家族ぐらいしか見えない、その近視眼を直し、もっと遠く、広く、人間世界の真実に目を開かせることだ……と。そう、私は思うのです。これが、いわゆる、仏知見なのです。 自分自身が働くことの真実の意味に目覚めて働くのは、たんに自分自身を成仏に導くだけではありません。周囲の同僚や、部下や、上司たちをも、仏知見に目覚めさせることになるのです。それは、初めはいろいろな誤解も受けましょう。いい格好をしているとか、ゴマをすっているとか……。しかし、誠心誠意やっていることは、いつかは必ず認められるものです。必ず共鳴者ができます。ひとりできると、またできる、友は友を呼び、光は光を招くといった具合に、職場はしだいに楽土化し、光明化していくのです。 それには、功名心があってはいけません。力みがあってはいけません。「わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて」という気持ちが必要なのです。そんな気持ちで万事をなすならば、きっと人は動かされます。太鼓判を押して保証します。 (昭和53年08月【躍進】) 傍を楽にする働き〈職業観・勤労観〉 三 大正十二年、東京という、それまでぜんぜん知らなかった場所に出てきますと、人さまの関心を自分に引こうなどと考えるどころではありません。なんとかして、人さまに伍していかなくてはならないということで、真剣そのものです。それに、信用もなければ肩書もない。とにかく、なんにもないわけですから、自分がどうにかして、人さまに認めていただけるような人間になろうとするには、かげひなたなく全力を挙げて働くほかないのです。私はそう考えて働きつづけましたので、主人には大変喜ばれました。 最近は、何かというと、労使の問題が出てきますが、私は、労使がお互いに、“使っている”“使われている”という不平等の意識をもっていることを、いつも遺憾に思っております。私の考え方から申しますと、自分はほんとうに主人のために働いているのだ、という自信をもっていれば、奉公していても、“使われているんだ”といった卑屈感はありません。商売に没頭することによって、早くその仕事をおぼえ、主人を喜ばせたいという考えで、一生懸命に働いたものです。 (昭和45年11月【速記録】) 昔から、「働くというのは傍を楽にすることだ」と言います。仏法でいうならば、諸法無我の真理にもとづく「働きの哲学」です。 宇宙の根元の実在である空が、宇宙の至る所に隙間なく満ち満ちているものであり、万物・万象が空によってつくり出されているものであるからには、当然、万物・万象は空によってひとつづきになっているわけです。すなわち、この世にポツンと孤立して存在するものは一つもなく、すべてがつながりをもち、相依り、相助けて存在しているわけです。これが諸法無我の真理です。 これを自分の人生に即していえば、自分の生命活動は必ずほかの人びとの生命活動とつながっており、そのつながり合いは、あたかも無数の網を四方八方・上下左右にくまなく張りめぐらしたようなものです。しかもその網は、いつも同じ状態にとどまっているのではなく、少しずつ少しずつ洗練され、強く、かつバランスのとれた網に変わっていくべきなのです。これが社会の向上ということであり、平和化ということにほかなりません。 ですから、もし自分がわがままな悪い力を加えて、その網を無理に引き下げようとしたり、かき回したりすれば、その網はもつれ、あるいは破れ、世の中全体の総合的な生命活動のバランスに崩れが生じ、その向上の流れに停滞が起こってしまいます。 逆に、自分が正しく働き、大宇宙から与えられた持ち分を充分に果たしていくならば、その働きのエネルギーは網全体をホンのわずかずつではあっても引き上げるわけです。そして、知らず知らずのうちに、他の多くの人びとの上昇をも助けているわけで、つまり、傍を楽にしているのです。 傍を楽にする……大きな布施です。世の中全体を引き上げる……これは、さらに大きな布施です。職場でけんめいに働く。正しく働く。それは、このような偉大な布施行なのです。そのことが真底からわかれば、これまた心に大歓喜を生じて、ますます努力せずにはいられなくなるはずなのです。 仏法を知らない人は、そのことがわからないから、仕事がおもしろくないとか、上司が気に入らないとか、出世できそうにないとか、自分本位の、目先の小事ばかりにとらわれて、投げやりな気持ちになり、シラケてしまうのです。その結果、働きも怠りがちになり、仕事もいいかげんになり、停滞もしくは後退するようになってしまいます。 そうなりますと、連鎖反応的に上司の目はますますきびしく感じられ、職場の空気はいよいよ重苦しくなり、ついには、いたたまれないような気持ちになってしまうのです。ですから、職場がおもしろくないと感じ始めたら、逆療法的にモリモリ働くことです。 停滞は宇宙の理に反します。宇宙の万物はつねに変化しています。太陽のような恒星は絶えず燃えており、地球のような惑星は、その周囲を回っています。宇宙全体も、外へ外へと膨脹しつつあるというではありませんか。極微の原子を見ても、原子核のまわりを電子が非常な速度で飛び回っているというではありませんか。 動くというのが、宇宙の常態です。自然の姿です。人間にとっても、働くというのが自然の状態なのです。ですから、けんめいに働いているときは、無心でいられるのです。無心でいられるのは、宇宙の理にピッタリ合致しているからであって、なんともいえず清々しいのは、そのせいなのです。 馬に重い荷を積んだまま繋ぎっぱなしにしておいてごらんなさい。馬はすぐ疲れ、苦しがります。ところが、同じ荷を積んでいても、道を歩かせますと、楽々と歩くのです。不思議です。重荷を背負うという労苦と、歩くという労苦が二つ重なるから、苦が二倍になるかというと、そうではないのです。かえって、いくらか相殺されるのです。 私が、「仕事が辛い、おもしろくないと感じたら、逆にモリモリ働きなさい」と勧めるのは、この不思議な真実にもとづくものであり、私の七十年の人生体験から得た確かな真理でもあるからなのです。 ましてや、自分が働くのは傍を楽にすることだ、多くの人びとの上昇を助け、世の中の進歩を促進するものだ……という理念をしっかりと堅持しているならば、辛さなどは一ぺんにケシ飛んでしまうでしょう。 (昭和53年08月【躍進】) 傍を楽にする働き〈職業観・勤労観〉 四 内輪の話で恐縮ですが、私の甥のひとりに学校ぎらいの子がいました。高校に入学はしたのですが、どうしても勉強が好きでないというので、思い切って退学させ、板前の修業をさせました。これが性に合ったとみえて、どんどん腕が上がり、今では立正佼成会の食堂に勤めて、朝早くから仕事に精を出しています。大量の仕込みのある日などは、夜中の三時ごろに出かけて行き、夜、家に帰って休んでいても、何かわからぬことがあって電話でもかかってくると、すぐさまスッ飛んで行きます。 とにかく、今の仕事に生きがいを感じているとみえて、はりきっているのです。 私は、この甥に、「私は会長で、おまえは板前だが、人間の価値としてはおなじだ。説法をやらせたら私だが、包丁を持たせたらおまえだ。会のために一心に働くかぎり、会にとっても存在価値は平等なんだ」と言って聞かせています。これは、オダテでもなんでもなく、ほんとうにそう思ったから言ったのです。 草柳大蔵さんの書かれた『現代の名人』という本には、いろいろな分野で随一といわれる“職人”の話がたくさん出ています。 新しく開発された自動車をテストして、スタートから二、三秒もしないうちに、その音で欠陥をピタリと発見するという、日産自動車の田中清造さん。 ビールの発酵樽の麦汁にパイプで冷たい水を通して温度を調節する(オートメーションではどうしてもできない)という、ビールの生命をにぎる仕事を、経験とカンで完全にやってのける名人、サッポロビールの池田三三さん。 製鋼所の炉から出した一、二五〇度の白熱した鋼塊の温度を、温度計や光高温計よりも正確に肉眼で見分けることができるという、日本製鋼所の永沼孝さん。 そのほか、ガラスづくり・靴づくり・万年筆のペン造り・染め物・宝石カット・レンズづくりなど、三十人の名工の、頭の下がるような仕事ぶりが紹介されています。じつに法華経の薬草諭品の数えの実例集といった観があります。 右の田中さんと永沼さんは高等小学校卒、池田さんは水兵上がりです。こういうところに、今後の日本人の進むべき道にたいする大きな黙示があると思うのです。トコロテン方式の大学卒業生より、このような人たちこそが、充実した社会を築いていくのです。 (昭和53年04月【佼成】) 人はさまざまです。性格も、才能も、体力も、千差万別です。千差万別であるからこそ、その働きが総合されて社会というものが成り立っているのです。全部が全部サラリーマン向きの性格・才能・体力の持ち主だったとしたら、巧みな大工さんも、人を酔わせるような芸術家も、すぐれた政治家もいない、片輪の、おもしろくもなんともない、砂漠のような社会になってしまうでしょう。差別があることが、生き生きした、妙味のある社会をつくり上げているのです。さまざまな色の糸があってこそ、美しい絨毯が織り上げられるのと一緒です。差別があってこそ、平等があるのです。それなのに、どうして、みんなが一つの色になりたがるのでしょうか。 こういう基本的な真理は、親も、教師も、文教当局もわかっているはずなのに、どうしたわけか思い切って実行に移しません。一部の勇気のある人は、ご自分の子どもさんに断固その真理を適用しておられますけれども、おおかたは親の見栄やら、過保護的愛情やらで、なかなか踏み切れないでいるようです。しかし、いつまでもそれでは困ります。今、世の中は大きな転換期を迎えつつあります。教育もこれを機に、ほんらいの正常な姿に帰らなければ、日本の将来はまことに心もとないかぎりです。 (昭和52年04月【佼成】) 人間には天分というものがあります。持ち前というものがあります。その天分・持ち前を充分に遂行し、発揮すれば、世間的にはいかに小さな仕事のように見えても、宇宙的に見れば、じつにりっぱな仕事なのです。 ここのところを、たいていの人が逆に考えているようです。人間社会という、チッポケな世界を基準にして仕事の大小や価値の軽重を量るのが普通です。しかし、それは間違いであって、全宇宙という大きな世界から眺めて見なければならないのです。そうしますと、どんなに小さな仕事でも、魂のこもった、充実した、そして人のため社会のため、それなりに役立つものであれば、一つの天体にも匹敵するほどの大きさと重みをもつものなのです。それに対して、いかに世間的には大きな図体をもった仕事であっても、それが私利・私欲の影を宿した、そして、人間同士の醜い争いをはらんだようなものは、全宇宙的に見れば、まるでチリアクタに等しいのです。(中略) そこで、結論として私が言いたいのは、「全宇宙的な眼をもて! そして、どんなに小さな仕事にも心魂を打ち込め!」ということです。それを教えているのが仏教だ、ということです。 (昭和51年09月【躍進】)...
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