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庭野日鑛布教本部長 弘前教会新道場入仏・落慶式
【写真】
開祖 (19760528A) シュバイツア賞受賞式
【音声】
開祖 (19760528A) シュバイツア賞受賞式
1
...法話コード=開祖-1976-05-28-A 先生名=庭野日敬開祖 行事名=第1回ユニクェスト・シュバイツァ賞受賞式 日 時=1976(昭和51)年5月28日 録音分=18分 場 所=大聖堂 出席者= 掲 載=『』 見出等 ...
開祖 (19760528A) シュバイツア賞受賞式
2
...○司会 どうもありがとうございました。それではここできょう、ユニクェスト・シュバイツァー賞をお受けになりました会長先生から、ごあいさつをいただきたいと存じます。(一同 拍手) ○庭野会長 (一同 拍手)えー、(咳払い)本日は、えー、わたくしどもの教団のご命日、しかも八幡大菩薩さまのご命日のよき日に、えー、どういう関係か、えー、想像もされなかった、シュバイツァー賞の第1回の、この受賞の光栄に浴しまして、えー、どのように、この、表現してお礼を申し上げたらよろしいか、迷っておるような次第でございます。 (咳払い)え、しかし、いま、あー、このシュバイツァ賞に対しての、おー、お言葉を、おー、ラバン氏から伺いますると、えー、わたくしども佼成会員の活動が、えー、皆さま方の目に映って、えー、特に、このIRFの、おー、方々のお目にとまって、えー、そして世界中に佼成会の、お、菩薩道という、この姿勢が、ちょうどこの、うー、シュバイツァ博士の生涯の活動、それによく精神が似ておるという、えー、自ら聖なる生活を送って、そしてまた、えー、自らこの、おー、望んで他人のために奉仕をする、こういう心の姿勢でございます。これはまさに、えー、法華経の中の、「四無量心」というのがあります。慈悲、喜捨という言葉がございます。えー、方等経は慈悲が主なりといわれておりまするが、その慈悲、そして、え、他人に奉仕をすることを非常の喜びとする、この慈悲、喜捨、この四無量心の、おー、修行というものが、物語っておると思うのであります。え、そういう意味で、わたくしはこの受賞は、決してわたくしにもらったものでなくて、え、仏さまのみ教えを、自分が体験をしたことを人さまに伝え、そしてまた、その伝えられた信者の皆さまが、本当に仏さまのお説きになった理想のごとく行動をされる。そういうところが世界中の宗教者のお目にとまったということでありまして、これは決してわたくしの努力ではないのであります。会員皆さまの、菩薩道実践が、本日のこの光栄に浴したのであります。えー、よく、この、うー、人が組織をつくり、組織がまた人をつくるといわれます。えー、そういうことを考えますると、わたくしどものこの、あー、会員だけではなくて、この光栄に浴すことのできた、え、ひとつのきっかけというものを考えますると、例えば新宗連という連合体のできる、その産婆役をしてくだすったのは、新宗連、えー、この専務理事の大石秀典(おおいししゅうてん)先生が、これは日本中の新しい宗教を、宗教の目的というものは一つなので、説き方や多少の修行の方法違うけれども、それはやはり世界の平和、人類の福祉ということにあるんであろうと。...
開祖 (19760528A) シュバイツア賞受賞式
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...そこであなたとおなし考えの人があちらにもこちらにも、相当の教団の指導者である方がいらっしゃる。その方と一度会ってみないかということから、始まって新宗連の、おー、結成ができたわけであります。それはいまより25年前であります。で、そういう結成ができますると同時に、これまた国際的の問題というなかにわたくしをお導きいただきましたのは、え、IRFの、お、日本の代表でずーっと長いことご苦労願いました今岡信一良(いまおかしんいちろう)先生であります。で、先生に、新宗連ができたことによってお目にかかる機会があった。そしてこの世界宗教協力協議会というものをつくったことがございます。で、そういう関係から、えー、今度は、次の日米宗教者の会議というのを、えー、これはシュバイツァさんと違う、インドのガンジー翁が生誕100年ということを、お祝いを、そのお祝いを、お祝いをするのでなくて、えー、近代の聖者として、このガンジー翁ほど平和に徹した、非暴力で素晴らしい人はいない。え、こういう意味で100年祭を記念して、世界の宗教者が心を一つにした会議を持ちたいと。こういう問題を、うー、日本に持ってアメリカの方々がいらっしたのであります。で、そのだいたいおおかたの方が、えー、ユニテリアンの方、いわゆるその、お、IRFの方々であったわけであります。で、そういう関係を結んでいただきましたのは、これは今岡先生のお導きによるものでありまして、で、そういう意味から、世界の場所でわたくしのようの者を認めていただけたというのは、これは一(いつ)に今岡先生の、お、お導きのたまもの、ということに相なるのであります。 えー、そういう意味で、きょうはまた、この受賞式に、いー、くしくも、このIRFの、お、日本においての会議で、えー、世界中から70人もの、来賓の先生方がおいでになって、えー、いま、この向こうのロイヤルボックスにお座りを願っておるわけでございます。(一同 拍手) えー、今度の会議は、特にこの、おー、事務総長でありまするところの、え、ギヤアマン博士、そして、えー、このIRFの副会長のヒューリッタマン博士、えー、をはじめ、70名の方々が、えー、これはもう国際的に非常に活躍をなすってる方々が、こうしてずっといらっしてるわけであります。えー、わたくしにこの受賞のなかのいちばんの問題は、IRFに協力をしたということ、そしてWCRPの、この、おー、まあ日本の、おー、代表として、え、発起人の一人で、あの70年の第1回、えー、そしてルーベンの第2回、そういうWCRPの、この活動というようなことが、あー、ちゃんと示されてあります。...
開祖 (19760528A) シュバイツア賞受賞式
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...そうしますると、これは日本の宗教界の皆さま方が、えー、わたくしのような者を推して、あのWCRPの大会を成功裏に導いていただきました、日本中の宗教家の皆さま方のご後援のたまものでもあるわけであります。 (一同 拍手)で、そういう意味で、本日はわたくし自身の受賞ではなく、日本の宗教界の受賞であり、また新宗連の受賞であり、佼成会の受賞でもあると、わたくしはそのように考えておるものでございます。(一同 拍手) で、そういう意味で、この今日(こんにち)のこの、お、光栄をここにもたらしました皆さま方に対し、え、衷心より厚くおん礼を申し上げる次第でございます。ありがとうございます。(一同 拍手) (咳払い)なお、本日はこの、お、受賞に当たりまして、わざわざ、この、おー、スペンサー、ラバン博士、または婦人代表のホーワ女史、え、それに、えー、カルジュン先生、このお三方(さんかた)が、わざわざこの、おー、受賞、わたくしにこれをお授けくださるために、え、おでましをいただきましたのでございます。このお三方(さんかた)に衷心より感謝を申し上げたいと思います。(一同 拍手) (咳払い)えー、(咳払い)わたくしどもの会員の綱領でありまするが、これもやはり、えー、自己のこの完成ということを目指して、えー、仏教による働きをする、というのであります。そして、え、自分の人格の完成を目指して、自己の練成をとおして、家庭、そして社会、そして国家、世界の平和境を建設することを期す、このように佼成会の綱領は結んであるのでありまして、えー、この綱領を実現をできるということは、(咳払い)いちばんのその中の、え、しん、このバックボーンになるものはといいますると、これは三宝帰依ということになります。えー、仏さまに帰依する。そしてお説きになられた法門に帰依する。そして最後に、僧に帰依す、であります。この三宝に帰依するというこのことは、言葉にわたくしは昨年、えー、カナダにおきまして会合のありましたときに、IRFの会合で、「万教同根」ということを申し上げたんであります。これは、法華経の中には一仏乗といわれております。えー、いろいろの宗教がたくさんある。それはインドのガンジス河の砂の数ほどある。そういうたくさんの教えがあるけれども、決して二つないのである。真の宗教というものは一つである。教えの根本は一つであると。こういうことをお釈迦さまが教えておられるのでありまして、わたくしどもはよりどころとする経典が法華経であります。その法華経の精神、さらにまた、シュバイツァ博士の、この、おー、論文の中に、えー、この生命の畏敬という問題がございました。...
開祖 (19760528A) シュバイツア賞受賞式
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...これはまさに如来寿量品にありますところの、人間の生命の尊厳ということであります。神さま、仏さまに、われわれはいのちをいただいて、生かされているということであります。ま、これは永遠にわれわれの生命はあるので、今世だけのものでないのであって、そこで今世の結果だけを追求しないで、永遠の大生命に向かってわたくしどもが正しい信仰をずーっと続ける、こういうことの重大さをいっておるのであります。 で、そしてもう一つ、「不言実行」という言葉が書いてございました。えー、不言実行、これは普賢菩薩という菩薩さまが法華経の中にはございますが、普賢菩薩さまのところは、本当に法華経行者の実行すべき項目をきちっと並べてあるわけであります。で、そういう意味で、法華経のこうした、思わぬ功徳、本日のこのシュバイツァ賞の受賞などは、本当に望みもしない大功徳が、こうしていただけるわけであります。えー、法華経の中には、わたくしは功徳がいっぱいある、功徳じゅうであるっということをいうのであります。まさに本日もその功徳でございます。 えー、シュバイツァ博士のことに対しましては、本日おいでいただきました3人の、おー、お先生方から、特別、これはもう、おー、言葉たくさん、素晴らしい言葉でシュバイツァ博士を表現されておりますので、わたくしの申し上げる、うー、ことも、お、無駄だと思います。えー、そういう意味で、わたくしどもの菩薩道というものが、このように世界的に認められたということは、これは三世諸仏の説法の儀式といわれて、お釈迦さまがお説きになっておられますが、その法華経の功徳、帰依三宝の功徳、その何ものでもないと、わたくしは思っております。 えー、どうぞ、そういう意味で、わたくしどもにこのような栄誉を本日ここまで、えー、わざわざお持ちをいただきまして、えー、わたくしにお授けくださいました、この、お、ご三方(さんかた)に衷心より感謝を申し上げまして、わたくしの、おー、ごあいさつにしたいと思います。 ありがとうございます。(一同 拍手)どうも失礼致しました。 ○司会 どうもありがとうございました。...
庭野日鑛2代会長 事務庁舎執務室 執務中
【写真】
全国少年部練成 野球大会
【写真】
第1回アジア宗教者平和会議
【写真】
第1回アジア宗教者平和会議
【写真】
旧本部 本会発祥の地修養道場
【写真】
法華三部経の要点43
【機関紙誌】
生かされるままに生きる
法華三部経の要点43
生かされるままに生きる
1
...法華三部経の要点 ◇◇43 立正佼成会会長 庭野日敬 生かされるままに生きる 世界はバランスで成り立つ では、もう一度『三草二木の譬え』にもどって、ごく身近な問題について再考し、この品のしめくくりとしましょう。 「一雲の雨(ふ)らす所、其の種性に称(かの)うて生長することを得て、華果敷(ひら)け実なる。一地の所生・一雨の所潤なりと雖も、而も諸の草木各差別あるが如し」 前にも述べましたように、この世の万物万象はその姿・形は千差万別であるけれども、その本質においてはすべて宇宙の大生命ともいうべき久遠本仏の現れであります。その分身であり、それに生かされているのです。 この経文には植物を例にとって説いてあります。大きな木も小さな木も、同じ雨の恵みを受けて生長するのだけれども、その姿・形も、性質も千差万別である。亭々たる大木もあれば、小さい木でも香り高い花を咲かせるものもあり、小さい草でも美しい花をひらくのもあれば、地味な存在ながら貴重な成分を持つ薬草もある……というのです。 そうした千差万別の植物がバランスよく存在してこそ野山は美しく、健全に成り立っているのであって、もし地球上の植物が杉なら杉、ススキならススキ一色だったとしたら、想像するだけで恐ろしいことです。 植物の世界に限らず、この世の中のすべてがそのとおりなのです。 すべての仕事が大切 植物や、人間以外の動物は、自然のままに生きています。久遠本仏に生かされるままに生きています。そして、自然の摂理のままに死にます。ですから、人間のような貪欲によるところの悩みもなく、また大自然をそこなうこともありません。 ところが人間は、なまじ発達した頭脳を持つばかりに、自分のあり方に不満を覚えたり、ひとの存在を羨(うらや)み妬(ねた)んだり、それが高じては憎悪や怒りを生じ、自身が苦しみ悩むばかりか、他を苦しめたり害したりするのです。それがどんなに愚かなことか、ここでよくよく考えてみましょう。 人間の身体は小宇宙だといわれていますが、まさにそのとおりです。六十兆もの細胞が、それ自身のための働きをしながら、同時に他の細胞の働きを助けつつ、整々とバランスよく活動しています。 一例として、消化器の活動を見てみましょう。食べ物を食べると、胃は自然に動き出し、それをドロドロにして小腸に送り、そこで栄養分が吸収され、残りカスが大腸に送られる……これが目立った大筋ですね。 ところが、その前に十二指腸という短い管があって、そこで、ちょっとわき道にある膵臓(すいぞう)から出る膵液や胆のうから出る胆汁が加わって小腸へ送られるのです。その胆のうとか、膵臓とかいう目立たない存在がなければ、消化という働きは絶対に成立しないのです。 社会における人間一人一人のあり方もこれと同じです。大通りとか表通りといってもいい職業や地位にいる目立った存在もあれば、路地裏のような目立たない仕事で働く人もあります。しかし、――社会に害悪を流すような仕事はもちろん例外として――どんな職業・地位でも世の中の大切な歯車の一つにほかなりません。さきにあげた胆のうや膵臓のように、それがなくては社会の機能が完全に回転しないのです。 電車に乗った時のことを考えると、もっとわかりやすいかもしれません。私たちの目に止まるのは運転士さんや車掌さんだけです。ところが、電車がちゃんと動くには、送電に携わる人、線路に異常がないかを常に見守る人、あるいは電車が時刻通りに運行されるようにと管理する人など、私たちの目にふれないところで活躍されている方々が、大勢おられるのです。 毎日毎日を黙々として勤労されている方々に申し上げます。あなた方がいなければ社会は成り立っていかないのです。どうかそのことを自覚してください。それが久遠の仏さまに生かされるままに生きるための尊い自覚なのであります。 ...
法華三部経の要点44
【機関紙誌】
仏に近づく現実的な道は
法華三部経の要点44
仏に近づく現実的な道は
1
...法華三部経の要点 ◇◇44 立正佼成会会長 庭野日敬 仏に近づく現実的な道は 仏とは完全な自由人である 授記品に入ります。「法華経は授記経である」といわれているぐらい、この授記ということは法華経の大眼目であります。これは、お釈迦さまが弟子たちに対して「そなたはたしかに仏になりうる」という保証を与えられることです。ただし、それには、この品の摩訶迦葉への授記のお言葉に「(そなたは)未来世に於て当に三百万億の諸仏世尊を奉覲(ぶごん=尊いお方にお目にかかること)して、供養・恭敬・尊重・讃歎し、広く諸仏の無量の大法を宣(の)ぶることを得べし。最後身に於て仏になることを得ん」とあるように――こののち数えきれないほどの生まれ変わり(輪廻)をくりかえしながらこういう行いを続ければ――という難しい条件がつけられているのです。 すべての人間には仏性(仏となりうる素質)があるのですから、修行次第では最後身(人間として修行する最後の身で、生死輪廻の最終段階)において必ず仏となりうるわけです。 といっても、現在ふつうの人間としてセチガライこの世で生活しているあなたは「とても自分なんぞは……」と、まるで違う世界の夢物語のように思うでしょう。しかし、あながちそうではないのです。 右に述べられているような「仏」とは、輪廻を解脱し、究極の悟りを完成された方のことですが、それはまずさておいて、いわゆる「仏さま」とはどんな人かといえば、一口に言って「完全な自由人」と定義していいでしょう。 こだわりがなければ自由 人間の歴史は「自由の欲求」の歴史だといってもいいのです。原始時代からこのかた、飢えからの自由・自然の脅威からの自由・疾病からの自由等々を求めて生きてきました。さらに、だんだん文化が進むにつれて、貧困からの自由・圧制からの自由・言論の自由等々、人間社会に新しく生じてきた不条理や圧迫からの解放をも望んで工夫と努力を重ねてきたのです。 ところが、現象的な意味においては完全な自由はありえないのです。早い話が、どこへでも自由に楽々と行きたいとして発明された自動車でしたが、半面、それは排ガスによる大気汚染や騒音公害につながり、渋滞という現象に束縛されることが多々あるではありませんか。また、労働の苦から解放されようとして開発されたさまざまな生産機器や化学物質が、一方ではさまざまな環境破壊を引き起こして、われわれに新たな苦を強いているではありませんか。 それならば、完全な自由はどこにあるのでしょうか。それは心にあるのです。現象にとらわれれば束縛が付きものですが、心がそれにこだわらなければ、束縛はあっても無きに等しく、そこにこそ真の自由があるのです。身近な例を引けば、「人は歩道を歩け」というルールがありますが、その束縛をこだわりなく守っておれば安心して道を歩くことができます。そこに自由があるのです。もしかりに「天下の公道だ。どこでも歩く自由があるんだ」といって車道を歩いたとしたらどうなるか、言わずと知れたことでしょう。 お釈迦さまは「心の自由」を完全に達成したお方でした。本稿の第三十二回に紹介した盤珪禅師の言葉のように「お釈迦さまは心に一物も持っておられなんだによって、三界はわがものと、世の中の主になられたのじゃ。どこでも自由に寝起きされたのじゃ」といったお方だったのです。この「一物」とは「我(が)へのこだわり」にほかなりません。 ですから、「究極の悟り」という最高の目標は、きちんと持っているべきですが、この世において仏に近づく第一歩としては「応身仏」であるお釈迦さまを見習って「心のこだわりをなくすること」なのです。「我に執着しないこと」です。「道理に対して素直になること」です。 ...
法華三部経の要点45
【機関紙誌】
授記とは人生の方向づけである
法華三部経の要点45
授記とは人生の方向づけである
1
...法華三部経の要点 ◇◇45 立正佼成会会長 庭野日敬 授記とは人生の方向づけである 歴劫修行とはどんなことか 仏となることを保証される授記の条件の随一は歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)ということです。何百ぺん何千ぺんと生まれ変わりを繰り返しながら仏性を磨く修行をすることです。 仏教では、人間には生まれ変わりがあることを最初から認めています。『スッタニパータ』にもこうあります。 「(一五二)諸々の邪(よこし)まな見解にとらわれず、戒めをたもち、知見を具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることはないであろう」(中村元訳『ブッダの言葉』岩波文庫) これを裏返せば、そこまでいたっていない人は、再びある母胎に宿ってこの世に生まれ変わり、修行を続けねばならない――ということになります。 法華経に至っては、序品に、文殊菩薩が弥勒菩薩に向かって「今のわたしは過去世の妙光菩薩の生まれ変わりであり、そなたはわたしの弟子だった求名の生まれ変わりなのだ」と告げたのを皮切りに、最後の章の勧発品に「この人(法華経の実践者)は死んだのち忉利天(とうりてん)に生まれるであろう」といわれるくだりに至るまで、全巻――人間とはこの世限りのものではない――という真実に貫かれているのです。ですから、歴劫修行を抜きにしては法華経は文字通り骨抜きになってしまうのです。 進歩こそ本然のあり方 仏教では、この世での修行の総仕上げをして完全に解脱した(とらわれから離れた)人はただちに浄土(仏界)に赴き、反対に、行いも心も濁りきったままの人は直通で地獄に行くものとされています。そのどちらでもない普通の人は、中有の身としてしばらく時を過ごし、その間に、その人のそれまでの業(行為の蓄積)によって、六道もしくは仏界のうちのどこかに生まれ変わるとされています。 ですから、この「中有」にある間に、われわれが真心からなる追善供養として『経典』を読誦することが大事なこととなってくるのです。また、地獄、餓鬼、畜生などの悪趣に生まれ変わった場合はもちろん、第四十一回にも書きましたように、幸い天上界に赴かれた人も、まだ「仏」となられたわけではありませんから、われわれが読誦する経典の功徳をそういう方々へ回し向け、一刻も早く成仏されるよう念ずるわけです。 一方、現世に生きるわれわれもいつかは必ず死ななければなりません。しかし、さきほどから申し上げているように、われわれはけっしてこの世限りのものではありません。とすれば、死んだ後のことも考えておかねばなりません。はるかな未来世へと続く自分自身の生き方を心に決めておかねばなりません。 この世でも目先の本能や欲望の満足ばかりを追ってアクセクと人生を送り、死んでから幸いにもまた人間に生まれ変わったとしても、やはり同じような人生を送り、永遠にそれを繰り返すとしたら、何という無意義な生き方でしょうか。人間は「完全な自由」を目指して絶えず進歩していくことが本然のあり方なのですから、右のような生き方の人は天の摂理に反する最低の存在といわざるを得ません。 ですから法華経は、この世に生きているうちは完全な自由人である「仏」となることを目指し、そのような「人生」を重ねて「最後身」において究極の悟りを得た「仏」となることを目標として人生を送れ、と教えているのです。 「授記」というのは、そのような人生の軌道に乗ったと認められる弟子たちに、お釈迦さまが与えられた保証なのですが、後世の凡夫であるわれわれとしては「このような境地を目指すのがほんとうの生き方であるぞ」という、人生の方向づけにほかならないと知るべきです。 ...
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