眼目は仏になること
いろいろの宗教の状態を伺いますと、だんだん宗教を信じない人が多くなったというので、宗教が皆行き詰まりをきたしているというような向きもあるのですが、私どものこの会では、おかげさまで毎年何万世帯かがふえて、布教が伸びているのです。こういうことで、時代の要求にこたえ、仏さまの本願を私どものような者が広めさせて頂けるご功徳にあずかるということは大変なことなんです。
お経を読んでみますと、この法に会うことだけでも「百千万劫にも遭遇(あい)難い」ということで、その会い難いご法に会うことができ、そしてまた布教させて頂くところの、私どもにその使命があるということになりますと、これは何とすばらしいことでございましょう。日蓮聖人のご指南を頂きますと、非常にわかり易くて、私どもの身近に感じられるわけであります。身近に感じてこのご法を広めるという役が、いかに大事なことであるか――。ですから、お導きしなさいなんて言うと、佼成会の会員をふやすつもりなんだろうと思いたくなるが、そうでなくて、その仏の本願をそれだけ自分が実行させてもらう役があるんだということを、導きの親御さんは一生懸命手取りをして、励ましの言葉をもって導いているわけです。
それをうっかりしていると、何かどうも、教会長さんのために導くような気がしたり、佼成会のために導くような気がしたりして、自分のためよりも、そちらの方が多いのではなかろうかと思うのであります。ところがよくよく考えてみますと、人のためにご法を広めることによって初めて仏になれるのであるということ、他人のために説かなければ成仏できないのだと、この仏道修行に入ったということは、仏になるということが眼目なんだ、目的なんだ、その眼目に向かって我々が成仏する方法は何か――これは多くの人に仏の本願をお伝えして、そしてその人に認識して頂くという、この功徳を積むより外に自分の成仏する道はないのであります。ですから、自分が成仏するために、お導きをさせて頂くのであります。
このことがよくおわかりになりますと、仏道修行というものは非常に楽しいものになります。素直にそういう気持になりますと、いろいろのことが、あれもこうだなあ、これもこうだなあ、ここにも仏さまがちゃんとこのようにお手配下さっているんだなあと、感心するほど、もうもったいないほど、次から次へと仏さまがそこに生きて働いて、我々を導いていて下さることがわかるわけであります。