ご遺文に感激、そしてお会式
そういうことを思いますと、お題目を唱える日蓮聖人の弟子ならば、日蓮聖人のお会式というものをして、関東の人にわからせるためには太鼓をたたいて――お会式の行事のようなことで、多くの人に法華経の認識をしてもらうためには、この行進もいいじゃないかというので、初めて行なってから二十八年になっているということでございます。
ですから、佼成会のお会式もすぐ始まったのではなくて、中途でそのような、法華経以外は読んでいかんというご神示が出て、そしてその後、ご遺文だけは読んでもいいというお許しが出たわけです。読んでみると、感激して飛び上がって、日本人でありますから日蓮聖人をお手本にしたら、お釈迦さまのお説きになったのでは非常に遠いような感じがして、ところが日蓮さまですと全く直に、日本人としてすぐにわかる言葉でお示しになってあるのです。ですから感激いたしまして、こんなすばらしいお祖師さまが出て、そのあとのいろいろの形で分派が起こったりしているけれども、これは、日蓮さまのところに一つになるべきだという考えで、日蓮門下で私はべつに宗教団体をつくろうなんていう考えよりも、その方が完ペきだと思ったのでありました。しかし、まあそれができないで、今日になってしまったということでありました。
これは、よく考えてみると、どちらがよかったのか、これはまだわからず、後日歴史が決めることでございましょう。私どもが今ここでじたばた言ってもどうしようもないし、一緒になろうなんていうと、かえって問題がこじれる可能性をもっておるのであります。
幸いに、そういう意味からしますと、法華経というお経は、お釈迦さま出世本懐の義だといいますが、このお経の中にはあらゆる問題を方便という言葉で、万億の方便をもって人間のとらわれから解放してやるという文があるわけであります。我々には、こういうものだ、ああいうものだというとらわれがあります。実相に向かって、諸法の実相に向かって、とらわれなく、すべてのものから解放されなければならんのであります。悟りを開いたというのは、そういうことになるのであります。ですから、長い伝統があると、なかなか伝統のこだわりがあったり、いろいろして離れにくいのです。