ここまで行くというと、もう「一切衆生を救うの心を発せるなり」。最後の四番目はもう、あの人もこの人も世界じゅうの人をみんな救わなければ世界平和は来ないんだと。こういうことを最初に言ったって、とてもこれは聞こえませんてことになるね。自分が救われればいいんだから、人のことなんて考えてやる余裕がない。ところが諸仏に守られて、そして徳本を積ませていただいて、仲間に入ってやってみると、体験を積めば積むほど自信が出てくる。また、やらずにいられないという気持ちが出てくる。そこで「一切衆生を救うの心を発せるなり」と。この四法成就という経文をこう読んでみると、全くそれは佼成会そのままなんですね。
ですから佼成会というのは、ほかのことがまざりっけがないわけです。経文にある、法華経にあるお経のごとく、皆さんが実行をしていなさる。実行をしていなさるから、非常に功徳がよくあらわれる。法華経というのは本当にもう功徳自由なんですね。どこを読んでも功徳があります。法華の七つのたとえというんです。そのたとえを見ても、やっぱり三車火宅のたとえにしましても、信解品の長者窮子のたとえにしましても、薬草諭品のたとえにしても、化城諭品のたとえにしても、もう本当にたとえにはみんな功徳があらわれているわけです。
その功徳がどうしてあらわれるかというと、仏と凡夫との関係がそこに必ず親子の関係として説かれている。そして親が子供に何とか目覚めてもらいたいという願いが、とうとうおしまいに、なかなか親子だと思ってくれないのが親子だという気持ちになったときに、求めない功徳を──「無碍の宝珠を求めざるにおのずから得たり」と。無上の宝珠が求めないのに授かると、こういうふうに書いてあります。
ですからこれは全くあの佐々木さんの説法、あの説法の内容がまさにその無碍の宝珠を求めざるにいただいているわけなんです。今日のような、人さまの手どりをして、教会長さまか、神さまか、なんて言われるようになろうなんて思ってやったんじゃないんで、病気を治してもらおうと思って入ったんです。ところが病気を治してもらって、すべての人を救わなくちゃならないというところまで四法成就をいくというと、もう今日では本当に仏さまとちっとも変わらないように皆さんにありがたがられて、毎日の自分の生活というものに生きがいを感じて、そして自分の使命の重大さを──「あんたは信じなさんな。仏さまなんか信じない方がいい」と言われたって、ああいうふうになっちゃうともう、あれは全然疑う余地がなくなってくるわけですね。これは現実に自分で踏み行って道を歩いてみると、仏道というものはあまりにも明白なものだから、疑うといっても疑うことができないわけです。