Founder’s Dharma Guidance Text, “Gudo,” 1976 Ullambana Ceremony
皆さま、本日は盂蘭盆会を迎えさせていただきましてまことにおめでとう存じます。私どもは大変幸せな境涯をいただいて盂蘭盆会をいただいておりますが、伊豆半島では大変な災害をこうむって、それも一年でなくて三年も続けてのことだという報道を伺いますと、自分の置かれているこのありがたさ──これはどこへ行くかわからないことでありますが、災難というようなものは忘れたころにまたあらわれるといわれます。そういう方々もいらっしゃるので、そういう方々のことを考えますと何か申しわけないような気もいたしますが、私どもはお互いさまにこうして、どんな問題が起きても、それをちゃんと正しく受けとめることができて、そして何か事のあるたびごとに深く信心というもののありがたさをかみしめられるということは、信仰に入って精進をしてみた経験のある人でなければわからないわけでございます。
皆さま、本日は盂蘭盆会を迎えさせていただきましてまことにおめでとう存じます。私どもは大変幸せな境涯をいただいて盂蘭盆会をいただいておりますが、伊豆半島では大変な災害をこうむって、それも一年でなくて三年も続けてのことだという報道を伺いますと、自分の置かれているこのありがたさ──これはどこへ行くかわからないことでありますが、災難というようなものは忘れたころにまたあらわれるといわれます。そういう方々もいらっしゃるので、そういう方々のことを考えますと何か申しわけないような気もいたしますが、私どもはお互いさまにこうして、どんな問題が起きても、それをちゃんと正しく受けとめることができて、そして何か事のあるたびごとに深く信心というもののありがたさをかみしめられるということは、信仰に入って精進をしてみた経験のある人でなければわからないわけでございます。
欲が人間を苦しめる
先ほど佐々木さんが体験をお話しになりましたが、昭和二十三年ごろですと大体結核という判定を下されると、もう命がなくなるのじゃないかと、いまちょうどがんの宣告を受けたと同じような気持ちがするような時代であったわけであります。いま佐々木さんを拝見しますと、あの人がそんな結核なんかあったのかと、何かうそをついているような、そらごとのような気がしますけれども、現実は、そういう方でなければ昭和二十年、二十二、三年頃の食うに困るというようなときには、なかなか熱心に信仰ができなかった時代なんですね。
いまでも佐々木さんは非常に若いけれども、二十八年も前のことですから、当時は本当にお若い。普通で言うならば、それはもう何物にもかえられないような人生の若々しさ、楽しみの時代でございます。それが一遍に結核であるという診断を下されたときに、もう地獄へ突き落とされたような感じがしたと思うのであります。そういう方があのようにちゃんと厳然と治って、今日しかもその業病に取りつかれたことが信心を起こす因縁をつくっていただいたということで、「禍いを転じて福となす」ということわざがありますが、まざまざと佐々木さんはそれを体験したわけであります。
本日はそういう意味から言いますと、目連尊者のお母さんの欲張り──人間はみんな欲張りなんです。いま世界のことはどういうふうになっているかというと苦の娑婆だと。どこの国でも、先進国は先進国なりに、また開発途上国は開発途上国なりに、大変暮らしにくい、大変厄介な末法だといわれるような感じがお互いさまにしているわけであります。スポーツなんていうものは最も紳士的な取り扱いで、何もこだわりなどはないように思うのであります。それがあのモントリオールでやるところのオリンピックに出場する権利の獲得ということでも、台湾が入れるとか入れないとかというようなことで、いろいろの問題がそこに納得をしかねるような複雑な問題になっておるわけであります。
そういうことを思い起こしますと、何でもないようでありますが、いろいろの苦しみのもとは何かというと、欲だそうでございます。仏さまは「諸苦の所因は貪欲これもとなり」と。貪欲──この盂蘭盆会のできた因縁は、人間の貪欲というものを悟れということをおっしゃったと、こう言っても言い過ぎではないと思います。欲が人間を苦しめる
先ほど佐々木さんが体験をお話しになりましたが、昭和二十三年ごろですと大体結核という判定を下されると、もう命がなくなるのじゃないかと、いまちょうどがんの宣告を受けたと同じような気持ちがするような時代であったわけであります。いま佐々木さんを拝見しますと、あの人がそんな結核なんかあったのかと、何かうそをついているような、そらごとのような気がしますけれども、現実は、そういう方でなければ昭和二十年、二十二、三年頃の食うに困るというようなときには、なかなか熱心に信仰ができなかった時代なんですね。
いまでも佐々木さんは非常に若いけれども、二十八年も前のことですから、当時は本当にお若い。普通で言うならば、それはもう何物にもかえられないような人生の若々しさ、楽しみの時代でございます。それが一遍に結核であるという診断を下されたときに、もう地獄へ突き落とされたような感じがしたと思うのであります。そういう方があのようにちゃんと厳然と治って、今日しかもその業病に取りつかれたことが信心を起こす因縁をつくっていただいたということで、「禍いを転じて福となす」ということわざがありますが、まざまざと佐々木さんはそれを体験したわけであります。
本日はそういう意味から言いますと、目連尊者のお母さんの欲張り──人間はみんな欲張りなんです。いま世界のことはどういうふうになっているかというと苦の娑婆だと。どこの国でも、先進国は先進国なりに、また開発途上国は開発途上国なりに、大変暮らしにくい、大変厄介な末法だといわれるような感じがお互いさまにしているわけであります。スポーツなんていうものは最も紳士的な取り扱いで、何もこだわりなどはないように思うのであります。それがあのモントリオールでやるところのオリンピックに出場する権利の獲得ということでも、台湾が入れるとか入れないとかというようなことで、いろいろの問題がそこに納得をしかねるような複雑な問題になっておるわけであります。
そういうことを思い起こしますと、何でもないようでありますが、いろいろの苦しみのもとは何かというと、欲だそうでございます。仏さまは「諸苦の所因は貪欲これもとなり」と。貪欲──この盂蘭盆会のできた因縁は、人間の貪欲というものを悟れということをおっしゃったと、こう言っても言い過ぎではないと思います。それは目連尊者のお母さんが、自分の子がかわいくて、その子にりっぱな勉強をさせて、そして偉い人にしようというお母さんですから、きわめてこれはもうあたりまえのお母さんなんですね。ところが欲張りであったと。非常にわが子、わが子と、あまりにも自分のことだけを真剣に、すべての生活がそこへ集中してしまっておった。あのように仏弟子になるところの目連尊者、しかも神通第一という、十番弟子の中でも舎利弗か目連かというような最もすぐれたお弟子さんの一人で、神通力を持っていなさるからあの世の状態がごらんになってわかる。そして神通力でもってごらんになってみると、お母さんが地獄の一劫で苦しんでいるというのが見えたというのです。ですからまことに皮肉な話なんです。
どうして仏教にこのような目連尊者のお母さんのことがですね、十大弟子の一人、十大弟子でも一番か二番かというような、最も十人のうちでもエリート的な存在であったその人がこうしてお母さんの罪障をですね、みんな仏教徒が知っておるように──これは二千五百年ですからどのくらいの数の人がこのことを聞いたかわからないと思うのでありますが、そういうようにどうも偉い人の罪障を掘り出して、そして何とかかんとか言っておるのは、まことにどうもある意味では思わしくないような感じもいたしますけれども、それほどに人間の欲というものが禍いを起こすということなのであります。
いまのロッキード問題、こういう問題ももうお聞きになっておわかりのように、欲というものが禍いしてあのような問題が起きている。ですからお金をもらった人はさだめし毎日がひやひやですね、目連尊者のお母さんとおんなじ地獄の一劫で苦しんでおると思うのであります。そのうちに何か偉い人まで司直の手が伸びるようなことを言っておりますが、われわれのように一銭ももらってない人はきわめておもしろい話のように聞いておられますけれども、これはご当人にしたら大変なことだと思うんです。それは目連尊者のお母さんが、自分の子がかわいくて、その子にりっぱな勉強をさせて、そして偉い人にしようというお母さんですから、きわめてこれはもうあたりまえのお母さんなんですね。ところが欲張りであったと。非常にわが子、わが子と、あまりにも自分のことだけを真剣に、すべての生活がそこへ集中してしまっておった。あのように仏弟子になるところの目連尊者、しかも神通第一という、十番弟子の中でも舎利弗か目連かというような最もすぐれたお弟子さんの一人で、神通力を持っていなさるからあの世の状態がごらんになってわかる。そして神通力でもってごらんになってみると、お母さんが地獄の一劫で苦しんでいるというのが見えたというのです。ですからまことに皮肉な話なんです。
どうして仏教にこのような目連尊者のお母さんのことがですね、十大弟子の一人、十大弟子でも一番か二番かというような、最も十人のうちでもエリート的な存在であったその人がこうしてお母さんの罪障をですね、みんな仏教徒が知っておるように──これは二千五百年ですからどのくらいの数の人がこのことを聞いたかわからないと思うのでありますが、そういうようにどうも偉い人の罪障を掘り出して、そして何とかかんとか言っておるのは、まことにどうもある意味では思わしくないような感じもいたしますけれども、それほどに人間の欲というものが禍いを起こすということなのであります。
いまのロッキード問題、こういう問題ももうお聞きになっておわかりのように、欲というものが禍いしてあのような問題が起きている。ですからお金をもらった人はさだめし毎日がひやひやですね、目連尊者のお母さんとおんなじ地獄の一劫で苦しんでおると思うのであります。そのうちに何か偉い人まで司直の手が伸びるようなことを言っておりますが、われわれのように一銭ももらってない人はきわめておもしろい話のように聞いておられますけれども、これはご当人にしたら大変なことだと思うんです。そういうことを本当に思い起こして、世の中をごまかして、よそからもらって大変都合がいいというようなことでわがままをしちゃならん、横着な考えを起こしちゃいかんと、そういうことを仏さまはちゃんと教えようというので、十番弟子の人がこういうふうに話題に上っているわけです。ちょうど佐々木さんが自分の罪障を掘り出して、そして教会長さまなんていうと、教会長さまか、神さまか、というほど大変に権威を持っていらっしゃる。ところがその人もやっぱり人の子なんだと。そして業が深いからこそよけいに信心をしなければ救われなかったと、こういうことを皆さんの前ではっきりと懺悔をする。こういうふうにあっさりと懺悔のできるということは、きょうのこの盂蘭盆会の縁起と同じように、そういう縁によって、懺悔をすれば罪は消えるということを仏さまが言われております。地獄の一劫で苦しんでおられる目連尊者のお母さんを救うのにはどういう方法をしたらいいかというと、目連尊者自体が、自分が仏にならなければ先祖が成仏できないと、こういうことをまたこれは言われているわけであります。
私どもがご先祖さまに鐘をたたいて、木鉦をたたいて、毎日線香を立てたりローソクを立てたりして──夏になりますと、よほど気をつけませんとお花もお水を始終かえないと臭くなります。これを気をつけてご宝前をいつでも新しい花で清らかに飾って、そして線香ローソクをともして、真心を込めてご供養をする。このこともせんじ詰めればご先祖さまの成仏です。ご先祖さまの成仏ということには、こちらの方が仏にならなくちゃいかんわけなんです。こっちの方が迷っておって、そしていろいろのことを言っても、向こうの方はなかなか片がつかんわけです。そういうことを本当に思い起こして、世の中をごまかして、よそからもらって大変都合がいいというようなことでわがままをしちゃならん、横着な考えを起こしちゃいかんと、そういうことを仏さまはちゃんと教えようというので、十番弟子の人がこういうふうに話題に上っているわけです。ちょうど佐々木さんが自分の罪障を掘り出して、そして教会長さまなんていうと、教会長さまか、神さまか、というほど大変に権威を持っていらっしゃる。ところがその人もやっぱり人の子なんだと。そして業が深いからこそよけいに信心をしなければ救われなかったと、こういうことを皆さんの前ではっきりと懺悔をする。こういうふうにあっさりと懺悔のできるということは、きょうのこの盂蘭盆会の縁起と同じように、そういう縁によって、懺悔をすれば罪は消えるということを仏さまが言われております。地獄の一劫で苦しんでおられる目連尊者のお母さんを救うのにはどういう方法をしたらいいかというと、目連尊者自体が、自分が仏にならなければ先祖が成仏できないと、こういうことをまたこれは言われているわけであります。
私どもがご先祖さまに鐘をたたいて、木鉦をたたいて、毎日線香を立てたりローソクを立てたりして──夏になりますと、よほど気をつけませんとお花もお水を始終かえないと臭くなります。これを気をつけてご宝前をいつでも新しい花で清らかに飾って、そして線香ローソクをともして、真心を込めてご供養をする。このこともせんじ詰めればご先祖さまの成仏です。ご先祖さまの成仏ということには、こちらの方が仏にならなくちゃいかんわけなんです。こっちの方が迷っておって、そしていろいろのことを言っても、向こうの方はなかなか片がつかんわけです。仏に成る道
──開三顕一の菩薩道そこで佼成会の言っている菩薩道ということ──法華経の教義の言葉で言いますと「開三顕一の法門なり」なんていうと、わかったようなわからないようなことになってしまうんです。開三──たとえて言うならば腹を三つに切って開いて、それでそれが一つなんだということで、またこうふさいだようなものです。
自分の腹の中にあるその問題、最初は生老病死。これはもうだれもけんかにはならんですよね、自分が生まれてしまったから。だんだん年寄りになる。病気をすることもある。一番最後には一遍死ななくちゃならない。それでこの声聞、仏さまの声を聞いて修行に入らせてもらったということは、皆さん声聞の部類だと思うんです。導きの親ごさんのやかましい声を聞いて、仏教の声を聞いて、そしてお誘いを受けたわけです。「あんたも一遍は死ぬんだ」なんていうことを言ったらもうみんななかなか入りゃしない、始まりはね。もう死ぬなんてことはおくびにも言わずに、「幸せになる。金持ちになる。何もかにも解決がつきます」なんてうまいことを言っては、みんな一生懸命で導いているわけです。そう言わないとなかなか入って来ないほど業障なんですね。それもやっぱりおいといなく──いまは暑うございますが寒中は寒うございます。暑さ寒さももう全然そんなことはおいといなく、皆さんが一生懸命に仏さまの声を伝えて歩くわけです。それで仏さまの声を聞いて声聞となって、何とか解決がつくものかということで入って来るわけであります。
そこから入ってまいりますと、今度はだんだん精進していくうちに、いろいろのことは言われなくとも縁起というものがわかります。縁起。縁によって起こるのであると。自分はただ生まれたんじゃない、自分が生まれるのには生まれるようなわけがあった。そしてまた生まれて来るのには、人間にはそれだけの使命があったと、そういうことがわかるようになっていく、このことを縁覚、独覚とも言います。自分は何のために生まれて来たか。人間として生まれて来たということには、それ相当の意義があるはずであります。そういうことは全然考えないで、自分のことばっかり考えておったんですね。仏に成る道
──開三顕一の菩薩道そこで佼成会の言っている菩薩道ということ──法華経の教義の言葉で言いますと「開三顕一の法門なり」なんていうと、わかったようなわからないようなことになってしまうんです。開三──たとえて言うならば腹を三つに切って開いて、それでそれが一つなんだということで、またこうふさいだようなものです。
自分の腹の中にあるその問題、最初は生老病死。これはもうだれもけんかにはならんですよね、自分が生まれてしまったから。だんだん年寄りになる。病気をすることもある。一番最後には一遍死ななくちゃならない。それでこの声聞、仏さまの声を聞いて修行に入らせてもらったということは、皆さん声聞の部類だと思うんです。導きの親ごさんのやかましい声を聞いて、仏教の声を聞いて、そしてお誘いを受けたわけです。「あんたも一遍は死ぬんだ」なんていうことを言ったらもうみんななかなか入りゃしない、始まりはね。もう死ぬなんてことはおくびにも言わずに、「幸せになる。金持ちになる。何もかにも解決がつきます」なんてうまいことを言っては、みんな一生懸命で導いているわけです。そう言わないとなかなか入って来ないほど業障なんですね。それもやっぱりおいといなく──いまは暑うございますが寒中は寒うございます。暑さ寒さももう全然そんなことはおいといなく、皆さんが一生懸命に仏さまの声を伝えて歩くわけです。それで仏さまの声を聞いて声聞となって、何とか解決がつくものかということで入って来るわけであります。
そこから入ってまいりますと、今度はだんだん精進していくうちに、いろいろのことは言われなくとも縁起というものがわかります。縁起。縁によって起こるのであると。自分はただ生まれたんじゃない、自分が生まれるのには生まれるようなわけがあった。そしてまた生まれて来るのには、人間にはそれだけの使命があったと、そういうことがわかるようになっていく、このことを縁覚、独覚とも言います。自分は何のために生まれて来たか。人間として生まれて来たということには、それ相当の意義があるはずであります。そういうことは全然考えないで、自分のことばっかり考えておったんですね。ところが皆さんからしてお導きを受けて、そして人生というもののこの生老病死、この変化、諸行無常のこのことわりから、ずっとよってもって来る自分の前にあらわれるすべての万法に対するそれが、きわめて大自然の中にそういう恩恵を受けたり、いろいろな裁きを受けたり、いろいろのことがあるわけです。そういうことがみな縁によって起こっておるのであると。縁起の法則によってあらわれてきているのであると。ここまで悟ると縁覚になりますね。
さて、そこまで参りまして、きれいな気持ちになろうという修行を一生懸命でしている。これはきれいになろうとしているんですけれども、自分がきれいになろうとするだけではなかなか本物にならない。そこで仏さまは菩薩道というものを今度は想定したわけであります。因縁がわかる、生老病死のことわりがわかる、諸行無常、諸法無我の論理がわかる。そうすると今度は、どうしても菩薩道という道を自分が歩まなければ──自分も人も救われるという、そういう状態をつくらなければ世の中が幸せにならない。ここまで来ると、みんな一緒に地球というこの乗り物にちゃんと乗っている。一つの乗り物に一緒に乗っているんですから、これは生命共同体なんですね。ですからみんながもう救われた状態、みんなが幸せの境涯、そういうふうになるためにはどういうことをしなければならないか。こういう考え方に立ったのが菩薩なんです。仏さまが世に出現されたのは、その三つの菩薩道というものの終局のそういう考え方にみんななってもらいたいから、そのために世の中に出たのであると、こういうふうにお釈迦さまはおっしゃっておるわけであります。ですから三つの法門のような気持ちでおるのが、それは三つでなくて一つであると。顕一──一つをあらわすために三つの法を説いたんだと、こう言っておるわけです。
その法門のとおりのことを佼成会では皆さんが、教会長さんを中心に、支部長さん、主任さん、そして皆さんが手どりをおやりになる。この手どりをする活動というのが、これが仏道修行、菩薩道でございます。この修行をしないと、この因縁果報というものがわからないんですね。どうなることやらわからんものですから、勝手なことを考えたり、何か失敗があるともう驚いてしまったり、それからもう災難が来もしないのに、いつ災難が来るかというのでくよくよ考えたり、いろいろしてしまう。ところがこの因果の道理というものがわかるというと、もう本当に大安心をして悠々としていられるということであります。その悟りを開かせるために仏さまが世に出られて、そして皆さんにどういう心構えで、どういう順序次第によって自分というものを整えるかということをお説きになったわけであります。ところが皆さんからしてお導きを受けて、そして人生というもののこの生老病死、この変化、諸行無常のこのことわりから、ずっとよってもって来る自分の前にあらわれるすべての万法に対するそれが、きわめて大自然の中にそういう恩恵を受けたり、いろいろな裁きを受けたり、いろいろのことがあるわけです。そういうことがみな縁によって起こっておるのであると。縁起の法則によってあらわれてきているのであると。ここまで悟ると縁覚になりますね。
さて、そこまで参りまして、きれいな気持ちになろうという修行を一生懸命でしている。これはきれいになろうとしているんですけれども、自分がきれいになろうとするだけではなかなか本物にならない。そこで仏さまは菩薩道というものを今度は想定したわけであります。因縁がわかる、生老病死のことわりがわかる、諸行無常、諸法無我の論理がわかる。そうすると今度は、どうしても菩薩道という道を自分が歩まなければ──自分も人も救われるという、そういう状態をつくらなければ世の中が幸せにならない。ここまで来ると、みんな一緒に地球というこの乗り物にちゃんと乗っている。一つの乗り物に一緒に乗っているんですから、これは生命共同体なんですね。ですからみんながもう救われた状態、みんなが幸せの境涯、そういうふうになるためにはどういうことをしなければならないか。こういう考え方に立ったのが菩薩なんです。仏さまが世に出現されたのは、その三つの菩薩道というものの終局のそういう考え方にみんななってもらいたいから、そのために世の中に出たのであると、こういうふうにお釈迦さまはおっしゃっておるわけであります。ですから三つの法門のような気持ちでおるのが、それは三つでなくて一つであると。顕一──一つをあらわすために三つの法を説いたんだと、こう言っておるわけです。
その法門のとおりのことを佼成会では皆さんが、教会長さんを中心に、支部長さん、主任さん、そして皆さんが手どりをおやりになる。この手どりをする活動というのが、これが仏道修行、菩薩道でございます。この修行をしないと、この因縁果報というものがわからないんですね。どうなることやらわからんものですから、勝手なことを考えたり、何か失敗があるともう驚いてしまったり、それからもう災難が来もしないのに、いつ災難が来るかというのでくよくよ考えたり、いろいろしてしまう。ところがこの因果の道理というものがわかるというと、もう本当に大安心をして悠々としていられるということであります。その悟りを開かせるために仏さまが世に出られて、そして皆さんにどういう心構えで、どういう順序次第によって自分というものを整えるかということをお説きになったわけであります。そういう意味ではきょうのこの盂蘭盆会というのは、われわれには最も縁が深い。われわれ凡夫のすべての苦しみのもとである貪欲というものを浮き彫りに出した一つの方便力として、出したたとえです。これが盂蘭盆会になっておるわけです。ですからいかに欲というものが人間を苦しめているか。その欲を捨てなければ救われないということを教えるために、目連尊者のお母さんが該当したわけであります。ですから非常に目連尊者のお母さんには申しわけないわけです。申しわけありませんけれども、またそのみんなをそういうことでお導きをする一つの題材としてもらったおかげで、目連尊者のお母さんも成仏ができたと、こういうことになるわけであります。
そういう意味ではきょうのこの盂蘭盆会というのは、われわれには最も縁が深い。われわれ凡夫のすべての苦しみのもとである貪欲というものを浮き彫りに出した一つの方便力として、出したたとえです。これが盂蘭盆会になっておるわけです。ですからいかに欲というものが人間を苦しめているか。その欲を捨てなければ救われないということを教えるために、目連尊者のお母さんが該当したわけであります。ですから非常に目連尊者のお母さんには申しわけないわけです。申しわけありませんけれども、またそのみんなをそういうことでお導きをする一つの題材としてもらったおかげで、目連尊者のお母さんも成仏ができたと、こういうことになるわけであります。
四法成就
われわれはちっとも変わったような気がしない。始まりからおんなじような気もちでいるんですね。ところが外から見ているとだいぶ変わったと、こう言うんですね。で、どんなふうに変わったかと聞くと、何の心配もなさそうな顔をしてると言います。おれはそんなあほうのような顔をしているかなと、こう思っていろいろ外から見た人に聞いてみるんです。そうするとやっぱり佼成会の人というのは佼成型というのがありましてね、外から見ているとみんな同じように見えるらしゅうございます。
ですからたとえばあの明るい社会づくり運動なんていうのを始めた当時には、佼成会が布教をしやすいようにするために、よその宗教までみんな集めてあんなことをやるというので、大変皆さんが疑っておられたんです。ところが七、八年やっても一貫してですね、施しをするのは大体佼成会が主ですね、ほかの方は従なんです。ですから幾らかは出してくれる人もあるけれども、ほとんどが佼成会で出費をして、そして佼成会の人が一番手間をつぶして、そしてまあ骨を折ることは一番骨を折る。それでいよいよ明るい社会づくり運動の大会の日になると、もう町の長という人は盲腸に脱腸にみんな長を引っ張って来て(笑い)、そしてもう長のつかない者はだれもどうも出席する権利がないというようなことで、いよいよ明るい社会づくり推進大会ということになると、どこかの会場を借りるのに会場費も払わせてもらう。聞きに行ってるのは脱腸に盲腸にみんな……(笑い)、町長に校長に、みんなそういう人ばかり来ているわけです。そういうことを喜んでやっておる。これがずっと一貫して何年でも続いておると、やっぱりよその人が見ると後光がさしておるらしいね。それはもう黄金のような香りがしているらしい。そういうふうなことが、この仏道修行の功徳なんですね。
だからちょっと考えると損なんだな。人間的な欲望を根底に置いて物を考えれば大損なんだ。いまはみんなこの世の中が、利口だ、利口だと思って頭を使ってうまいことをやろうとしているものだから、みんな不都合になっているわけだ。ですから今日のような時代には、だれかが大ばかにならなければうまくいかないわけなんです。そしてもう損得を言わないというのは、これは普通の人が見たら大ばかなんですけれども、大ばかこそ本当の大利口になるわけなんです。そういうことを一番端的に教えたのが、このお盆なんだと言ってもいいと思うのです。四法成就
われわれはちっとも変わったような気がしない。始まりからおんなじような気もちでいるんですね。ところが外から見ているとだいぶ変わったと、こう言うんですね。で、どんなふうに変わったかと聞くと、何の心配もなさそうな顔をしてると言います。おれはそんなあほうのような顔をしているかなと、こう思っていろいろ外から見た人に聞いてみるんです。そうするとやっぱり佼成会の人というのは佼成型というのがありましてね、外から見ているとみんな同じように見えるらしゅうございます。
ですからたとえばあの明るい社会づくり運動なんていうのを始めた当時には、佼成会が布教をしやすいようにするために、よその宗教までみんな集めてあんなことをやるというので、大変皆さんが疑っておられたんです。ところが七、八年やっても一貫してですね、施しをするのは大体佼成会が主ですね、ほかの方は従なんです。ですから幾らかは出してくれる人もあるけれども、ほとんどが佼成会で出費をして、そして佼成会の人が一番手間をつぶして、そしてまあ骨を折ることは一番骨を折る。それでいよいよ明るい社会づくり運動の大会の日になると、もう町の長という人は盲腸に脱腸にみんな長を引っ張って来て(笑い)、そしてもう長のつかない者はだれもどうも出席する権利がないというようなことで、いよいよ明るい社会づくり推進大会ということになると、どこかの会場を借りるのに会場費も払わせてもらう。聞きに行ってるのは脱腸に盲腸にみんな……(笑い)、町長に校長に、みんなそういう人ばかり来ているわけです。そういうことを喜んでやっておる。これがずっと一貫して何年でも続いておると、やっぱりよその人が見ると後光がさしておるらしいね。それはもう黄金のような香りがしているらしい。そういうふうなことが、この仏道修行の功徳なんですね。
だからちょっと考えると損なんだな。人間的な欲望を根底に置いて物を考えれば大損なんだ。いまはみんなこの世の中が、利口だ、利口だと思って頭を使ってうまいことをやろうとしているものだから、みんな不都合になっているわけだ。ですから今日のような時代には、だれかが大ばかにならなければうまくいかないわけなんです。そしてもう損得を言わないというのは、これは普通の人が見たら大ばかなんですけれども、大ばかこそ本当の大利口になるわけなんです。そういうことを一番端的に教えたのが、このお盆なんだと言ってもいいと思うのです。ですからあの盂蘭盆会の物語を聞いて、大変におもしろく聞く者と、神通力であの世が見えるなんていうどうも目連尊者は偉いものだという、そういうこともありますけれども、そういうことはこれはお経を見ますると、あの六難九易の法門のところを読ませてもらうと、そういう神通力なんていうものはそんなのはだれでもできる。ところが、ただ一人の人のためにでもご法を説くことはなかなかむずかしいと、こうお経に説いてあります。
ですから皆さんがお導きをして、喜んで佼成会の活動に参加ができて、そして喜んでいられるような人を一人つくるということは、これはお釈迦さまが「なかなか大変だ」とおっしゃっているんだから、皆さんのようにたくさんの人をお導きした人は、それはもう仏さまの方からごらんになったら「善哉、善哉」と、もうおほめになっているにきまっている。仏さまの方からおほめくださるから、皆さんは幸せになっている。幸せになっていなさるから、よその人が見ると「佼成会の人は型があって、普通の人と違うようだ」と、こう言われる一つのゆえんだと思うんです。
自慢話のようなことになってしまいましたけれども、皆さんがいつもお読みになっているお経で、最後の普賢菩薩の四法成就というのがありますね。あれを読むというと、これは一番大事なことを例に、二十八番でおしまいですから結びの言葉として、普賢菩薩さまがあそこに唱えているんです。その第一番目に、「一には諸仏に護念せらるることを得」と。仏さまが「善哉、善哉」と守護してくださるんでなけりゃ、功徳は出て来ないんですよ。第一番に「諸仏に護念せらるることを得」と。「二にはもろもろの徳本を植える」と。人さまのために施しをする。だから施しをしなきゃだめなんです。体で施し、物で施す。心で施す。それは施しをするんです。その二にはもろもろの善根功徳を積むんです。
「三には正定聚に入る」。これはどうしても入会しなきゃだめなんです。どこかの教団に入らなきゃだめなんです。一人では怠けてしまうんですよ。教団に入ったから導きの親ごさんが責任をもってお手どりをしてくださる。怠けてちょっといやになったなあと思うと、迎えに来られる。うるさいなあと思いながらも、いろいろ言われるうちに当たる節がある。これは信仰に入らなければ、そういうことは全然だれも構わないんですよね。ところが信仰に入ったものだから、正定聚に入ったものだから、友達がいるからなかなか休ませてくれない。この三番目に「正定聚に入る」と。この三つ──「諸仏に護念せられ、もろもろの徳本を植え、そして教団に入る」この三つが救われる一番の原因なんですよ。ですからあの盂蘭盆会の物語を聞いて、大変におもしろく聞く者と、神通力であの世が見えるなんていうどうも目連尊者は偉いものだという、そういうこともありますけれども、そういうことはこれはお経を見ますると、あの六難九易の法門のところを読ませてもらうと、そういう神通力なんていうものはそんなのはだれでもできる。ところが、ただ一人の人のためにでもご法を説くことはなかなかむずかしいと、こうお経に説いてあります。
ですから皆さんがお導きをして、喜んで佼成会の活動に参加ができて、そして喜んでいられるような人を一人つくるということは、これはお釈迦さまが「なかなか大変だ」とおっしゃっているんだから、皆さんのようにたくさんの人をお導きした人は、それはもう仏さまの方からごらんになったら「善哉、善哉」と、もうおほめになっているにきまっている。仏さまの方からおほめくださるから、皆さんは幸せになっている。幸せになっていなさるから、よその人が見ると「佼成会の人は型があって、普通の人と違うようだ」と、こう言われる一つのゆえんだと思うんです。
自慢話のようなことになってしまいましたけれども、皆さんがいつもお読みになっているお経で、最後の普賢菩薩の四法成就というのがありますね。あれを読むというと、これは一番大事なことを例に、二十八番でおしまいですから結びの言葉として、普賢菩薩さまがあそこに唱えているんです。その第一番目に、「一には諸仏に護念せらるることを得」と。仏さまが「善哉、善哉」と守護してくださるんでなけりゃ、功徳は出て来ないんですよ。第一番に「諸仏に護念せらるることを得」と。「二にはもろもろの徳本を植える」と。人さまのために施しをする。だから施しをしなきゃだめなんです。体で施し、物で施す。心で施す。それは施しをするんです。その二にはもろもろの善根功徳を積むんです。
「三には正定聚に入る」。これはどうしても入会しなきゃだめなんです。どこかの教団に入らなきゃだめなんです。一人では怠けてしまうんですよ。教団に入ったから導きの親ごさんが責任をもってお手どりをしてくださる。怠けてちょっといやになったなあと思うと、迎えに来られる。うるさいなあと思いながらも、いろいろ言われるうちに当たる節がある。これは信仰に入らなければ、そういうことは全然だれも構わないんですよね。ところが信仰に入ったものだから、正定聚に入ったものだから、友達がいるからなかなか休ませてくれない。この三番目に「正定聚に入る」と。この三つ──「諸仏に護念せられ、もろもろの徳本を植え、そして教団に入る」この三つが救われる一番の原因なんですよ。ここまで行くというと、もう「一切衆生を救うの心を発せるなり」。最後の四番目はもう、あの人もこの人も世界じゅうの人をみんな救わなければ世界平和は来ないんだと。こういうことを最初に言ったって、とてもこれは聞こえませんてことになるね。自分が救われればいいんだから、人のことなんて考えてやる余裕がない。ところが諸仏に守られて、そして徳本を積ませていただいて、仲間に入ってやってみると、体験を積めば積むほど自信が出てくる。また、やらずにいられないという気持ちが出てくる。そこで「一切衆生を救うの心を発せるなり」と。この四法成就という経文をこう読んでみると、全くそれは佼成会そのままなんですね。
ですから佼成会というのは、ほかのことがまざりっけがないわけです。経文にある、法華経にあるお経のごとく、皆さんが実行をしていなさる。実行をしていなさるから、非常に功徳がよくあらわれる。法華経というのは本当にもう功徳自由なんですね。どこを読んでも功徳があります。法華の七つのたとえというんです。そのたとえを見ても、やっぱり三車火宅のたとえにしましても、信解品の長者窮子のたとえにしましても、薬草諭品のたとえにしても、化城諭品のたとえにしても、もう本当にたとえにはみんな功徳があらわれているわけです。
その功徳がどうしてあらわれるかというと、仏と凡夫との関係がそこに必ず親子の関係として説かれている。そして親が子供に何とか目覚めてもらいたいという願いが、とうとうおしまいに、なかなか親子だと思ってくれないのが親子だという気持ちになったときに、求めない功徳を──「無碍の宝珠を求めざるにおのずから得たり」と。無上の宝珠が求めないのに授かると、こういうふうに書いてあります。
ですからこれは全くあの佐々木さんの説法、あの説法の内容がまさにその無碍の宝珠を求めざるにいただいているわけなんです。今日のような、人さまの手どりをして、教会長さまか、神さまか、なんて言われるようになろうなんて思ってやったんじゃないんで、病気を治してもらおうと思って入ったんです。ところが病気を治してもらって、すべての人を救わなくちゃならないというところまで四法成就をいくというと、もう今日では本当に仏さまとちっとも変わらないように皆さんにありがたがられて、毎日の自分の生活というものに生きがいを感じて、そして自分の使命の重大さを──「あんたは信じなさんな。仏さまなんか信じない方がいい」と言われたって、ああいうふうになっちゃうともう、あれは全然疑う余地がなくなってくるわけですね。これは現実に自分で踏み行って道を歩いてみると、仏道というものはあまりにも明白なものだから、疑うといっても疑うことができないわけです。ここまで行くというと、もう「一切衆生を救うの心を発せるなり」。最後の四番目はもう、あの人もこの人も世界じゅうの人をみんな救わなければ世界平和は来ないんだと。こういうことを最初に言ったって、とてもこれは聞こえませんてことになるね。自分が救われればいいんだから、人のことなんて考えてやる余裕がない。ところが諸仏に守られて、そして徳本を積ませていただいて、仲間に入ってやってみると、体験を積めば積むほど自信が出てくる。また、やらずにいられないという気持ちが出てくる。そこで「一切衆生を救うの心を発せるなり」と。この四法成就という経文をこう読んでみると、全くそれは佼成会そのままなんですね。
ですから佼成会というのは、ほかのことがまざりっけがないわけです。経文にある、法華経にあるお経のごとく、皆さんが実行をしていなさる。実行をしていなさるから、非常に功徳がよくあらわれる。法華経というのは本当にもう功徳自由なんですね。どこを読んでも功徳があります。法華の七つのたとえというんです。そのたとえを見ても、やっぱり三車火宅のたとえにしましても、信解品の長者窮子のたとえにしましても、薬草諭品のたとえにしても、化城諭品のたとえにしても、もう本当にたとえにはみんな功徳があらわれているわけです。
その功徳がどうしてあらわれるかというと、仏と凡夫との関係がそこに必ず親子の関係として説かれている。そして親が子供に何とか目覚めてもらいたいという願いが、とうとうおしまいに、なかなか親子だと思ってくれないのが親子だという気持ちになったときに、求めない功徳を──「無碍の宝珠を求めざるにおのずから得たり」と。無上の宝珠が求めないのに授かると、こういうふうに書いてあります。
ですからこれは全くあの佐々木さんの説法、あの説法の内容がまさにその無碍の宝珠を求めざるにいただいているわけなんです。今日のような、人さまの手どりをして、教会長さまか、神さまか、なんて言われるようになろうなんて思ってやったんじゃないんで、病気を治してもらおうと思って入ったんです。ところが病気を治してもらって、すべての人を救わなくちゃならないというところまで四法成就をいくというと、もう今日では本当に仏さまとちっとも変わらないように皆さんにありがたがられて、毎日の自分の生活というものに生きがいを感じて、そして自分の使命の重大さを──「あんたは信じなさんな。仏さまなんか信じない方がいい」と言われたって、ああいうふうになっちゃうともう、あれは全然疑う余地がなくなってくるわけですね。これは現実に自分で踏み行って道を歩いてみると、仏道というものはあまりにも明白なものだから、疑うといっても疑うことができないわけです。宗教は体験の世界
──入会即布教師の修行先般、自由宗教連盟の方がおいでになった。そのときにそういうことを皆さんがね、佼成会はどうして三十八年ぐらいの間に四百五十万もの信者ができたのかと、その秘訣を教えてくれという、そういう話があったわけですね。ですから私は、その秘訣をそれでは申し上げましょうと。キリスト教の方では、不合理なるがゆえに信ずるという。どうも合理的な理論がないから信ずるんです。これは偉いですね。世界一の宗教になったからそういうことで事は運ぶわけです。ところがなかなか、全然不合理なものを信じろと言ってもこれは無理な話ですね。その無理がいま、ヨーロッパでもアメリカでも、どうも大学を出たようなりっぱな人が信じなくなって困ったというので、いま非常に苦労している。そういう人たちの質問ですから、中途半端なことを言っても仕方がない。そこで本当のことを言って聞かせなければ皆さんが信じませんよ。
そこで、佼成会の信者というのはきょう入会するともう布教師になっちゃうんだと。今年は特に全会員総手どりというので、入会して先祖を拝んで、こういうふうにしていればこういうふうになりますよと──こう言って聞かせるというと「はあっ、さようでございますか」きょう入会して、その結果、もう自分で心の中がすっとしたとか、順序次第がわかった人は、もうあしたは「あなたも入会しなさい。入会すれば救われますよ」というので、すぐにこれは布教師になっているわけなんです。
そういうふうに、自分が導いてみようと思って行くとですね、そんなこととは知らずに行ってお導きをしてみるというと、どういう悩みを持っているかと、自分のもと持っていた悩みとおんなじ悩みをちゃんと持っているんです。これは因縁によって導かれるんですから、そのお導きの親ごさんと子供というものはまことによく似ているんです。それこそうり二つなんだね。そこでなるほどと。こういうふうにもう体験をしてしまうと疑うなんていう余地がなくなってくる。宗教というのは理論だけではなくて体験の世界なんです。信じて、行じて、そしてそこに信・行によって証というものがあらわれる。信じて行じてみると証、結果があらわれる。
この結果を一つ自分が体験すると疑うことができなくなってまいります。そういう疑うことのできない仲間というのが佼成会の会員の姿なんですよ、ということをお話しをしましたら、わかったのか、わからないのか、目の色を変えていました。外人だから目の色が変わってるのね(笑い)。これはまあ冗談でありますが、目の色を変えるほど不思議なんですね、よそから見ると。不思議なんですけれども、これはもう皆さん、体験をした人には疑いなさいと言っても疑うことはできない。これは事実なんです。宗教は体験の世界
──入会即布教師の修行先般、自由宗教連盟の方がおいでになった。そのときにそういうことを皆さんがね、佼成会はどうして三十八年ぐらいの間に四百五十万もの信者ができたのかと、その秘訣を教えてくれという、そういう話があったわけですね。ですから私は、その秘訣をそれでは申し上げましょうと。キリスト教の方では、不合理なるがゆえに信ずるという。どうも合理的な理論がないから信ずるんです。これは偉いですね。世界一の宗教になったからそういうことで事は運ぶわけです。ところがなかなか、全然不合理なものを信じろと言ってもこれは無理な話ですね。その無理がいま、ヨーロッパでもアメリカでも、どうも大学を出たようなりっぱな人が信じなくなって困ったというので、いま非常に苦労している。そういう人たちの質問ですから、中途半端なことを言っても仕方がない。そこで本当のことを言って聞かせなければ皆さんが信じませんよ。
そこで、佼成会の信者というのはきょう入会するともう布教師になっちゃうんだと。今年は特に全会員総手どりというので、入会して先祖を拝んで、こういうふうにしていればこういうふうになりますよと──こう言って聞かせるというと「はあっ、さようでございますか」きょう入会して、その結果、もう自分で心の中がすっとしたとか、順序次第がわかった人は、もうあしたは「あなたも入会しなさい。入会すれば救われますよ」というので、すぐにこれは布教師になっているわけなんです。
そういうふうに、自分が導いてみようと思って行くとですね、そんなこととは知らずに行ってお導きをしてみるというと、どういう悩みを持っているかと、自分のもと持っていた悩みとおんなじ悩みをちゃんと持っているんです。これは因縁によって導かれるんですから、そのお導きの親ごさんと子供というものはまことによく似ているんです。それこそうり二つなんだね。そこでなるほどと。こういうふうにもう体験をしてしまうと疑うなんていう余地がなくなってくる。宗教というのは理論だけではなくて体験の世界なんです。信じて、行じて、そしてそこに信・行によって証というものがあらわれる。信じて行じてみると証、結果があらわれる。
この結果を一つ自分が体験すると疑うことができなくなってまいります。そういう疑うことのできない仲間というのが佼成会の会員の姿なんですよ、ということをお話しをしましたら、わかったのか、わからないのか、目の色を変えていました。外人だから目の色が変わってるのね(笑い)。これはまあ冗談でありますが、目の色を変えるほど不思議なんですね、よそから見ると。不思議なんですけれども、これはもう皆さん、体験をした人には疑いなさいと言っても疑うことはできない。これは事実なんです。ですからお釈迦さまのお弟子さんたちがあのように、仏さまの弟子になるために家族を捨ててみんな出家をしてしまったんですね。あれはもう大変なことが起こったわけですね。そんなことが起こるかと、こう思うけれども、それは本当にお釈迦さまのお出ましのようなときには、そういうことが起こったんです。
いまはそういう形でなく、お釈迦さまのようなお徳の高い方が、先の見通しまでちゃんとつけて、そして後五の五百歳というときにはこういう状態になる。そういう状態のときにはこういう方法で導けと。いま申し上げた、きょう入会したらあしたから布教師になる。人のために法を説く、そういう人間、家庭を持って、出家をしないで、在家のままで人さまに仏道をお勧めをすると、こういう形になって仏国土ができるのであると、こういうふうにお釈迦さまが予言をしてあるのであります。ですから私どもが勝手に決めているのではなくて、そういう三世諸仏の説法の儀式というのがちゃんともうあるんですね。憲法みたいに決まっているわけです。決まっていることを皆さんが用いるから、ですからちゃんとそれはもうご功徳となってあらわれることは間違いないわけです。ですからお釈迦さまのお弟子さんたちがあのように、仏さまの弟子になるために家族を捨ててみんな出家をしてしまったんですね。あれはもう大変なことが起こったわけですね。そんなことが起こるかと、こう思うけれども、それは本当にお釈迦さまのお出ましのようなときには、そういうことが起こったんです。
いまはそういう形でなく、お釈迦さまのようなお徳の高い方が、先の見通しまでちゃんとつけて、そして後五の五百歳というときにはこういう状態になる。そういう状態のときにはこういう方法で導けと。いま申し上げた、きょう入会したらあしたから布教師になる。人のために法を説く、そういう人間、家庭を持って、出家をしないで、在家のままで人さまに仏道をお勧めをすると、こういう形になって仏国土ができるのであると、こういうふうにお釈迦さまが予言をしてあるのであります。ですから私どもが勝手に決めているのではなくて、そういう三世諸仏の説法の儀式というのがちゃんともうあるんですね。憲法みたいに決まっているわけです。決まっていることを皆さんが用いるから、ですからちゃんとそれはもうご功徳となってあらわれることは間違いないわけです。さらに菩薩道を邁進する
そういう意味で、いまこそ私どもは本当に普賢菩薩さまの四法成就というあのお経の中にありますように、一切衆生を我と等しく異なることなかれという気持ちでお救いさせてもらう。そして世界平和を実現する。そこまでまいりませんと安心のついたということにはならんわけです。やせがまんで安心したような顔をしていてもそれはだめなんです。
世界じゅうが仲よしになったら──現在、軍事費を使っている、世界じゅうの各国の軍事費の二%、百分の二・二減らせば──いま地球上に四十億の人間がいるということですが、腹いっぱい食べているのが十億しかいなくて、餓死寸前の人が十億。これはちょうど死にそうなのと太りすぎたのと対照的に両側に十億ずつあって、真ん中の二十億はまあまあというところで、上の方の十億がまあまあ、下の方は餓死まで行かんけれども少々ちょうど日本の戦後ぐらいの状態。そういう状態で四十億の国民がいるというんですね。その餓死寸前の状態の十億の人を救うのに、軍事費二%を使えばできるというんだよ。この英知が、人類にその英知が出たら、それは二%なんですから百分の二でしょう。四%ぐらいこれを減らしたら、この真ん中の二十億の人もみんな救って、楽々と余りある財政になるわけです。
そういうことができないというのは、信頼感がないからです。不信だからですよ。たとえば国と国とに不信があるわけです。そのために、そういうばかげた軍事費を使ってせっかくの生産をむだなことに使って苦しんでいる。毎日のように何十万という人が餓死しているんです。十億の人が餓死寸前というのは、それはもう毎日餓死しているわけなんです。そういう国があるわけなんです。われわれの国にそういう状態がないから目に見えないですけれども、これはもう世界じゅうの状態がいまはもう手に取るように、どこの国はどういう状態だということがわかるわけです。
最近の状態を聞きますと、ソ連がまた気候が悪くて飢饉だという。中国も飢饉だというようなことにもしなったら、それはまたやっぱり食糧の値段が上がるということですが、日本の方では米がとれすぎるというので一生懸命で、調整しろ、調整しろと言うんですね。これはぜいたくな悩みを持っているわけなんです。
そういういろいろな悩みというものを解消していくということには、本当に世界平和という、一切衆生を救うの心を発すという、ここの四法成就の最後の願文ですね、そこへみんなの気持ちが行かなきゃならんのです。そういう気持ちを起こすもとはというと、この先祖のご供養ということから、過去、現在、未来が一貫してわれわれが生命体の中に生かされて、仏さまの生命の中に生かされて今日こうしているのだと、こういうことを悟らせるために目連尊者のお母さんが題材に出されて、欲張りの状態から醸し出されたいろいろの問題が物語となって、それがもとで盂蘭盆会という因縁が始まって、そして毎年この七月の十五日、または旧歴の八月の十五日のところもありますけれども、旧歴の七月の十五日が本当のお盆であったわけであります。さらに菩薩道を邁進する
そういう意味で、いまこそ私どもは本当に普賢菩薩さまの四法成就というあのお経の中にありますように、一切衆生を我と等しく異なることなかれという気持ちでお救いさせてもらう。そして世界平和を実現する。そこまでまいりませんと安心のついたということにはならんわけです。やせがまんで安心したような顔をしていてもそれはだめなんです。
世界じゅうが仲よしになったら──現在、軍事費を使っている、世界じゅうの各国の軍事費の二%、百分の二・二減らせば──いま地球上に四十億の人間がいるということですが、腹いっぱい食べているのが十億しかいなくて、餓死寸前の人が十億。これはちょうど死にそうなのと太りすぎたのと対照的に両側に十億ずつあって、真ん中の二十億はまあまあというところで、上の方の十億がまあまあ、下の方は餓死まで行かんけれども少々ちょうど日本の戦後ぐらいの状態。そういう状態で四十億の国民がいるというんですね。その餓死寸前の状態の十億の人を救うのに、軍事費二%を使えばできるというんだよ。この英知が、人類にその英知が出たら、それは二%なんですから百分の二でしょう。四%ぐらいこれを減らしたら、この真ん中の二十億の人もみんな救って、楽々と余りある財政になるわけです。
そういうことができないというのは、信頼感がないからです。不信だからですよ。たとえば国と国とに不信があるわけです。そのために、そういうばかげた軍事費を使ってせっかくの生産をむだなことに使って苦しんでいる。毎日のように何十万という人が餓死しているんです。十億の人が餓死寸前というのは、それはもう毎日餓死しているわけなんです。そういう国があるわけなんです。われわれの国にそういう状態がないから目に見えないですけれども、これはもう世界じゅうの状態がいまはもう手に取るように、どこの国はどういう状態だということがわかるわけです。
最近の状態を聞きますと、ソ連がまた気候が悪くて飢饉だという。中国も飢饉だというようなことにもしなったら、それはまたやっぱり食糧の値段が上がるということですが、日本の方では米がとれすぎるというので一生懸命で、調整しろ、調整しろと言うんですね。これはぜいたくな悩みを持っているわけなんです。
そういういろいろな悩みというものを解消していくということには、本当に世界平和という、一切衆生を救うの心を発すという、ここの四法成就の最後の願文ですね、そこへみんなの気持ちが行かなきゃならんのです。そういう気持ちを起こすもとはというと、この先祖のご供養ということから、過去、現在、未来が一貫してわれわれが生命体の中に生かされて、仏さまの生命の中に生かされて今日こうしているのだと、こういうことを悟らせるために目連尊者のお母さんが題材に出されて、欲張りの状態から醸し出されたいろいろの問題が物語となって、それがもとで盂蘭盆会という因縁が始まって、そして毎年この七月の十五日、または旧歴の八月の十五日のところもありますけれども、旧歴の七月の十五日が本当のお盆であったわけであります。そういうきょうのこのお盆という、盂蘭盆会というこの行事。この行事は最もこれが、われわれ仏教徒の本当に反省、ざんげ、滅罪のあかしとしてできたものなのでありますから、きょうはひとつ皆さんそういうお気持ちで、一切衆生にみんな幸せになってもらうためにわれわれが先頭に立って菩薩行を行じて十二番の提婆品を見ますと、「布施を勤行せしに、身心倦きことなかりき」とあります。布施を勤行すれば身心のかなわないということはないんだと。身心がかなわないというのは布施をしてない証拠だと、こう言ってるわけです、逆に言えばね。布施を勤行せしに身心倦きことなかりき。提婆の成仏も、悪人の成仏も、この菩薩道をして布施を勤行するからこそ成仏が可能になるわけであります。
こういう意味で、本日はどうか皆さま方、本当の仏道修行に入って、人さまのために一はだ脱ごうと。総手どりをやろうと。この心が皆さんのご先祖さまの成仏になり、自分の今生が極楽浄土に──生きながらに極楽浄土を実現すると、こういうことになるわけでございます。どうかそのおつもりでますますご精進をくださいますようにお願いを申し上げまして、本日の説法を終わることにします。ご清聴ありがとうございました。(拍手)そういうきょうのこのお盆という、盂蘭盆会というこの行事。この行事は最もこれが、われわれ仏教徒の本当に反省、ざんげ、滅罪のあかしとしてできたものなのでありますから、きょうはひとつ皆さんそういうお気持ちで、一切衆生にみんな幸せになってもらうためにわれわれが先頭に立って菩薩行を行じて十二番の提婆品を見ますと、「布施を勤行せしに、身心倦きことなかりき」とあります。布施を勤行すれば身心のかなわないということはないんだと。身心がかなわないというのは布施をしてない証拠だと、こう言ってるわけです、逆に言えばね。布施を勤行せしに身心倦きことなかりき。提婆の成仏も、悪人の成仏も、この菩薩道をして布施を勤行するからこそ成仏が可能になるわけであります。
こういう意味で、本日はどうか皆さま方、本当の仏道修行に入って、人さまのために一はだ脱ごうと。総手どりをやろうと。この心が皆さんのご先祖さまの成仏になり、自分の今生が極楽浄土に──生きながらに極楽浄土を実現すると、こういうことになるわけでございます。どうかそのおつもりでますますご精進をくださいますようにお願いを申し上げまして、本日の説法を終わることにします。ご清聴ありがとうございました。(拍手)