迷いのない信仰を
現在はたいへん不安だといってるけど、反面経済的に恵まれ、時間的に恵まれ、家族構成のいろいろの中に恵まれ、信仰は理論にピッタリと鵜の毛で突くほどのすきのない、さようごもっともな教学をみんな勉強してるわけで、そういうものを全部自分のものにしているけれども、その当時は、いったい佼成会が世の中を救うという使命があるのか、そんな役割のある教団なのかしら、こういう疑ぐりもあったわけです。
それも、いも屋のばあさんに牛乳屋のおやじが親方なんだからたいしたことはないじゃないかというハンディもあったわけです。そういう中にあって全然疑ぐらずに、妙佼先生のご指導をそのままに実践した人は、次から次へとふしぎに救われて、まったく迷いがなかったのであります。
ところがいまはあまり救われているものだから、どうだとかこうだとか、世間がちょっと何とかいったとか、マスコミが何かちょっと書いたとかいうと、へそのあたりがおかしな気持ちになって、ヨタヨタして腹の中に迷いを生じているわけです。
これはやはり信仰の寸心が、ちゃんと法華経を行ずるという姿勢がたいへんゆるんできてるんじゃないかと思うのであります。ですからそこのところが大事でして、決して一般の人の考え方をまるっきり無視するわけにもいかない。われわれも人間の皮をかぶっているので迷いはつきものだではすまされない。
それは、法華経というものをほんとうに行じている者には必ず功徳がある、とおっしゃられているわけなのです。いつかも申し上げましたように、もうすでに、この佼成会がもとになって世界万国に法華経が広まるんだ、と、これは、昭和四十五年に京都会議で、法華経を基盤とした異体同心の精神、そして自分を捨ててほんとうに世の中をよくしようという、末法時代を救済するところの菩薩、この菩薩道の実践教団によってこういうことがもたれたということは、多くの識者が皆お認めいただいたわけであります。
ですから、これから私たちの修行の最後の仕上げでありますけれども、世界万国に法華経を、仏さまのお出ましのときと同じような気持ちで、僅か三十二年の間になし遂げられたということは、とにかく予言のとおり世界万国に一応行き渡るところまで行ったわけであります。
そういう問題がいくつもありますので、もうこの辺で疑ぐらずに信じてもいいんじゃないかという時代だと思うのです。そこの信じ方が足りないところに、マスコミからの苦言もあり、こうあるべきだといういろいろの問題もそこにあるわけです。