無条件に行じよう
皆さま本日はこのように大ぜい妙佼先生の十七回忌にお参りをいただきまして、まことにありがとう存じます。
妙佼先生がご遷化されてもう十七回忌を迎えられたというのでありますが、ついこの間のような気がいたしているのであります。妙佼先生は常に私どもの身辺にいろいろの形で教えを垂れていられる。そういう意味で十七年もたっても、何か生きてらっしゃるような気もするほど、お互いさまにお慕いしていると思うのであります。十七回忌を迎えてよく考えてみましたら、妙佼先生はちょうど私と年が十七歳違っているのであります。ですから妙佼先生がお亡くなりになったときが、私のいまでございます。そういう意味で十七回忌という年は、たいへんなハンディだなあということをわからせてもらうわけであります。
当時はいまと違いまして、昼夜常精進でやっても疲れもなく、張り切ってやれるような状態であったわけであります。ところが十七年たった今日になってみると、十七年前とは違った自分の体であることを思いますと、さきほどの放送にもありましたが、会長先生は背が高くて、妙佼先生は背が低い、その小さな体でしかも女性というハンディ、さらに年のハンディと三つのハンディをもっている。そういうこともおかまいなしに、火花を散らして一生懸命やり、あまりいたわるという気持ちもなく、そういう無理が先生の寿命をつめたということがいえると思うんであります。
昨日お山で、特に妙佼先生に親しかった方々が、理事長さんにお招きをいただいて、二百人ほどお集りいただいたのです。いま第一線から引かれたもとの支部長さんとか、そういうお役はしなかったが特にご懇意であった方など二百名をお招きして、お山でお逮夜のご供養をさせてもらったのでございます。
そしていろいろ語り合ったのですが、妙佼先生ご在世中、特に戦争前から戦争中、さらに戦後、日本の状態は現在のわれわれが想像してもぞっとするような社会情勢にあったわけであります。食べようと思っても物がない。ですから畑へ行って草を取ってきてゆでて食べる。あるいはナスをつくったり、トマトをつくったり、麦をつくるという時代でしたが、私どもは世俗的なことなど全く考えることのないような状態の法の精進ぶりでありました。しかし戦争も最後のころ東京に空襲が次から次にあるようになりますと、食糧が足りないことをヒシヒシと感じてまいります。そこで焼け跡を耕して菜っぱをつくったりおそばをつくったりして、当座のしのぎにいろいろ工夫をしてきたのであります。