法華三部経の要点 ◇◇102
立正佼成会会長 庭野日敬
観世音菩薩のような人になりたい
恐れなき心を施すお方
観世音菩薩を念ずることによって逃れられる七難の第五は鬼難ということになっています。鬼難というのは、悪霊などに取り憑(つ)かれて正気を失うことです。観世音菩薩を念ずればそういった鬼難から逃れられるというのは、つまり、真実の智慧と大いなる慈悲を持とうと決じょうしておればそのような邪悪なものは近寄り難く、よしんば近づいてもひとりでに撥(は)ねのけられてしまう、というわけです。
次は獄難。牢獄(ろうごく)に閉じこめられているということは、心の自由自在が束縛されていることにほかなりません。人間の最大の願望は完全な自由ということです。しかし、「人」とか「物」とか「自然」を束縛の対象としているかぎり、未来永劫それから逃れることはできません。自分の心さえ真実の智慧と、大いなる慈悲をもてるようになれば、周りがどうあろうと自由自在の身となれるわけです。
最後の賊難ですが、これはわれわれから物的なものを奪い去る苦境・苦難を言います。最大の賊難は死ということです。凡夫はそういった賊難に遭えば、あるいは意気消沈し、あるいは狼狽(ろうばい)し、あるいは恐怖におののきます。
ところが、観世音菩薩の真実の智慧と大いなる慈悲を思い起こせば、そういった物的な変化は実体のない、例えば海上に生ずる波のようなもので、われわれの本質である永遠のいのち(仏性)は確固として揺るぎないものであることに思い至り、大安心を得ることができるのです。
ですから、あとのほうに「是の観世音菩薩は、怖畏急難の中に於て能く無畏を施す。是の故に此の娑婆世界に、皆之を号して施無畏者とす」とあるように、観音さまは畏れない心を施すお方であるとされているのです。
雨ニモマケズは観音思想
観音さまの代表的なお徳は、この「施無畏」ということのほかにもう一つ「大悲代受苦」ということがあります。それは、「人々の苦しみを自分が代わって受ける」という献身の精神に満ちた慈悲の実践です。宮沢賢治の有名な『雨ニモマケズ』の詩は観世音菩薩を歌ったものと言ってもいいでしょう。
「東ニ病気ノコドモアレバ 行ツテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ」というのは、大悲代受苦にほかなりません。
「西ニ死ニサウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイイトイヒ」というのは、そのまま施無畏です。
高名な思想家・谷川徹三氏が、これは明治以降の日本における最高の詩であると評しておられましたが、この詩が全篇「観音思想」に貫かれていることを、とくと見直したいものです。