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法華三部経の要点 ◇◇89
立正佼成会会長 庭野日敬

すべては一に発し一に帰す(1)

信仰の対象はただ一つ

 如来神力品は、釈迦牟尼仏をはじめとする諸仏が不思議な神力を現される神秘的な情景に終始していますが、じつはその中に法華経をつらぬく重要な真理と、世界の未来のあるべき真実のすがたが秘められているのです。その重要な真理というのは「すべては一つ」ということであり、そのあるべき真実のすがたというのは「現在はバラバラのように見えるものも、未来においては一つに帰する」ということであります。
 まず、お釈迦さまが広くて長い舌をお出しになりますと、その舌は梵天という天界まで届いたというのです。これを「出広長舌(すいこうちょうぜつ)」といい、仏さまのお説きになる教えはすべて真実であり、究極永遠の真理であり、しかも究極の真理に二つはないということを象徴しているのです。
 法華経の前半では、お釈迦さまは現実世界の仏としての立場から、人間の生き方についていろいろと教えてくださいました。ですから、法華経の前半を「迹門(しゃくもん・迹仏としての仏の教え)」と呼びます。そして人びとはお釈迦さまを仏としてあがめ、帰依していました。
 ところが、後半になると、ご自分の本体は宇宙の大生命ともいうべき久遠実成の本仏であり、現実の自分はその本仏がこの世に迹(あと)を垂れたもうたすがたであるとお説きになりました。そうすると、どちらの仏さまを帰依・礼拝の対象としたらいいかと迷う人があるかもしれません。そこで、この品であらためて「迹仏と本仏は別な仏ではない」ということを示されたわけです。ですから、この「出広長舌」という神力には「二門信一」という深い意味がこめられているのです。

根本の真理はただ一つ

 つぎに、「毛孔放光(もうくほうこう)」といって、お釈迦さまの全身からさまざまな色の美しい光が射(さ)し出ると、十方世界が隅から隅まで明るくなった……とあります。
 これは、仏法の光明はさまざまな色(方便)として現れるけれども、もともとは一つの真理(一法)から出たものであり、それぞれが人と場合に応じて迷いの闇(やみ)を破るものであるということです。ちょうどプリズムで分解すれば七色に分かれる太陽光線も、もともとは無色の光であるようなものです。具体的に言えば、仏教の教えはすべて諸法実相という真理から出ているのであります。ですから、この「毛孔放光」という瑞相は「二門理一」という意味がこめられているのです。

教えの帰する所はただ一つ

 つぎに、釈迦牟尼仏をはじめとする諸仏がいっせいにせきばらいをされたとあります。これを「一時謦欬(いちじきょうがい)」といいます。謦欬は教えを説くことを象徴するもので、それが同時に行われたというのは、現実に説かれる教えはさまざまに違っても、その根本の教えは一つであるということです。法華経に即していえば、迹門も本門も結局は同じ教えを説いているということで、これを「二門教一」といいますが、もっと広義に解釈すれば、世界中にさまざまな宗教があるけれども、正しい宗教であるかぎりすべて同じ教えから出たもので、万教は同根であるということです。


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