法華三部経の要点 ◇◇80
立正佼成会会長 庭野日敬
釈尊は今も生きておられる
求めればどこにでも示現
方便品第二と共に法華経の二本の柱の一つとされている如来寿量品第十六に入ります。なぜそんなに大切な章であるかといいますと、ここで仏さまの本体を初めてハッキリと示されるからです。当時のインドの大衆は、仏さまといえば現在法を説いてくださっている釈迦牟尼世尊とばかり思っていました。ところが、じつはそうではなく、世尊が入滅されるということは、根本の真理(真如)そのものである法身の仏(本稿66回参照)と一体になられることであり、必要とあらばいつでもどこにでも示現してわれわれを教化してくださるのだということを、ここでハッキリとお説きになったのです。
このことは、現実のわれわれにとってじつにありがたいことです。釈迦牟尼世尊は今も生きておられて、われわれが熱烈にその教化を求めれば必ず救いの手を差し伸べてくださるというのですから。そのことは「衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に一心に 仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜まず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず」という偈文によって明らかです。
この霊鷲山というのはインドの特定の山ではなく世界のあらゆる場所であることは、これも偈文の「餘国に衆生の 恭敬し信楽する者あれば我亦彼の中に於て 為に無上の法を説く」によって明らかです。
このことが寿量品の要点の第一であり、このことを心の底から信じられれば、ほんとうにこの上ない救いを得られるのであります。
仏様の分身に会う有り難さ
この霊鷲山がインドのある特定の山だけをさすのでないのと同様に、世界中の至る所に示現されるお方もまた特定の応身仏としての釈迦牟尼世尊だけなのではなく、法身仏となられた釈迦牟尼世尊の分身であるさまざまな仏さまであることにも留意しなければなりません。見宝塔品に「釈迦牟尼仏の所分の身の百千万億那由他恒河沙等の国土の中の諸仏、各各に説法したまえる」とあるように、お釈迦さまの分身は十方世界のあらゆる所で法を説いておられるのです。それが寿量品の要点の第二です。
わたし自身の信仰体験からしても、法華経に導いてくださった新井助信先生も釈迦牟尼世尊の分身だったに相違ありません。また、わたしの宗教協力の精神をいよいよ確固たるものにしてくださった教皇パウロ六世もやはりそうでありましょう。
そのほか、清水寺の大西良慶師、比叡山の山田恵諦師、中国佛教協会会長の趙樸初師、アメリカのユニテリアン・ユニバーサリスト協会会長グリーリー博士、イギリスのカンタベリー大主教だったラムゼー師等々、わたしにとっての釈迦牟尼世尊の分身は数えきれないほどです。佼成会の信者さんの体験説法を聞いていて「ああ、この人もやはり仏さまの分身だなあ」と感ずることがしばしばあります。
現世で触れ合った方々だけでもこのとおりです。ましてや、前世に、前々世に、長い長い過去世に会いたてまつることのできた分身仏は、経文にあるように無量百千万億でありましょう。こう考えてきますと、自分の身の幸せをつくづくとかみしめざるをえません。皆さんも、どうかこのことに深く思いを致して頂きたいものです。