法華三部経の要点 ◇◇68
立正佼成会会長 庭野日敬
法華経行者は多宝塔である
日蓮聖人の阿仏房への手紙
前々回と前回には、多宝如来は真理(真如)そのものであることを書きました。ところが、それと同時に、経文にもありますように、どこででも法華経が説かれるならばその場に出現し、それが真理であることを証明する役割を持っておられるのです。ですから、古来「証明法華(しょうみょうほっけ)の多宝如来」とお呼びしているわけです。
と申しますと、われわれ在家の法華経行者とはまったくかけ離れた天上の存在のように思われるかもしれませんが、そうではありません。われわれが法華経に帰依し、身に行じ、そして人のために説くならば、われわれがそのまま多宝如来となるのです。これはわたしの独断ではなく、日蓮聖人がハッキリとそうおっしゃっておられるのです。
日蓮聖人が佐渡に配流されたとき、その地に阿仏房という熱心な念仏の信者がいました。元は武士で、順徳上皇が佐渡に流されたもうたときお供をしてここに来て、上皇没後は妻の千日尼と共にそのお墓を守ってここに住みついていたのでした。
日蓮聖人がこの島へ配流されたと知ると、念仏の大敵が来たとして殺そうと企み、庵室を襲ったのですが、かえって聖人に教化されて弟子となったのでした。そして、妻と共々怨敵の多い聖人をお守りし、夜中ひそかに食糧を届け続けたのでありました。そればかりか、身延へ退隠されてからも三度もはるばる佐渡からお見舞いに行ったほど尊信の誠を尽くしました。
その阿仏房が、手紙で、「多宝如来の宝塔はどのようなことを表しているのでしょうか」と質問したのに対して、聖人はこうお答えになっておられるのです。
「……末法に入って法華経を持(たも)つ男女のすがたより外には宝塔なきなり。若し然らば貴賤上下を択(えら)ばず、南無妙法蓮華経と唱うる者は、我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり。(中略)。然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此れより外の才覚無益(さいかくむやく)なり。(中略)。多宝如来の宝塔を供養し給うかと思えば、さにては候わず、我が身を供養し給う。我が身又三身即一の本覚の如来なり。かく信じ給うて南無妙法蓮華経と唱え給う、ここさながら宝塔の住処なり。経に曰く、『法華を説く処あらば、我が此の宝塔其の前に涌現せん』とは是れなり……」と。
説かねば宝塔も意味がない
この中でも「阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此れより外の才覚無益なり」の一節をよくよく味読して頂きたい。「阿仏房がそのまま宝塔であり、宝塔がそのまま阿仏房である。学問的解釈や理屈づけは何の役にも立ちはしない」という意味です。つまり、「法華経の説かれる所には必ず宝塔を涌現させよう」という経文の言葉を素直に受け取ればいいのだ……ということです。
佼成会員の皆さんは、法華経にご縁を頂いた人であり、朝夕「南無妙法蓮華経」を唱えている人ですから、みんな多宝如来の分身です。お釈迦さまと半座を分けて並んで座れる資格を持つ人です。どうか、そのような自覚と誇りを持って頂きたい。
ただし、それには条件があります。宝塔は、ただそれが地上に顕現しただけでは意味がありません。中におられる多宝如来が大音声を発して、最高無上の教えである法華経の真実を証明されてこそ宝塔は生きて働くのです。皆さんも、人のために法華経を説き、わが身にそれを実践してその真実を実証してこそ、その尊い事実も生きてくるものだと承知して頂きたいものです。