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法華三部経の要点 ◇◇16
立正佼成会会長 庭野日敬

なぜ求名が弥勒菩薩になれたのか

どうして光明を放たれたか

 法華経序品の圧巻はなんといってもお釈迦さまが眉間(みけん)から大光明を放たれた奇瑞でありましょう。
 無量義処三昧(「無限の教えの基礎」という瞑想)に入っておられる仏さまの額からとつぜん一条の光がサッと東方へ放たれたと見るや、その光は下は無間地獄の底から上は有頂天という天界までをあかあかと照らし出しました。そして、苦と迷いの世界にうごめいている衆生や、そこから脱け出して仏道を修行している人びとや、他の幸せのために慈悲の行為を実践している菩薩たちや、もろもろの仏さまが入滅される様子など、この世界のありとあらゆる生あるものの姿が写し出されたのでした。
 これはもちろん、お釈迦さまの智慧は、この世のあらゆる生あるものの実相を明らかに見通す智慧であることの象徴ですが、その場にいた人びとはいったいどうしたわけでこのような奇瑞をお見せになったのかと、不可思議な思いにかられていました。
 そこで弥勒菩薩は、過去世のことをよく知っている文殊菩薩に質問してみました。すると文殊菩薩は、過去世におられた日月燈明仏という仏さまが、同じような奇瑞を現ぜられたのち最も深遠な法をお説きになったという経験から、「釈迦牟尼世尊もこれから至上の教えである法華経をお説き始めになるだろう」と答えます。
 その答えの中で文殊菩薩は「衆生をして咸(ことごと)く一切世間の難信の法を聞知することを得せしめんと欲するが故に、斯(こ)の瑞を現じたもうならん」と言い、また「是(こ)れ諸仏の方便なり」とも言っています。
 この「方便」に関して、本多顕彰さんは『わたしの法華経人生論』(佼成出版社刊)という本の中で「さとりを開いた者が説教をしようとしても、大衆が耳を傾けようとしないから、奇跡を演出して、視聴を集めようとしたのだ、とマンジュシュリー(文殊師利菩薩)が説明する。どんないいことばにも、民衆が耳を傾けようとしないことがある。傾けなければ、無いに等しい。聴かせるためには、仏陀もしんぼう強く手段をつくさなければならなかった」と解説しておられます。
 まことに名解説であり、われわれ現代の布教者にとってもよくよく味わい、胸に刻んでおかなければならないことだと思います。

凡夫も善行によって仏に

 この品にはもう一つ、たいていの人が見過ごしている要点があります。それは、文殊菩薩が弥勒菩薩の前世の身について語っているくだりです。

 ――はるかなむかし、法華経と同じ内容の教えを説いた妙光法師に一人の弟子があった。怠けてばかりいて、名声や利益をむさぼり、学んだこともすぐ忘れ、仏道の真義を悟ることができなかった。だから求名という綽名(あだな)をつけられていた。しかし、ただ一つ取りえがあった。それは人のために善い行いをすることだった。その因縁によって無数の仏さまに会いたてまつることができ、その教えに従って仏道を行じたので、今こうして釈迦牟尼世尊に会いたてまつることができた。そして世尊の教えによって未来には必ず仏になることができるだろう。その求名というのが、じつはあなただったのだ――

 これを読みますと、弥勒菩薩も元はふつうの人だったことがわかります。それが、もろもろの善い行いをしたことによって、しだいに仏の教えを身につけるようになった。そのいきさつは、われわれにとってじつに素晴らしい手本です。大きな勇気を与えられる見本です。これも序品の中の大切な要点だといわなければなりません。


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