経典のことば(12)
立正佼成会会長 庭野日敬
煩悩を断ぜずして涅槃に入る。これを宴坐となす。
(維摩経・弟子品)
凡夫が煩悩を断じ得るから
これは、舎利弗が林の中で座禅をしているときに、在俗の仏教者維摩(ゆいま)が投げかけたことばです。
「舎利弗さん。静かな所で無心になって座るばかりが座禅じゃありませんよ。煩悩は煩悩のままで持ちながら心の安らぎを得るのが、ほんとうの座禅というものですよ」
これにはさすがの舎利弗もギャフンとなってしまいました。
維摩は毘舎離(びしゃり)の大商人で、維摩経はこの人を中心として繰り広げられる、ドラマのような構成の経典です。「空」の思想をいかに日常生活に実践するかを主題としています。
聖徳太子が数ある大乗経典の中から、法華経と、勝鬘(しょうまん)経と、この維摩経の三つを選んで講義されたほど重要な経典ですが、なぜ太子がこれらの経を選ばれたかを推測しますと、こうした大乗の教えは、苦しみや、悩みや欲望や、競争などの渦巻くなかにあって、どうすれば心の安らぎを得、われ・ひと共にしあわせな人生を送ることができるかを説いた生活者のための教えだったからでありましょう。
現代の心ある人々は、あまりにも「物」と「金」に振り回されている生活にむなしさを覚え、宗教、特に仏教への関心を深めています。しかし、出家修行者のために説かれた経典を読んで、あらゆる煩悩を除きつくした「涅槃」が理想の境地だと知ると、とてもそんなことは不可能だとあきらめてしまったり、かえって反発を覚える向きもあるようです。
涅槃というのは、もともと「火を吹き消したようにあらゆる煩悩を除きつくした境地」を言い、もっと極端に、肉体がある以上必ずいくばくかの煩悩(たとえば食欲)は残っているのだから、肉体が滅してこそ真の涅槃だという論もあり、そこから「死ぬ」ことを「涅槃に入る」というようになったわけです。
生活に生かしてこそ仏教
ところが、世の荒波に揉まれながら生活費を稼ぎ妻子を養わなければならぬ普通の男性たちに、また、物価高のなかで家計のやりくりをし、何かと問題を起こしがちな子供を育てるのに苦心している主婦たちに、そんな涅槃を要求するのは無理というものでありましょう。
維摩は右のことばの前に「道法を捨てずしてしかも凡夫の事を現ずる、これを宴坐となす」とも言っています。真理の道にはずれないように心がけながら凡夫の生活をするのが座禅の神髄なんだ……というのです。この「しかも凡夫の事を現ずる」ということばに、あなたはホッとするような救いを覚えませんか。われわれは、ともすれば、ジッと座ってめい想するとか無心になるとかしなければ――もちろん、そんなひとときが持てればそれに越したことはないのですけれども――心の安らぎは得られないと考えがちです。
しかし、大乗仏教の教えはそこをもう一つ超えているのです。煩悩のなかにあって煩悩にとらわれず、さらに進んで煩悩をプラスの方向へ活用するところに、生々ハツラツたる前向きの心の安らぎがあるというのです。いわゆる「煩悩即菩提」の境地です。そして、多くの人のそうした姿勢や行動が大きなところで調和するところに、人類の進歩もあるというのです。
そのことを、維摩は右の短いことばに凝集させて喝破したのだと、わたしはそう受け取るのです。
題字と絵 難波淳郎
編集部注 前回の文中、「学者の説によりますと……」の学者とは、山本洋一工学博士のことです。