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仏教者のことば(61)
立正佼成会会長 庭野日敬

 他力ということ、易行(いぎょう)などともいうが、実は容易なことではない。他力といったら、自分は微塵もなしに、全部あなたまかせに、まかせなければならない。
 沢木興道・日本(禅とは何か)

わが国での他力の教え

 わが国に仏教が伝わってから平安朝の終わりごろまでは、おおむね国家と貴族のための仏教で、一般庶民とはほとんど無関係でした。当時の庶民は、うち続く飢きんや疫病や戦乱のために苦しんでいましたが、その苦しみに耐えかねて宗教にすがろうとしても、寺も僧侶も上流階級の占有物で、近寄ることができませんでした。
 そういう時勢の中で興ってきたのが念仏の教えです。最初にそれをひろめたのは空也上人で、この諸国行脚の僧が京都に来て街頭に立ち、「ただひたすらに阿弥陀仏を念じなさい。そうすれば必ず救われるのだ」と説きました。心のよりどころに飢えていた民衆は非常に喜び、その教えに帰依しました。
 その教えは、恵心(えしん)僧都や良忍上人という方々の努力でしだいにひろまり、鎌倉時代に入って法然上人や親鸞上人がそれを大成されたのは周知の通りです。念仏を唱えさえすれば救われるというこの他力の教えは、座禅とか、水垢離とか、菩薩行といった努力を必要としないやさしさ(易行)のゆえもあって、みるみる民衆の間にひろまり、生活に密着し、今日におよんでいます。

おまかせにも段階あり

 さて、ここに掲げた言葉は、他力の教えを批判したものではありませんが、徹底的におまかせすることは実際には、じつに難しいものだということを喝破されたものです。浄土真宗の歴史に残る妙好人は、その難しい境地に到達したまれに見る人びとですが、そういう人ですら、次の話の磯七に見られるような悩みがあったのです。
 石見(いわみ)の国に住んでいた善太郎という妙好人が磯七という同信者に送ったある手紙は、半紙四枚に初めから終わりまで「おありがたや、おありがたや」で埋め尽くされていましたが、磯七から来た返事はこれまた初めから終わりまで「おはずかしや、おはずかしや」の連続だった、というのです。善太郎が全的に仏さまにおまかせしているのに対して、磯七はおそらくその境地に達していない自分を恥じ、懺悔したのでありましょう。
 これはこれなりに尊い話だと思います。およそ宗教というものは「信仰」と「懺悔」によって成り立っているからです。神なり仏なりを信ずる心と、その神仏のみ心に添い得ない己を反省する心と、この二つが綯(な)いまざって人間的に向上していくのが宗教のはたらきであるからです。
 ところで、心の上だけで、全的におまかせするというのは、興道老師も言われるように、なかなか容易なことではなく、何かそれを形の上や行動の上に表して、初めて安心を得るというのが人間の性(さが)です。
 前述の恵心僧都は、臨終に際して来迎仏の絵像を掛け、阿弥陀仏のおん手から糸を引き、その端を握って息を引き取られ、法然上人は慈覚大師が用いられたという袈裟を着けて念仏を唱えながら往生されたそうです。ところが、親鸞上人は「来迎など必要はない。死がいは鴨川に流して魚に食わせよ」と遺言して亡くなったといいます。おまかせにもいろいろな段階があることが、この三偉人の臨終によっても知られます。
 ついでにわたしの信念を申しますと、法華経を日々の生活に受持するわたしは仏さまのみ心に添うような自力の行を積み重ね、人事を尽くしたあとは「全的におまかせする」という態度で生きたいと思っております。
題字 田岡正堂

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