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仏教者のことば(62)
立正佼成会会長 庭野日敬

 ここに縁があって来た人は、縁くらい恐ろしいものはないのですから、どうぞひとつこれからさきざき、三日でも竜沢寺の飯を食っておった、あああの人は違うというように、すべてやっていただかねばならん。お願い申すことはそれよりない。
 山本玄峰老師・日本(無門関提唱・あとがき)

信ぜられる人となれ

 山本玄峰老師は、現代の仏教界にそびえ立つ富士山のような最高峰でありました。赤ん坊のとき、紀州熊野の寒風の中に捨て子されていたのを情け深い人に拾われ、育てられたのです。養父母に仕えてけんめいに働きましたが、十九歳のとき眼病をわずらい、ほとんど全盲に近くなりましたので、四国遍路に出かけ、七回もハダシで巡礼したのでした。
 二十五歳のとき、三十三番札所雪蹊寺(せっけいじ)の門前に行き倒れていたのを住職に助けられ、それが縁となって出家したのですが、それからの修行はたいへんなものでした。自ら「学校というものは三日も行きやせん。行っていたら、こんなことしておりはせんかもしれん」と話しておられるように、いわゆる学校教育は受けていないのに、師を求めては全国を歩き、努力に努力を重ね、ついには妙心寺派の管長にまでなった方です。
 最後は三島の竜沢寺に住しておられましたが、九十歳を過ぎても視力の衰えた目を経典にくっつけるようにして、終日読誦を怠らなかったという精進をつづけながら、一方では豪放闊達な性格をむき出しにして、数多くの立派な仏教者を育てられました。
 さて、右に掲げた文章は、昭和三十年一月から四年間にわたって行われた『無門関』の講義が一冊の大著となって大法輪閣から刊行されたときに書かれた「あとがき」の一部です。そして、この後を「ああいう人ならどんな相談をしてもいいと、人からいわれて、信ぜられた上にも信ぜられるようになっていただくということが、わたしの願いじゃ。ほかに何もありません。どうぞそういうつもりで」と結んでおられます。

信は人も世も引き緊める

 「三日でも竜沢寺の飯を食っておった、あああの人は違うというように」……じつに重みのある言葉だと思います。大小と種類とを問わず、世の中の「団体」と名のつくものが、この言葉に合致するようになったら、日本は生まれ変わったようになるでしょう。「あの会社の人は違う」「あの学校を出た人は違う」「あの会に属する人は違う」と世間も信用し、当人たちもそれを自戒の糧(かて)とし、ひそかな誇りとして生きていく、活動していく……何という引き緊(し)まった、しかも、すがすがしい美しさに満ちた人間のあり方でしょう。
 むかしの日本にはこういう気風が濃く存在していました。最も小さな団体である「家」にしても「あの家の人なら信用できる」と言われ、またごく小さな店でも、「あの店の品物なら間違いない」というようなことがよく言われました。こうした「信用」というものが、人々の欲張りやしたい放題な気持ちを引き緊める、おのずからなる手綱となっていたのでした。
 現在も、この基本には変わりはないと思います。ただ、自由というものをわがままと思い違いし、また、信用は宣伝によって作り得るものだという軽はずみな考えもあって、大事な手綱が弛(ゆる)んできた感じは免れません。
 世の中がどう変わろうと、人と人との間のほんとうの「信」に変わりはありません。ここいらで、そのような「信」をしっかりと思い直したいものです。右の言葉は、平易な表現ながら、そういった意味でじつに大きな重みを持つものだと思います。
題字 田岡正堂

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