仏教者のことば(60)
立正佼成会会長 庭野日敬
一切ノ法ハタダ道理トイウニ文字ガモツナリ。其外ニハナニモナキ也。ヒガコトノ道理ナルヲ、シリワカツコトノキワマレル大事ニテアルナリ。
慈円大僧正・日本(愚管抄巻七)
ヒガコトにも原因あり
愚管抄はわが国最初の歴史哲学書として、高校の歴史教科書にも必ずといってよいほど収載されている名著です。神武天皇から順徳天皇までの歴史を述べながら、一切の事象は道理によって、生滅することを述べたもので、したがって、巻七にある前掲の一節は愚管抄全体のエキスといってもよいのです。
さて、この道理ということですが、これは倫理・道徳的な意味の道理ではなく仏法でいう因縁・因果の法則を指すのだと知らなければ、この後段の意味には首をかしげてしまうでしょう。念のために現代文に意訳してみますと……「一切のものごとは、ただ因果の法則によって存在するのである。その法則にはずれるものは一つもない。一般にいう道理に反したこと(ヒガコト)もやはり因果の理によって起こることを知り分けることが、決定的な(キワマレル)大事なのである」。
この後段の「道理に反した、曲がったことも、それなりの原因があって起こることだと知るべきだ」ということは、仏教者ならでは言い得ない、透徹した史観です。
この書は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を計画されていることを未然に知り、そうした武力行使をおいさめする意図で著わされたものといいます。そのために、戦前では学校の教材としては敬遠され、戦後になって大いにその価値が認められるようになりましたが、時の権力者に対する宗教者の態度として、現代のわれわれも大いに学ぶべきものがあると思います。
末法ながら希望もある
今の世にはヒガコトが多過ぎます。小は家庭内暴力・少年の非行・性の乱れから、大は軍備競争・核戦力拡大化・超大国が操る代理戦争まで……。これからいったいどうなっていくだろうかと、心配でなりません。
愚管抄の中にも、世の中がだんだん悪くなっていくことを嘆き、同じ巻七に次のように書かれています。(原文は難解ですので、現代語訳だけを掲げましょう)
「人というものは、究極においては、似た者同志が友となるものである。それが、世も末になると、悪い人びとが同心合力して国の政治をわがもののように動かしてしまう。よい人びとも同じように一体同心になればいいはずなのに、そんな人がいないからどうにもならない。じつに悲しいことで、もはや神仏のご処置を仰ぐほかはないという心境である」
いつの世にも似たようなことがあるものだ……と、うなずかざるをえません。しかし、わたしは思うのですが、十二世紀半ばから十三世紀初頭にかけての当時と現代とでは、同じ末法の世でも様子がずいぶん違います。思想と、言論と、行動の自由がはるかに進んだ今日では「よいことに一体同心となり、合力する人」もたくさん出てきています。
明るい社会づくり運動に協力する人びと、地域の緑化にてい身する人びと、開発途上国の福祉向上に献身する人びと、核の廃絶・世界平和のために不惜身命の働きをする人びと等々、こういう人たちの存在を考えれば、まだまだ希望があります。
慈円大僧正も言われるように、この世には因果の法則のほかはないのです。よい因をつくれば必ずよい果が生まれます。そういう積極的な方向に、心と行動を向けていきたいものです。
題字 田岡正堂
立正佼成会会長 庭野日敬
一切ノ法ハタダ道理トイウニ文字ガモツナリ。其外ニハナニモナキ也。ヒガコトノ道理ナルヲ、シリワカツコトノキワマレル大事ニテアルナリ。
慈円大僧正・日本(愚管抄巻七)
ヒガコトにも原因あり
愚管抄はわが国最初の歴史哲学書として、高校の歴史教科書にも必ずといってよいほど収載されている名著です。神武天皇から順徳天皇までの歴史を述べながら、一切の事象は道理によって、生滅することを述べたもので、したがって、巻七にある前掲の一節は愚管抄全体のエキスといってもよいのです。
さて、この道理ということですが、これは倫理・道徳的な意味の道理ではなく仏法でいう因縁・因果の法則を指すのだと知らなければ、この後段の意味には首をかしげてしまうでしょう。念のために現代文に意訳してみますと……「一切のものごとは、ただ因果の法則によって存在するのである。その法則にはずれるものは一つもない。一般にいう道理に反したこと(ヒガコト)もやはり因果の理によって起こることを知り分けることが、決定的な(キワマレル)大事なのである」。
この後段の「道理に反した、曲がったことも、それなりの原因があって起こることだと知るべきだ」ということは、仏教者ならでは言い得ない、透徹した史観です。
この書は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を計画されていることを未然に知り、そうした武力行使をおいさめする意図で著わされたものといいます。そのために、戦前では学校の教材としては敬遠され、戦後になって大いにその価値が認められるようになりましたが、時の権力者に対する宗教者の態度として、現代のわれわれも大いに学ぶべきものがあると思います。
末法ながら希望もある
今の世にはヒガコトが多過ぎます。小は家庭内暴力・少年の非行・性の乱れから、大は軍備競争・核戦力拡大化・超大国が操る代理戦争まで……。これからいったいどうなっていくだろうかと、心配でなりません。
愚管抄の中にも、世の中がだんだん悪くなっていくことを嘆き、同じ巻七に次のように書かれています。(原文は難解ですので、現代語訳だけを掲げましょう)
「人というものは、究極においては、似た者同志が友となるものである。それが、世も末になると、悪い人びとが同心合力して国の政治をわがもののように動かしてしまう。よい人びとも同じように一体同心になればいいはずなのに、そんな人がいないからどうにもならない。じつに悲しいことで、もはや神仏のご処置を仰ぐほかはないという心境である」
いつの世にも似たようなことがあるものだ……と、うなずかざるをえません。しかし、わたしは思うのですが、十二世紀半ばから十三世紀初頭にかけての当時と現代とでは、同じ末法の世でも様子がずいぶん違います。思想と、言論と、行動の自由がはるかに進んだ今日では「よいことに一体同心となり、合力する人」もたくさん出てきています。
明るい社会づくり運動に協力する人びと、地域の緑化にてい身する人びと、開発途上国の福祉向上に献身する人びと、核の廃絶・世界平和のために不惜身命の働きをする人びと等々、こういう人たちの存在を考えれば、まだまだ希望があります。
慈円大僧正も言われるように、この世には因果の法則のほかはないのです。よい因をつくれば必ずよい果が生まれます。そういう積極的な方向に、心と行動を向けていきたいものです。
題字 田岡正堂