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心が変われば世界が変わる
 ―一念三千の現代的展開―(11)
 立正佼成会会長 庭野日敬

楽しく人生を送るために

人間の値打ちに差はない

 自分を(役立てる)こと

 現在のような競争の激しい社会においては、自分が取り残されているような、落ちこぼれているような感じを心の底に抱く人がたくさんあります。そういう劣等感は、働く意欲を減退させ、生活にも張りを失わせ、鬱(うつ)々として楽しまぬ一生を送らせる素因となります。また、(心身一如)の理によって、健康を損ねる恐れもあります。
 この世は千差万別の現象によって成り立っています。人間の世界も同じです。それぞれの人が違った体力・頭脳・性格・才能等々をもっています。いわゆる持ち前があります。その持ち前をフルに発揮しさえすれば、地位がどうあろうと、職業がどうあろうと、人間としての値打ちに差はないのです。それなのに、今のような民主主義の時代になっても、まだ頭のどこかに職業や地位によって人間の貴賎が分かれるような観念をもった人が多く、それが劣等感を生むのです。
 バイオリンの名手も、その陰によいバイオリンを作る工人がいてこそ、華やかな演奏活動ができるのです。名もない絵の具作りの職人がおればこそ、ルノアールもマチスも数々の傑作を生み出すことができたのです。どんな大会社でも、社長や重役ばかりで平社員や工員が一人もいなかったら、手も足も出ないでしょう。それぞれの人が、それぞれの分(ぶん)に応じて全力を尽くすならば、名バイオリニストもバイオリン作りも、大画家も絵の具職人も、社長も平社員も、まったく同格なのです。下積みだからといって、決して卑下することはありません。

人さまのために自分を役立てる

 タイヤの世界的メーカーであるブリヂストンの石橋正二郎氏は、もとは小さな足袋屋さんだったのです。むかしは、足袋屋は足もとに関する商売としてあまり尊敬されていませんでした。石橋氏はもちろんそんなことにはお構いなく、真心をこめてお客さんの便利を図り、二十銭均一の足袋を売り出して喜ばれたりしましたが、その熱心さはついに地下足袋の考案として結実したのです。現在も用いられている、甲との間に継ぎ目のないゴム底の、軽くて、足を傷めぬあの地下足袋です。これの出現が日本中の労働者の働きをどれぐらい助けたか、どれぐらいその安全を守ったか、じつに計り知れないものがあります。わたしはタイヤ王としての現在よりも、地下足袋の発売が果たした業績のほうを大きくたたえたいのです。
 人間はもともと平等です。本質的には等しく宇宙の大生命の分身です。等しい仏性の持ち主です。したがって、人間の値打ちというものは、煩悩に覆(おお)われがちなその仏性をどれだけ磨き出しているか……というその度合いによって決まるのです。
 ですから、どんなことでもいい、人のため世のために精いっぱい(自分を役立てる)ことに努めることです。そうすればするほど、自分の仏性が磨き出されてくるからです。

働く時は仕事に精根を打ち込め

 レクリエーションを予定すること

 これは、特に勧めなくても、今の人は予定しすぎるくらいでしょう。しかし、一つ大切なことが忘れられているのではないか、と心配です。
 それは、レクリエーションの楽しみを胸に描きながらも、働く時は仕事に精根を打ち込むということです。それによって仕事の成果も上がり、したがってレクリエーションの時間も、心おきなく楽しめるのです。私の生まれた村はたいへん祭りの多い所でしたが、それが楽しみで、祭りから祭りの間はじつによく働き、近在の村のうちではいちばん豊かでした。この事実は、百万言より貴重だと思います。
 仕事をする時、それに最善を尽くしていないと、遊ぶとき心から楽しめません。なんとなく胸の奥にわだかまる影があります。
 そうしますと、せっかくの遊びがレクリエーションでなくなります。レクリエーション(recreation)の原意は(再び創造する)ということで、仕事で疲労した心身を娯楽やスポーツによってイキイキとよみがえらせることを言うのです。
 ですから、せっかくのレクリエーションが(再創造)にならなければ、こんど仕事にかかった時も、百パーセントの力が出せません。
 そうすると、仕事の成績も上がらず職場がおもしろくなくなり、それが家庭の空気にも影響を及ぼし、こういった悪循環は恐ろしい結果を招きます。ギャンブルに凝って人生を台無しにするなど、こういったケースの典型です。
 (レクリエーションを予定する)、それはあくまでも張り切って働くためのものであり、レクリエーションそのものも自分の本業を立派に遂行するためのものであることを忘れてはなりません。
(つづく)
 仏陀座像部分マトウラー
 絵 増谷直樹

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