心が変われば世界が変わる
―一念三千の現代的展開―(8)
立正佼成会会長 庭野日敬
「人さまのために」の哲学
清浄身の楽しさが尊い
他人のために尽くすこと。
他人のために尽くすことがストレスの解消に役立ち、従って健康のためにもよい……これはわたし自身が十二分に体験しています。立正佼成会を創立したころは牛乳配達をしていたのですが、お導きや手どりに飛び歩くために商売はだんだん細るばかり、あげくは質屋通いをしなければならない始末でした。これが、もし商売一途にやっていながらそんな状態に陥ったのだったら、それこそ心配で夜も眠れなかったことでしょうが、「人さまのため」という一心があったばかりに、じつに気が楽でした。どんな貧乏も苦になりませんでした。朝四時に起きて、夜寝るのは十二時過ぎという、心身共に酷使する生活を何年も続けながら、健康そのものでした。
このような全生活をあげての奉仕活動ではなくても、余暇を活用したボランティア活動や日常のちょっとした人さまへの親切行を体験したことのある人は、その行為に伴う何とも言えぬホノボノとした心の楽しさを味わわれたはずです。その楽しさは、娯楽や遊びなどの楽しさとは違った、もっと高貴な感じのものだったはずです。心身脱落と言いますか、心身にコビリついていた(我)というものがスッポリ脱けて自由自在の清浄身になったような、そんな感じの楽しさだったはずです。それです。それが尊いのです。そのような楽しさを味わえば、ストレスなどいっぺんに飛んでいってしまうのです。
なぜ、人のために尽くせば自分がそのような快さを覚えるのか。その根源の理由を探(たず)ねれば、疑いもなくそれが宇宙の万物を成り立たせている(持ちつ持たれつ=諸法無我)の真理にピタリと合致した行いであるからです。バランスの理に合致した行いであるからです。
諸法無我の真理に合致
われわれは自分だけの力で生きているのではなく、宇宙の万物に生かされているのです。自分を中心にして考えれば、無数の物や人に持たれつして生きているのです。その恩恵を受けっ放しにして、こちらが他の存在に恩恵を与えることがなければ、つまり能動的に持ちつすることがなければ、(持ちつ持たれつ)は完成しません。両方のバランスがとれないのです。ですから、他のために尽くすことはそうした根源的なバランスをとり、調和をつくり出す行いだからこそ、快さを覚えるのです。
とりわけ現実の人間世界においては、利己という煩悩が盛んで、他人のためを思う心は一般的に薄いのが実情です。それだけに、心ある人々が積極的に他のために尽くしてバランスを取る社会的必要があるのです。従って、そうした積極的な奉仕の行いをすれば、心に覚える快さはまた格別のものがあるわけです。こうした快さは、その人自身の心を清め、暖める高貴な喜びですから、それを味わえば味わうほど人格が高まっていくのです。仏教で菩薩行ということを強調する根本の理由は、以下のようなところにあると思うのです。
昭和三十八年度の東大の卒業式に際して、当時の茅誠司学長が卒業生に与えられた言葉は、「人に親切を尽くしなさい」ということでした。これを新聞で読んで、わたしは心から嬉しく思いました。そして、茅さんは本当の意味で偉い人だと感服しました。なぜなら、日本で最高の学府とされている東大の卒業生に対して、そんな平凡なことはなかなか言えないものです。「なにをいまさら古臭いことを……」とか「ぼくらを小学生と同じように思っているのか」とかいう反発が返ってくることは必至だからです。それをあえてされた茅さんは、理論物理学者としてよりも、一人の菩薩として尊い方だと思うのです。そしてこの一言は、単に東大の卒業生ばかりでなく、日本人全体に与える痛切な(菩薩の言葉)だったと思うのです。
その前年に亡くなられた(雪の科学者)中谷宇吉郎理学博士は、臨終に際して遺言らしい遺言はされませんでしたが、奥さんに対してただ一言、「人には親切にしてあげなさいよ」と言われたといいます。じつに千万の言葉にまさる偉大な遺言だったと思います。
己を心身共に高める慈悲行
ハシノク王と王妃が、ある日城の宮殿で四方の景色を眺めながら話し合っているうちに、話題が「自分より愛(いと)しいものがあるだろうか」という問題にたちいたりました。二人とも同じく「自分より愛しいものはない」という結論に達しました。それは、日ごろ、釈尊に教えて頂いていることと反対のように思われましたので、王は早速、祇園精舎に参って率直にそのことを打ち明け、教えを乞いました。すると釈尊は、偈を説いてこう教えられました。
「人の思いはどこへでもおもむくことができる。しかし、どこへおもむこうとも、人は自分より愛しいものを見出すことはできない。しかし、他の人々の身になれば、やはり同じように自分自身がこの上なく愛しいのである。であるから、自分の愛しいことを知る者は、他のものにも慈(いつく)しみをかけねばならない」
なんという理性的な教えでありましょう。自分を愛するものは他人にも慈しみをかけよ、それでバランスがとれるのだ、調和が生ずるのだ……という、宇宙の真理に根底を置くお考えと拝察されます。慈悲というのは、単なる感情ではなく、もっと奥の深いものだということが、これでもわかります。だからこそ、慈悲行というものは個個人を心身共に高めると同時に、社会全体の平和にも不可欠のものなのであります。
(つづく)
ひげのある王の頭部
絵 増谷直樹
―一念三千の現代的展開―(8)
立正佼成会会長 庭野日敬
「人さまのために」の哲学
清浄身の楽しさが尊い
他人のために尽くすこと。
他人のために尽くすことがストレスの解消に役立ち、従って健康のためにもよい……これはわたし自身が十二分に体験しています。立正佼成会を創立したころは牛乳配達をしていたのですが、お導きや手どりに飛び歩くために商売はだんだん細るばかり、あげくは質屋通いをしなければならない始末でした。これが、もし商売一途にやっていながらそんな状態に陥ったのだったら、それこそ心配で夜も眠れなかったことでしょうが、「人さまのため」という一心があったばかりに、じつに気が楽でした。どんな貧乏も苦になりませんでした。朝四時に起きて、夜寝るのは十二時過ぎという、心身共に酷使する生活を何年も続けながら、健康そのものでした。
このような全生活をあげての奉仕活動ではなくても、余暇を活用したボランティア活動や日常のちょっとした人さまへの親切行を体験したことのある人は、その行為に伴う何とも言えぬホノボノとした心の楽しさを味わわれたはずです。その楽しさは、娯楽や遊びなどの楽しさとは違った、もっと高貴な感じのものだったはずです。心身脱落と言いますか、心身にコビリついていた(我)というものがスッポリ脱けて自由自在の清浄身になったような、そんな感じの楽しさだったはずです。それです。それが尊いのです。そのような楽しさを味わえば、ストレスなどいっぺんに飛んでいってしまうのです。
なぜ、人のために尽くせば自分がそのような快さを覚えるのか。その根源の理由を探(たず)ねれば、疑いもなくそれが宇宙の万物を成り立たせている(持ちつ持たれつ=諸法無我)の真理にピタリと合致した行いであるからです。バランスの理に合致した行いであるからです。
諸法無我の真理に合致
われわれは自分だけの力で生きているのではなく、宇宙の万物に生かされているのです。自分を中心にして考えれば、無数の物や人に持たれつして生きているのです。その恩恵を受けっ放しにして、こちらが他の存在に恩恵を与えることがなければ、つまり能動的に持ちつすることがなければ、(持ちつ持たれつ)は完成しません。両方のバランスがとれないのです。ですから、他のために尽くすことはそうした根源的なバランスをとり、調和をつくり出す行いだからこそ、快さを覚えるのです。
とりわけ現実の人間世界においては、利己という煩悩が盛んで、他人のためを思う心は一般的に薄いのが実情です。それだけに、心ある人々が積極的に他のために尽くしてバランスを取る社会的必要があるのです。従って、そうした積極的な奉仕の行いをすれば、心に覚える快さはまた格別のものがあるわけです。こうした快さは、その人自身の心を清め、暖める高貴な喜びですから、それを味わえば味わうほど人格が高まっていくのです。仏教で菩薩行ということを強調する根本の理由は、以下のようなところにあると思うのです。
昭和三十八年度の東大の卒業式に際して、当時の茅誠司学長が卒業生に与えられた言葉は、「人に親切を尽くしなさい」ということでした。これを新聞で読んで、わたしは心から嬉しく思いました。そして、茅さんは本当の意味で偉い人だと感服しました。なぜなら、日本で最高の学府とされている東大の卒業生に対して、そんな平凡なことはなかなか言えないものです。「なにをいまさら古臭いことを……」とか「ぼくらを小学生と同じように思っているのか」とかいう反発が返ってくることは必至だからです。それをあえてされた茅さんは、理論物理学者としてよりも、一人の菩薩として尊い方だと思うのです。そしてこの一言は、単に東大の卒業生ばかりでなく、日本人全体に与える痛切な(菩薩の言葉)だったと思うのです。
その前年に亡くなられた(雪の科学者)中谷宇吉郎理学博士は、臨終に際して遺言らしい遺言はされませんでしたが、奥さんに対してただ一言、「人には親切にしてあげなさいよ」と言われたといいます。じつに千万の言葉にまさる偉大な遺言だったと思います。
己を心身共に高める慈悲行
ハシノク王と王妃が、ある日城の宮殿で四方の景色を眺めながら話し合っているうちに、話題が「自分より愛(いと)しいものがあるだろうか」という問題にたちいたりました。二人とも同じく「自分より愛しいものはない」という結論に達しました。それは、日ごろ、釈尊に教えて頂いていることと反対のように思われましたので、王は早速、祇園精舎に参って率直にそのことを打ち明け、教えを乞いました。すると釈尊は、偈を説いてこう教えられました。
「人の思いはどこへでもおもむくことができる。しかし、どこへおもむこうとも、人は自分より愛しいものを見出すことはできない。しかし、他の人々の身になれば、やはり同じように自分自身がこの上なく愛しいのである。であるから、自分の愛しいことを知る者は、他のものにも慈(いつく)しみをかけねばならない」
なんという理性的な教えでありましょう。自分を愛するものは他人にも慈しみをかけよ、それでバランスがとれるのだ、調和が生ずるのだ……という、宇宙の真理に根底を置くお考えと拝察されます。慈悲というのは、単なる感情ではなく、もっと奥の深いものだということが、これでもわかります。だからこそ、慈悲行というものは個個人を心身共に高めると同時に、社会全体の平和にも不可欠のものなのであります。
(つづく)
ひげのある王の頭部
絵 増谷直樹