心が変われば世界が変わる
―一念三千の現代的展開―(37)
立正佼成会会長 庭野日敬
理解から生まれる真の愛情
愛さなくても理解はできる
前回引き続き、(愛)と(理解)ということについて、もう少し考えていってみましょう。
人間の心の理想の境地は、一切のものを等しく愛することでありましょうけれども、実際問題として、仏ならぬ凡夫にとってはなかなか難しいことです。自分の子供や、気の合う友人や、慕わしい異性などは、「愛せよ」と言われなくても愛する気持になります。しかし、暴力団員や、汚職する役人や、自分に圧迫をかけてくる敵対者などは、いくら「等しく愛せよ」と言われても、なかなかそんな気持になれないのが普通です。
ところが、暴力団員にせよ、汚職役人にせよ、それらの人たちがどんな因縁でそうなったかを思いめぐらして、「気の毒な人だなあ」と理解することはできます。敵対者に対しても、心を静めて客観的に観察し、相手にもそれなりの立場があることを理解することはできます。
普通人は、蝶やトンボを愛しますが、汚らしい蠅や、刺して血を吸う蚊は憎みます。ところが、俳人・一茶は「やれ打つな蠅が手をする足をする」と歌っています。密林の聖者・シュバイツアー博士は、蠅や蚊一匹殺さなかったそうです。一茶の場合は、不遇と流離のどん底生活にはぐくまれた弱者への立場の理解から発した声でしょうし、シュバイツアー博士の場合はハッキリと「いかなるものにも生きる権利はある」とその理由を述べておられます。いずれにしても、理解から生まれた愛情だと思います。
不変の愛情は理解から
自然発生的な愛情は「愛はきまぐれ」という言葉どおり、熱烈に愛していた異性が、フトしたキッカケでいやでいやでたまらなくなることもあります。「可愛さ余って憎さが百倍」というケースもしばしばあります。それに対して、理解から発した愛情は、静かではあるが永続性があります。不変性があります。大乗仏教で説く慈悲とは、そのような愛情だとわたしは思うのです。
その証拠には、在家の信仰者である菩薩のために説かれた六波羅蜜は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六ヵ条で、慈悲という徳目はありません。これについて、わたしは次のように解釈しています(この六ヵ条は別々の徳目としても成り立ちますが、人間向上のための一連の修養過程と考えるほうがより適切だと思います)。
在家の普通人には、いきなり「人に対して愛情をもて」と説いても無理なので「人間らしい人間になるためには、まず人さまのために尽くしてみなさい」と、行動から入ることを勧めるのです。素直な心でそれを受け取って、とにもかくにも人のために尽くしてみますと、必ずその分だけ心がきれいになります。そして、みっともないことができなくなります。身を慎む気持が生じます。それが持戒です。身を慎む気持があると、感情を爆発させず、万事によく耐え忍ぶようになります。それが忍辱です。耐え忍ぶ習慣ができますと、正しい道に一心に努め励むことができるようになります。それが精進です。正しい道に一心に励んでいると、心がそれに集中するようになり、従って、物事に動揺しない静かな深い心をもち得るようになります。それが禅定です。心が静まり、深まってきますと、自然と世の中の実相が見えてき、本当の生き方とは何かということもわかってきます。それが智慧にほかなりません。
そうした智慧が身につきますと、慈悲という徳はひとりでに生じてくるのです。なぜならば、この世の中の実相は、すべてのものが相依相関した大調和の世界だ、ということがしっかり理解されますので、どの人を見ても、どの動物・植物を見ても、「一緒に生きている仲間だ」という友情を抱かざるをえなくなるからです。そのような友情をこそ慈悲といい、そのような友情こそ永続性のある、不変の愛情なのです。
理解されたという感銘こそ
理解から生じた愛情とは、このように深く、そして広い愛情です。ですから、そのような愛情を受ける人は、単にベタベタ愛されるのとは違った、深い感銘を受けるのです。わたしのある知人が、少年のころ、尊敬する叔父さんにひどく叱られたときのことを語ってくれました。その叔父さんは「頭のいいお前が、なぜそんなバカなことをしたんだ」と言ったそうです。なぜ叱られたのかといういきさつも、叱責の言葉も、すっかり忘れてしまったのに、「頭のいいお前が……」という一語だけは、強烈に心に刻まれて忘れられないというのです。そして、その後の何十年の人生において、何かに挫折感を覚えたり、前途に不安を覚えたりしたとき、必ずその一語がよみがえってきて、「おれは頭がいいはずだ、よし……」と気を取り直すことができた……という述懐でした。
これは、実にいい話だと思います。理解を示す言葉こそ愛の言葉です。あなたも、子供を叱ったり、友人を励ましたりするとき、必ず相手に対する理解の言葉を添えることを忘れないで欲しいものです。「愛語よく廻天のちからあり」とはこのことなのです。(つづく)
鑑真大和上像頭部(唐招提寺)
絵 増谷直樹
―一念三千の現代的展開―(37)
立正佼成会会長 庭野日敬
理解から生まれる真の愛情
愛さなくても理解はできる
前回引き続き、(愛)と(理解)ということについて、もう少し考えていってみましょう。
人間の心の理想の境地は、一切のものを等しく愛することでありましょうけれども、実際問題として、仏ならぬ凡夫にとってはなかなか難しいことです。自分の子供や、気の合う友人や、慕わしい異性などは、「愛せよ」と言われなくても愛する気持になります。しかし、暴力団員や、汚職する役人や、自分に圧迫をかけてくる敵対者などは、いくら「等しく愛せよ」と言われても、なかなかそんな気持になれないのが普通です。
ところが、暴力団員にせよ、汚職役人にせよ、それらの人たちがどんな因縁でそうなったかを思いめぐらして、「気の毒な人だなあ」と理解することはできます。敵対者に対しても、心を静めて客観的に観察し、相手にもそれなりの立場があることを理解することはできます。
普通人は、蝶やトンボを愛しますが、汚らしい蠅や、刺して血を吸う蚊は憎みます。ところが、俳人・一茶は「やれ打つな蠅が手をする足をする」と歌っています。密林の聖者・シュバイツアー博士は、蠅や蚊一匹殺さなかったそうです。一茶の場合は、不遇と流離のどん底生活にはぐくまれた弱者への立場の理解から発した声でしょうし、シュバイツアー博士の場合はハッキリと「いかなるものにも生きる権利はある」とその理由を述べておられます。いずれにしても、理解から生まれた愛情だと思います。
不変の愛情は理解から
自然発生的な愛情は「愛はきまぐれ」という言葉どおり、熱烈に愛していた異性が、フトしたキッカケでいやでいやでたまらなくなることもあります。「可愛さ余って憎さが百倍」というケースもしばしばあります。それに対して、理解から発した愛情は、静かではあるが永続性があります。不変性があります。大乗仏教で説く慈悲とは、そのような愛情だとわたしは思うのです。
その証拠には、在家の信仰者である菩薩のために説かれた六波羅蜜は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六ヵ条で、慈悲という徳目はありません。これについて、わたしは次のように解釈しています(この六ヵ条は別々の徳目としても成り立ちますが、人間向上のための一連の修養過程と考えるほうがより適切だと思います)。
在家の普通人には、いきなり「人に対して愛情をもて」と説いても無理なので「人間らしい人間になるためには、まず人さまのために尽くしてみなさい」と、行動から入ることを勧めるのです。素直な心でそれを受け取って、とにもかくにも人のために尽くしてみますと、必ずその分だけ心がきれいになります。そして、みっともないことができなくなります。身を慎む気持が生じます。それが持戒です。身を慎む気持があると、感情を爆発させず、万事によく耐え忍ぶようになります。それが忍辱です。耐え忍ぶ習慣ができますと、正しい道に一心に努め励むことができるようになります。それが精進です。正しい道に一心に励んでいると、心がそれに集中するようになり、従って、物事に動揺しない静かな深い心をもち得るようになります。それが禅定です。心が静まり、深まってきますと、自然と世の中の実相が見えてき、本当の生き方とは何かということもわかってきます。それが智慧にほかなりません。
そうした智慧が身につきますと、慈悲という徳はひとりでに生じてくるのです。なぜならば、この世の中の実相は、すべてのものが相依相関した大調和の世界だ、ということがしっかり理解されますので、どの人を見ても、どの動物・植物を見ても、「一緒に生きている仲間だ」という友情を抱かざるをえなくなるからです。そのような友情をこそ慈悲といい、そのような友情こそ永続性のある、不変の愛情なのです。
理解されたという感銘こそ
理解から生じた愛情とは、このように深く、そして広い愛情です。ですから、そのような愛情を受ける人は、単にベタベタ愛されるのとは違った、深い感銘を受けるのです。わたしのある知人が、少年のころ、尊敬する叔父さんにひどく叱られたときのことを語ってくれました。その叔父さんは「頭のいいお前が、なぜそんなバカなことをしたんだ」と言ったそうです。なぜ叱られたのかといういきさつも、叱責の言葉も、すっかり忘れてしまったのに、「頭のいいお前が……」という一語だけは、強烈に心に刻まれて忘れられないというのです。そして、その後の何十年の人生において、何かに挫折感を覚えたり、前途に不安を覚えたりしたとき、必ずその一語がよみがえってきて、「おれは頭がいいはずだ、よし……」と気を取り直すことができた……という述懐でした。
これは、実にいい話だと思います。理解を示す言葉こそ愛の言葉です。あなたも、子供を叱ったり、友人を励ましたりするとき、必ず相手に対する理解の言葉を添えることを忘れないで欲しいものです。「愛語よく廻天のちからあり」とはこのことなのです。(つづく)
鑑真大和上像頭部(唐招提寺)
絵 増谷直樹