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心が変われば世界が変わる
 ―一念三千の現代的展開―(10)
 立正佼成会会長 庭野日敬

批判も競争もほどほどに

人のアラを気にしない

 他人への批判はのんびりやること

 前項でも述べましたように、あらゆる点で完全な人というものは、現実の世界ではまずありません。それなのに、われわれ凡夫は、自分の不完全なことはタナに上げて、自分と関係の深い夫・妻・姑・嫁・上司・同僚などに対しては、ともすれば完全を望みがちなのです。そうしますとほとんどの場合、期待は裏切られます。相手の欠点がイヤに目について、腹が立ったり、失望したり、心に波風が立ち騒ぎます。すると、どうなるでしょうか。
 お釈迦さまが「火に熱せられて沸騰している水は物の姿を如実に映すことはできない。風に波立っている水も物の本当の姿を映すことはできない。人間の心もその通りである」とお説きになりましたように、腹を立てたり、失望したりして、波風の立っている心で見ると、相手の本当の姿が見えなくなり、美点・長所までが目につかなくなるのです。そして、人間関係は悪化の一途をたどるのです。
 ですから、身辺の人間関係を和やかにし、心の平和を保つためには、人のアラを気にしないことです。お汁粉にも、甘酒にも、少しばかり塩を入れたほうが味がよくなるように、人間も少しばかり欠点があったほうが味わいがあるものです。一点も非の打ちどころのない美人はかえって冷たい感じがして近寄り難いのに対して、少し目尻が下がっていたり、ちょっぴり団子鼻だったりすると、いかにも魅力があり、親しみがもてるものです。人間性もそれと同様で、少々あわて者だったり、間の抜けたところがあったり、どうでもいいことに熱狂したり、とにかく少しばかりの短所があったほうがかわいげがあり、ユーモラスでもあり、人間らしいものです。
 人のアラが目についても、このような見方で、微笑みをもって包容すれば、こちらも気が楽になります。反対に、人のアラをいちいち取り上げて気にしたり、批判したりすれば、自分自身の心も緊迫し、波立ち、イライラし、一つとしていいことはありません。「他人の批判はのんびりやる」というのは、ここのところを言ったものと思います。

共に持ちつ持たれつの関係

 相手にも機会を与えること

 世の中には、何がなんでも人に勝たねばならぬ、相手より上に立たねば気がすまぬ……と、いつも闘争精神を燃やしている人があります。そんな人はよく「この世は生存競争の世の中だ。強い者が生き残るのだ」という理論を吐きます。私は若いころから、この(生存競争)という言葉が何となく嫌いでしたが、仏法を知るに至って、理念の上でもハッキリとその誤りもわかり、機会あるごとに、その思想を排撃することにしています。
 地球上の動植物の生態を見ますと、確かに生存のための競争があるように見えます。しかし、それは大自然のホンの表面をなでたような見方です。つまり、それぞれの生物の個体の生死の問題を見ているに過ぎないのであって、もっと高い観点から見れば、万物の生死が大きなサイクル(循環)を形成し、永遠のいのちとして、つながっていることが見えてくるはずです。つまり、諸行は無常でありながら、その奥にある宇宙のいのちは永遠なのです。
 大宇宙には何千億兆とも知れぬ天体が虚空に浮かび整々たる運行を続けているわけですが、それは決して競争しているのではなく、万有引力による持ちつ持たれつの関係を保っているのです。仏法から言えば、(諸法無我の理による大調和)それが宇宙の姿なのです。

宇宙の実相に即して生きる

 アメリカの哲人エマーソンは、「人間は大宇宙の一片である」と言いました。二千五百年前のお釈迦さまはもっと深く「すべての人間は久遠実成の本仏(宇宙の大生命)の分身である」と見通されたのです。人間が大宇宙の一片であり、宇宙の大生命の分身であるからには、(大調和による共存)という宇宙の実相に即して生きるのが、正しい生き方であることに間違いはありません。ですから、そのように生きることによって、心の安らぎも、社会の平和も生まれるのです。それをこそ涅槃寂静というのです。
 話がつい理論的になってしまいましたが、あなた個人を中心とする小さな社会でも、その理論はそのまま働くのです。目に見える結果として実現するのです。まずあなた自身が、いたずらに他と競争し、他に勝つことばかりを考えずに、相手にもチャンスを与えて力を伸ばしてあげ、しあわせになってもらうよう心がけて欲しいのです。そうすれば、第一にあなた自身の心に安らぎが生じます。
 しかも、相手も以心伝心であなたの思いやりに感謝し、協力するようになりましょう。そうした協調の輪がだんだん広がることによって、この世は確実に平和になっていくのであります。(つづく)
 ガンダーラ仏
 絵 増谷直樹

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