経典のことば(70)
立正佼成会会長 庭野日敬
諸仏は五濁(じょく)の悪世に出でたもう。所謂(いわゆる)劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁なり
(法華経・方便品)
つねに新しい生命力を
この一句に説かれていることをつくづくと思い巡らしてみますと、二十世紀末の現在の世相に対する重大な警告が含まれていると思われてなりません。
劫濁(こうじょく)というのは、ある時代が長くつづいたときに起こる世の濁りです。人間の体も、年老いてくると動脈は硬化し筋肉の働きも鈍くなり、万事にハツラツさが欠けてきます。それと同じように世の中全体も、ともすれば惰性的になり形式主義的になり、目の前の仕事を無難に片づけていけばよいといった気風に墮してしまいがちです。
世の中全体ばかりでなく、一つの団体(特に政治団体)についても一つの事業体についても同様のことがいえます。そして、そうなると、その存在の生命力は衰えていかざるを得ません。
それを防ぐためには、本来の存立の精神は堅持しながらも、常に方便力を働かせて新しい血液を創り出し、または注入しなければなりません。標記のことばのすぐ後に「諸仏、方便力を以て、一仏乗に於て分別して三と説きたもう」とあるのを、実生活への応用課題として、このように受け取ってもいいと考えます。
煩悩濁というのは、人々の煩悩がますます盛んになるために起こる世の濁りです。大むかしは生活が単純でしたから、煩悩といっても生存欲と種族保存欲から出たものだけで、それも割合浅いものでした。
ところが、だんだん世の中が複雑になり、文明が進むにつれて、物質への執らわれが強くなり、それに権勢欲・名誉欲などが加わり、それらが度を越して貪欲となってしまうので、世の中がどうしようもなく濁ってくるのです。先ごろついに没落したフィリピンのマルコス政権などがいちばん顕著な例でしょう。
諸仏の代理として
衆生濁とは、個人主義による濁りです。それぞれの個人が自己の存在を主張し、大切にするのは当然のことですが、ともすれば全体を忘れて自分本位にばかり振る舞うようになりがちで、それがいつの間にか全体をそこなってしまうわけです。そういう時代にこそ「すべては一つ」という法華経の教えに立ち返らなければなりますまい。
見濁とは、モノの見方がそれぞれ違うために起こる世の乱れです。思想の自由が認められている時代でもあり、いろいろな見方があるのはいいことですが、末法の悪世においては邪見が横行して正見を圧倒してしまう傾向があるために、世の中が濁ってくるのです。例えば、道徳教育などは不要だという論がまかり通ったために、子供の世界にまでイジメや非行がはびこるようになったのは、目の前に見られる明らかな実例です。
命濁とは、人間の寿命が短くなるために起こる世の濁りということです。これは現在の先進諸国における平均寿命の延びから見ると反対の現象のように思われますが、アフリカや東南アジア諸国等の現状および人類全体の将来を考えますと、必ずしもそうとは言い切れません。ましてや第三次世界大戦でも起ころうものなら、核の冬の中に生き残った人々の寿命は、十年以下になりましょう。
このような五濁の悪世にこそ、このような危機をはらんだ時代にこそ、諸仏は出現されるというのです。二十世紀末の現在がちょうどその時ではないでしょうか。このとき、われわれが、手をこまねいて諸仏の出世を待ってばかりいては、かえって仏さまのみ心に反することになりましょう。仏さまの使いとして、代理として、不変の大真理である仏道を世に広めるためにあらゆる努力を尽くす、そのこと自体が「諸仏の出世」に当たるのではないでしょうか。よくよく考えるべきことだと思います。
=おわり=
題字と絵 難波淳郎
立正佼成会会長 庭野日敬
諸仏は五濁(じょく)の悪世に出でたもう。所謂(いわゆる)劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁なり
(法華経・方便品)
つねに新しい生命力を
この一句に説かれていることをつくづくと思い巡らしてみますと、二十世紀末の現在の世相に対する重大な警告が含まれていると思われてなりません。
劫濁(こうじょく)というのは、ある時代が長くつづいたときに起こる世の濁りです。人間の体も、年老いてくると動脈は硬化し筋肉の働きも鈍くなり、万事にハツラツさが欠けてきます。それと同じように世の中全体も、ともすれば惰性的になり形式主義的になり、目の前の仕事を無難に片づけていけばよいといった気風に墮してしまいがちです。
世の中全体ばかりでなく、一つの団体(特に政治団体)についても一つの事業体についても同様のことがいえます。そして、そうなると、その存在の生命力は衰えていかざるを得ません。
それを防ぐためには、本来の存立の精神は堅持しながらも、常に方便力を働かせて新しい血液を創り出し、または注入しなければなりません。標記のことばのすぐ後に「諸仏、方便力を以て、一仏乗に於て分別して三と説きたもう」とあるのを、実生活への応用課題として、このように受け取ってもいいと考えます。
煩悩濁というのは、人々の煩悩がますます盛んになるために起こる世の濁りです。大むかしは生活が単純でしたから、煩悩といっても生存欲と種族保存欲から出たものだけで、それも割合浅いものでした。
ところが、だんだん世の中が複雑になり、文明が進むにつれて、物質への執らわれが強くなり、それに権勢欲・名誉欲などが加わり、それらが度を越して貪欲となってしまうので、世の中がどうしようもなく濁ってくるのです。先ごろついに没落したフィリピンのマルコス政権などがいちばん顕著な例でしょう。
諸仏の代理として
衆生濁とは、個人主義による濁りです。それぞれの個人が自己の存在を主張し、大切にするのは当然のことですが、ともすれば全体を忘れて自分本位にばかり振る舞うようになりがちで、それがいつの間にか全体をそこなってしまうわけです。そういう時代にこそ「すべては一つ」という法華経の教えに立ち返らなければなりますまい。
見濁とは、モノの見方がそれぞれ違うために起こる世の乱れです。思想の自由が認められている時代でもあり、いろいろな見方があるのはいいことですが、末法の悪世においては邪見が横行して正見を圧倒してしまう傾向があるために、世の中が濁ってくるのです。例えば、道徳教育などは不要だという論がまかり通ったために、子供の世界にまでイジメや非行がはびこるようになったのは、目の前に見られる明らかな実例です。
命濁とは、人間の寿命が短くなるために起こる世の濁りということです。これは現在の先進諸国における平均寿命の延びから見ると反対の現象のように思われますが、アフリカや東南アジア諸国等の現状および人類全体の将来を考えますと、必ずしもそうとは言い切れません。ましてや第三次世界大戦でも起ころうものなら、核の冬の中に生き残った人々の寿命は、十年以下になりましょう。
このような五濁の悪世にこそ、このような危機をはらんだ時代にこそ、諸仏は出現されるというのです。二十世紀末の現在がちょうどその時ではないでしょうか。このとき、われわれが、手をこまねいて諸仏の出世を待ってばかりいては、かえって仏さまのみ心に反することになりましょう。仏さまの使いとして、代理として、不変の大真理である仏道を世に広めるためにあらゆる努力を尽くす、そのこと自体が「諸仏の出世」に当たるのではないでしょうか。よくよく考えるべきことだと思います。
=おわり=
題字と絵 難波淳郎