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経典のことば(69)
立正佼成会会長 庭野日敬

未だ自ら度すること能わざれども、巳に能く彼を度せん
(無量義経・十功徳品)

平凡な選手が名監督に

 無量義経の中でこれがいちばん尊いことばだ……と言っても差し支えないでしょう。このお経のあとに説かれる法華経では、人を仏道に導く菩薩行を最高の美徳としていますが、自分はまだ悟ってもいないし、人を導くなんて……と思っている一般大衆にとって、これぐらい大きな励ましはないと思います。
 「度する」というのは、救うということです。サンズイのある「渡」と同じ意味で、迷いの世界である此岸(しかん=こちらの岸)から、悟りの世界である彼岸(ひがん=向こう岸)へ渡らせるという意味です。
 この一句を読むごとに思い出すのは、野球の監督やコーチに、現役時代にはパッとしなかった人がよくあることです。とくに高校野球の監督に多いようです。逆に、現役時代は名選手といわれた人が、監督としてはどうも思わしくない例が往々にしてあることはご存じのとおりです。
 こういう現象はどこから起こるのでしょうか。名選手といわれた人には多分に天才的なところがあるのに対して、下積みだった人はいわば平均的な凡人だったのです。凡人だったからこそ、自分の欠点もよくわかり、その欠点を直そうと血の出るような苦労をした。すると、他の欠点も長所もよくわかるようになる。従って、監督やコーチとして、未熟な者を育てたり、チームをまとめたりする役目になったとき、その苦労の体験がモノをいうわけでしょう。

人の頭上のハエを追いつつ

 かつてある本で読んだことですが、大酒飲みで酒代のために三人の子のふだん着まで質に入れ、二十年間に五十回も職を変えた人が、ある断酒会でついに酒をやめたという話です。
 その人はまず、ためしに三日ほど酒をやめてみたところ、断酒会の仲間から「たいしたもんだ」と褒められ、褒められると悪い気がせず、さらに断酒を続けました。その会では、みんなが酒と自分との関係についてざっくばらんに話をします。ざっくばらんに自分を語るためには自分をみつめなければならない。その人と、自分の心をみつめることができるようになった。まだ酒への未練は十分残っている。飲みたくてたまらない。しかし、飾りけのない仲間たちを裏切ってまで飲むことはできない……とジッと我慢しつづけていました。
 そのうちに、新しく入会してきた仲間たちのことを夢中で心配するようになり、なぜ酒をやめなければならないかを懸命に説得するようになりました。心の底から相手のことも思って話をするので、新しい入会者たちもつぎつぎに断酒の意志を固めていったのです。すると、後輩たちを説得することがそのまま自分自身を説得することになり、とうとう三年近く一滴も飲まずに過ごしたのです。
 そのとき、その人が言ったことばが面白いのです。「てめえの頭の上のハエは人が追ってくれると思い、てめえは人さまの頭の上のハエを追っているうちに、つけ焼刃の意志力がホンモノになりかけているのかもしれません」。
 これこそが、「未だ自らを度すること能わざれども、巳に能く彼を度せん」を地でいったスバラシイ見本だと思います。
 わたしどもの会にも、ふつうのお年寄りですでに何百人もの人を仏道に導いた人がいます。まだ二十歳そこそこでたくさんの人を入会させた人もいます。要は、相手を救おうという熱意の問題、愛情の問題なのです。これが菩薩行の第一の条件だと知るべきでしょう。

題字と絵 難波淳郎

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