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経典のことば(56)
立正佼成会会長 庭野日敬

悪(あ)しき業(わざ)を楽しみとしてはならぬ
酒を飲まば程を過ごしてはならぬ
(小部経典・大吉祥経)

いじめはどうして起こる

 このおことばをつくづくと味わってみますと、お釈迦さまはなんという人心の機微を鋭くとらえておられた方だろう、そして何というものわかりのいい方だろう……と感歎せざるをえません。というのも、悟りを開かれる前に二十九年ものあいだ俗人としての生活をなさったせいではないだろうか……と思われるのです。
 悪いことを楽しみにしてはならない、とはどんなことでしょうか。
 人間は動物の一種であるからには、闘争心というものを根底に持っています。残虐性すら潜在意識の中に潜ませているのです。
 子供たちは、トンボのしっぽをむしり取り、草の茎などを差しこんで飛ばすような残虐なことをします。お釈迦さまが、小川で捕らえた魚を踏んづけて遊んでいる子供たちに、「お前たちがこのようにいじめられたら苦しいだろうとは思わないか」と質問され、子供たちが「苦しいと思います」と答えたところで、「そうだろう。そのことを考えればいじめるのはよくないことだとわかるだろう」と諭された話は有名です。
 子供はよくケンカします。たいていのケンカは一過性のもので、「腹が立ったからなぐった」「なぐったからなぐりかえした」で、たいてい終わりになるものです。
 ところが、そうした「悪しき業」を楽しみにするようになったら、恐ろしいことになります。いま教育の問題を超えて社会問題にまでなりつつあるいじめは、じつにこうした心理から起こっているのです。弱い子をからかい、いじめることに楽しみを感じ、快楽を覚えるからこそ、しつこく、そして、次第に悪質なやり方でいじめるようになるわけです。
 このことに深く思いをいたし、お釈迦さまがなさったように自省心を起こさせるか、あるいは楽しみをほかのことに振り向けさせるような指導がぜひ必要ではないか、とわたしは思います。

酒はほどほどに

 次にお酒のことですが、お釈迦さまが不飲酒戒を定められたからといって、心のどこかで罪悪感を覚えながら飲んでいるような人がいるかもしれませんが、お釈迦さまのご本意は「自制せよ」というところにあったようです。
 ということは、比丘に対する不飲酒戒が定められたいきさつからも推察することができます。(魔訶僧祗律巻二十)にこうあります。
 お釈迦さまがクセンミ国にとどまっておられたとき、クセンミ国にかんばつが続いているのは悪竜のせいだとして、人々がサーガタという比丘に調伏(じょうぶく)を頼みました。サーガタは神通力をもって見事に悪竜を調伏したので、雨が降り、五穀が豊かに実るようになりました。
 人々はサーガタを招待して、たいへんなごちそうをしました。そのとき出された酒を飲み過ごしたサーガタが精舎に帰りますと、ちょうど世尊は大衆を集めて法を説いておられました。
 それほど酔ったとは思っていなかったサーガタが、その席につらなって説法を聞いているうちに、酔いが発してきて、いつしか世尊の前で横になり足を伸ばして寝込んでしまったのです。
 世尊がどうしたわけでこんな不作法をするのかと他の比丘にお尋ねになりますと、その比丘は「飲酒すること多きに過ぎて酔臥するなり」と答えました。そこで、世尊は「今日より後、飲酒することを許さず」と仰せになりました。この問答からしても、それ以前は飲み過ぎない程度なら許されていたようなのです。
 いずれにしても、少量の酒は百薬の長ともいわれていますし、不飲酒戒を「絶対」と考えなくてもいいように思われます。
題字と絵 難波淳郎

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