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経典のことば(54)
立正佼成会会長 庭野日敬

己れに勝る有るを見るも嫉妬を生ぜず。己れ他に勝るを見るも憍慢を生ぜず。
(優婆塞戒経巻三)

嫉妬にはプラスがない

 優婆塞(うばそく=在家の男子修行者)に対する戒めは、「殺生をするな」「盗みをするな」「嘘をつくな」「よこしまな性行為をするな」「酒を飲むな」の五戒が基本となっています。しかし、もしお釈迦さまが二十世紀の現在に生きていらっしゃったら、「酒を飲むな」の代わりに「嫉妬をするな」をお入れになったのではなかろうか……と推察されます。
 それほど嫉妬を強くお戒めになっておられ、出曜経の中でも「嫉(ねた)みはまず己れを傷つけ、後に人を傷つける」と説かれ、また「その報いは天に向かって唾を吐くようなもので、それは自分の顔に降りかかってくるのである」ともお説きになっておられます。
 才能とか、技術とか、地位とかが自分より優れた人を見て、「よし、あの人のようになろう」と発奮・努力するのは、もちろんいいことです。そうした前向きの姿勢に反して、羨(うらや)むとか嫉(ねた)むとかいう心作用にはただマイナスしかありません。
 羨むというのはうらがやむことです。うらは「うら寂しい」などというように「心」のことで、やむは「病む」です。つまり、羨望することは自分の心が病むばかりで、いささかのプラスもないのです。
 ねたむの語源は、むねいたむ(胸痛む)とも、ねいたむ(根痛む)ともいわれ、これまた、そのまま、自分の心を傷つけるものなのです。
 ですから、自分の力ではどうにもならぬ他人の属性や境遇、例えば生まれつきの美貌とか、富豪の家に育ったとか、自然に持っているスター性等々に対しては、「あの人にはあの人の世界があり、自分には自分の世界がある」とあっさり割り切ることが大事だと思うのです。人間としての本質は自他すこしも変わりはなく、違っているのは現象の上ばかりに過ぎないのですから。

不嫉妬と不憍慢は相通ず

 松下幸之助さんの言葉に「他人は自分より偉いのだと考えるほうが得(とく)だ」というのがあります。松下さんは、生家の事情で小学校を中途退学したので、成人してからも他人がみんな自分より偉く見え、どんな人の話にも素直に耳を傾ける習慣が身についたのだそうです。
 そうした習性によって他人から吸収できたものは測りしれぬほど大きく、そのおかげで今日の大を成されたのだそうです。経営の神さまとまでいわれる今でも、人の意見を聞いて学ぶ姿勢は変わらず、すなわち憍慢なところが少しもないと聞いています。
 つまり、少年時代から自分に勝る人を嫉む心がなく、素直な、へり下った心を持っておられたからこそ、今日のような大御所的存在になっても憍慢の気持ちが起こらないのでありましょう。
 結局、不嫉妬と不憍慢は表裏一体をなす心の姿勢であり、どちらが卵でどちらが鶏ともいえない関係にあると思います。
 最近の世相を眺めてみますと、どの階層にも嫉妬のドス黒い影が渦巻いています。子供の世界にもそれがあって、最近、中学二年生の十一人の女生徒が、転校してきた子が男子生徒に人気があるというので殴る蹴るの暴行を加えたことが報道されました。恐ろしいことです。
 嫉みは己れと人とを傷つける不毛の心作用です。憍慢はその裏返しで、これまた己れの人格を低下させ、人の心をかき乱すものです。たいていのことにはプラス面とマイナス面があるものですが、嫉妬と憍慢にはただマイナスしかない!……このことをよくよく胸に刻んでおきたいものです。
題字と絵 難波淳郎

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