経典のことば(50)
立正佼成会会長 庭野日敬
我未だ道を得ざる時、功徳なき時には、諸の衆生等我と共に語らず、況や復た供養せんや。是の故に当に知るべし、功徳を供養して我を供養せざるを。
(大荘厳経論 巻十五)
らくだに積まれた財宝を
このお言葉の前に、次のような話が説かれています。
タクシャシーラ国のハクロウラという村にショウカバッダという人が住んでいた。先代までは大長者であったが、今はおちぶれて貧窮のどん底にあった。親族も、友人たちも、一人としてつきあってくれる者はなく、みんな軽蔑の目で見るばかりであった。
彼は村にいたたまれなくなり、よりよい人生を求めて旅に出た。そして大秦国(中国)に行き、そこで大成功を収め、巨万の富を得た。そして年老いてから故郷に帰ってきた。
これを聞いた親族や友人たちは、手のひらを返すような態度で、山海の珍味を用意し、香をたき、音楽を奏して、途中まで出迎えた。
ショウカバッダはわざと粗末な服を着、大勢のお供に混じって行列のいちばん前を歩いていた。故郷を後にしてから数十年たっていたので、その顔を見覚えている者はない。それで、本人とはつゆ知らず、
「あの……ショウカバッダさんはどこにおられますか」
と尋ねた。彼は、
「後ろのほうから来られます」
と答えて行き過ぎてしまった。
いくら待ってもそれらしい人がいないので、行列の後ろの人に聞いた。
「ショウカバッダさんは、どのお方ですか」
「いちばん前に歩いておられましたよ」
それを聞いてみんなが前へ駆けて行き、ようやく本人をみつけて、
「わたくしどもがわざわざ出迎えたのに隠れておられるとは、どういうわけですか」
と聞くと、こう答えるのだった。
「あなた方が会いたいと思われるショウカバッダは、あのらくだの背に積んである財宝でしょう。わたし自身ではないでしょう」
仏教の信仰は「法」の信仰
そこで標記のことばが生きてくるのです。
仏さまを賛え、仏さまを供養申し上げるのは、その悟られた真理を賛え、その真理をわれわれに説いてくださったことに感謝して供養申し上げるのです。それに加えて、悟りを開かれるまでの骨身を削るようなご努力を礼拝し、絶大な感謝をささげるべきでありましょう。
そのことは無量義経の徳行品の最後の偈にはっきりと述べられています。
「あまねく一切のもろもろの道法を学して、智慧深く衆生の根に入りたまえり、このゆえにいま自在の力を得て、法に於て自在にして法王となりたまえり。われまたことごとく共に稽首(けいしゅ)して、よくもろもろの勤め難きを勤めたまえるに帰依したてまつる」
われわれは、ともすれば、与えられる功徳のみを有り難く思い、その功徳のみに感謝しがちです。功徳を有り難く思うのも人情の常であって、あながち否定し去ることはありますまい。しかし、それのみに片寄り、そのためにのみ信仰するようになれば、信仰の本筋から外れてしまいます。なぜならば、そんな人は、功徳が現れないとさっさと信仰を捨ててしまうからです。
仏法の信仰は、あくまでも説かれた法に対する信仰でなくてはなりません。らくだの背に積まれた財宝を拝むようなのは邪道であると知るべきでしょう。
題字と絵 難波淳郎
立正佼成会会長 庭野日敬
我未だ道を得ざる時、功徳なき時には、諸の衆生等我と共に語らず、況や復た供養せんや。是の故に当に知るべし、功徳を供養して我を供養せざるを。
(大荘厳経論 巻十五)
らくだに積まれた財宝を
このお言葉の前に、次のような話が説かれています。
タクシャシーラ国のハクロウラという村にショウカバッダという人が住んでいた。先代までは大長者であったが、今はおちぶれて貧窮のどん底にあった。親族も、友人たちも、一人としてつきあってくれる者はなく、みんな軽蔑の目で見るばかりであった。
彼は村にいたたまれなくなり、よりよい人生を求めて旅に出た。そして大秦国(中国)に行き、そこで大成功を収め、巨万の富を得た。そして年老いてから故郷に帰ってきた。
これを聞いた親族や友人たちは、手のひらを返すような態度で、山海の珍味を用意し、香をたき、音楽を奏して、途中まで出迎えた。
ショウカバッダはわざと粗末な服を着、大勢のお供に混じって行列のいちばん前を歩いていた。故郷を後にしてから数十年たっていたので、その顔を見覚えている者はない。それで、本人とはつゆ知らず、
「あの……ショウカバッダさんはどこにおられますか」
と尋ねた。彼は、
「後ろのほうから来られます」
と答えて行き過ぎてしまった。
いくら待ってもそれらしい人がいないので、行列の後ろの人に聞いた。
「ショウカバッダさんは、どのお方ですか」
「いちばん前に歩いておられましたよ」
それを聞いてみんなが前へ駆けて行き、ようやく本人をみつけて、
「わたくしどもがわざわざ出迎えたのに隠れておられるとは、どういうわけですか」
と聞くと、こう答えるのだった。
「あなた方が会いたいと思われるショウカバッダは、あのらくだの背に積んである財宝でしょう。わたし自身ではないでしょう」
仏教の信仰は「法」の信仰
そこで標記のことばが生きてくるのです。
仏さまを賛え、仏さまを供養申し上げるのは、その悟られた真理を賛え、その真理をわれわれに説いてくださったことに感謝して供養申し上げるのです。それに加えて、悟りを開かれるまでの骨身を削るようなご努力を礼拝し、絶大な感謝をささげるべきでありましょう。
そのことは無量義経の徳行品の最後の偈にはっきりと述べられています。
「あまねく一切のもろもろの道法を学して、智慧深く衆生の根に入りたまえり、このゆえにいま自在の力を得て、法に於て自在にして法王となりたまえり。われまたことごとく共に稽首(けいしゅ)して、よくもろもろの勤め難きを勤めたまえるに帰依したてまつる」
われわれは、ともすれば、与えられる功徳のみを有り難く思い、その功徳のみに感謝しがちです。功徳を有り難く思うのも人情の常であって、あながち否定し去ることはありますまい。しかし、それのみに片寄り、そのためにのみ信仰するようになれば、信仰の本筋から外れてしまいます。なぜならば、そんな人は、功徳が現れないとさっさと信仰を捨ててしまうからです。
仏法の信仰は、あくまでも説かれた法に対する信仰でなくてはなりません。らくだの背に積まれた財宝を拝むようなのは邪道であると知るべきでしょう。
題字と絵 難波淳郎