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法華三部経の要点 ◇◇38
立正佼成会会長 庭野日敬

信ずる人こそ救われる

日常生活も信で成り立つ

 薬草諭品のギリギリの要点は、久遠の仏さまの大慈悲はあらゆる衆生に平等にそそがれているのだということです。そう聞かされてもなかなか信じられない人があるかもしれません。そんな人は、救いのレールに乗りきれない気の毒な人です。前回に「信」こそが宗教の「根」であることについて説明しましたが、じつはわれわれの日常生活も「信」によってこそ成り立っているのです。
 バスに乗るにしても、暗黙のうちに運転手さんを信頼しておればこそ何のためらいもなく乗り込めます。理髪店に行っても、理容師さんを信用しておればこそあの鋭いカミソリを顔やノドに当てさせます。牛乳を買っても、そのブランドを信用しておればこそ安心して飲みます。それらに対していちいち疑いを持ったらとても暮らしていけません。
 さて、久遠の仏さまは、われわれの五官(目・耳・鼻・舌・皮膚)で感じとることはできません。この世のものごとはおおむね五官で感じとれますが、絶対的な存在とも言える久遠の仏さまは、われわれの五官で直接感じとるというわけにはいかないのです。だから信じられないのでしょうが、それは、自分の五官で感じとれるものしか信用しない物質万能的な考えの人です。
 久遠の仏さまだけでなく、この大宇宙の万物万象の中には、自分の五官のみで直接認識することができないことは、いろいろとあります。例えば、すべての物質は電子・陽子・中性子といった素粒子で出来ているということについて、もはやだれも疑念をいだきませんが、あなたはそれを見ることができますか。宇宙の果てにあるというクェーサー星は秒速二十数万キロメートルの速度で地球から遠ざかっているそうですが、あなたにはそれが見えますか。久遠の仏さまが五官で感じとれないから信じられないというのはそれと同じではないでしょうか。

ながむる人の心にぞすむ

 久遠の仏さまの大慈悲を信ずるか信じないか、それはあなたが本質的に救われるか救われないかの分かれ道なのです。このことはむかしからよく月の光にたとえて説かれます。法然上人の歌にこういうのがあります。
 月かげのいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ
 月の光はどの町どの村にも平等にふりそそいでいるのだが、それを眺める人がどう受け取るかによってその価値に大きな差が生ずるというのです。
 この「すむ」というのは「住む」と「澄む」の両方の意味を込めてあります。月の光を浴びていながらそれには全く無関心で、金もうけのことなどばかりを考えている人もありましょう。そんな人は、月の光になんらの印象も覚えず、なんらの感慨ももよおさない。精神的な深い喜びを知らない哀れな人です。
 それに対して「ああ、いい月だなあ」とうち仰いでそぞろ歩きをするような人の心にこそ月の光が「住む」のです。「宿る」のです。さらに、その月を見上げながら、その光に天地のいのちの不思議を感じ、永遠ということに思いを馳(は)せ、心が洗われたような気持ちになる人があったら、そんな人の心にこそ月かげは「澄む」のです。
 仏さまの慈悲もそれと同じです。あらゆる人に平等にそそがれているのですけれども、それを信じない人は何の喜びも感じません。喜びを感じないから本質的な救いに縁がないのです。いわゆる「縁なき衆生は度し難し」です。
 反対に「ああ、仏さまに生かされている。ありがたい!」と感じる人は、しみじみとした歓喜を覚えます。そのような人の心にこそ仏さまの大慈悲はとどこおりなく、濁りなく、そのままスーッと通ずる。つまり、仏さまのみ心がその人の心に住み(宿り)もし、澄みわたりもする。
 まことに、信ずる人こそが幸せな人であり、ほんとうの意味で救われる人なのであります。


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