まあ、最近私は時々こうした方便の使い方についていろいろと注文を付けるんですが、だいたい姓名学の法則というのは、とにかく読み下しの意義が、あまり無理にこじつけたような、口が回らんような、舌がとまどってしまうようなことではなくて、いい塩梅に流れがよくて、庭野日敬、長沼妙佼と、たとえばこういうふうに…。名前はこういう流れるように読み下せることが大事だ。そして、読み下しの意義も庭の野原でお日さまを仰いで敬う。どうです、庭野日敬というのはいい名前でしょう。 (笑) 長沼妙佼という名前これもね、ゴロもいいし、陰陽もいいし、名前そのものの画数もいい。長沼というと、陰と陰の組み合せで黒星ばっかりだなんて言って、長沼という苗字にケチを付ける必要はない。先祖にうまく従っていけるような、そういう名前を付けてあげればいいのです。子供の名前の方は苗字の方に従って付ければいいわけです。
仏教というのは因縁を説くものであります。つまり、どういう因縁の人はどういうふうになるかということを教えて下さっているわけです。それでは全然因縁ということは関係ないのかというと、そんなことはない。けれども、先祖の名前がどうだからどうだなんてことはないんだ。ご先祖さまはご先祖さまなんです。問題はそこに生まれ合わせた自分が、先祖に対してどういう姿勢をとるか、どういう心になるかというのが大事なことなんです。
ですから、私共はご先祖さまの供養をさせて頂いておりますが、自分のご先祖さまがうんと成功した人ならば、それはそれでたいへん有り難いことだ。また成功しないで貧乏の家に生まれさせて頂いていても、そんなことは関係ないんだ。貧乏の家に生まれ合わせた人は、やはり昔からですね、あまり豊かになると怠け者になったり横着になったりする可能性があるからなんですよ。そんなことより五体満足に生まれさせて頂いたということに対して、まずご先祖さまに心から感謝を申し上げて、そして自分の為すべきことをきちんとしていけばそれだけでいいのです。ご先祖さまがたくさんのお金を残そうがそうでなかろうが、財産を残そうがそうでなかろうが、そんなことは問題じゃあない。自分の努力次第でどのようにでも幸せになれるということを仏教は教えて下さっているのであります。
仏教では、固定して、こうだああだということでなくして、すべてのものはみな因縁によってなっているのであって、やはり、諸法は無我なんですね。それがとかこれがとか、決まっているものではない。動かないものじゃあない。常に動いているものだ。