妙佼先生は〝心の姿〟を教えた
月日の経つのは早いものでございます。妙佼先生が亡くなられて、今年でもう26回忌ということでございます。今年はまた、たいへん忙しい年でございます。今年の正月に、私は皆さま方に「神さまの御心の如くに行ずれば幸せが来ますよ」と申し上げたわけでありますが、神さまはまるで「一時も法華経行者はジッとしていてはいけない」とご命令のようで、今日もこの説法を終えましたら、すぐにお昼を頂戴して金沢の方へ出かけなければならない。そういうようなことで、今日は普段着のままで駆け出してきた、こういうわけであります。
実は、今日私が説法するなんて知らないで、私はうっかりしておりまして、あわてて駆け出てまいったわけなんです。また、中国の宗教者の方々が日本の宗教事情の視察のために日本においでになって、そして本会に来られて、しかも今日、団長さまが私共にご挨拶も下さるということもありまして、夢中になって、忙しがっておるもんですから、うっかり忘れてしまった。そうこうしているうちに私の番が回って来たのであわてて出て来た。こういうことです。 (笑)
まあ、妙佼先生がご在世であれば「服装なんて何でもいい、心さえしっかりしていればいい」と、まあ、おそらく妙佼先生も私のこの服装のことなんか問題になさらないと思いますので、安心して出てきたわけです。 (拍手)
先程ありし日の妙佼先生のことをいろいろやっておりましたが、妙佼先生にちょいちょいお会いした方々の中には、あまりにも想像外のご注意を頂くので気が転倒してしまって、どう考えていいのか分からないというような体験もあったろうと思います。今日は、妙佼先生に直接導かれた元の豊島教会長さんの保谷さんが、思い出を語るということでテレビでやっておりましたが、私は控室の方で中国からの視察団の団長さんに、お話を頂いたお礼を申し上げたり、ご挨拶を申し上げたりしていたものですから、あまりよく保谷さんの話を聞けなかったんですが、まあ、妙佼先生という人はその人その人の心の中を本当にお見通しだった。保谷さんは妙佼先生に直接に導かれた方ですから、おそらく一番お小言を頂いた方だったと思うんです。しかしまた、そういう修行をさせて頂いたからこそ今日こうして幸せでいられるわけなんですね。妙佼先生は〝心の姿〟を教えた
月日の経つのは早いものでございます。妙佼先生が亡くなられて、今年でもう26回忌ということでございます。今年はまた、たいへん忙しい年でございます。今年の正月に、私は皆さま方に「神さまの御心の如くに行ずれば幸せが来ますよ」と申し上げたわけでありますが、神さまはまるで「一時も法華経行者はジッとしていてはいけない」とご命令のようで、今日もこの説法を終えましたら、すぐにお昼を頂戴して金沢の方へ出かけなければならない。そういうようなことで、今日は普段着のままで駆け出してきた、こういうわけであります。
実は、今日私が説法するなんて知らないで、私はうっかりしておりまして、あわてて駆け出てまいったわけなんです。また、中国の宗教者の方々が日本の宗教事情の視察のために日本においでになって、そして本会に来られて、しかも今日、団長さまが私共にご挨拶も下さるということもありまして、夢中になって、忙しがっておるもんですから、うっかり忘れてしまった。そうこうしているうちに私の番が回って来たのであわてて出て来た。こういうことです。 (笑)
まあ、妙佼先生がご在世であれば「服装なんて何でもいい、心さえしっかりしていればいい」と、まあ、おそらく妙佼先生も私のこの服装のことなんか問題になさらないと思いますので、安心して出てきたわけです。 (拍手)
先程ありし日の妙佼先生のことをいろいろやっておりましたが、妙佼先生にちょいちょいお会いした方々の中には、あまりにも想像外のご注意を頂くので気が転倒してしまって、どう考えていいのか分からないというような体験もあったろうと思います。今日は、妙佼先生に直接導かれた元の豊島教会長さんの保谷さんが、思い出を語るということでテレビでやっておりましたが、私は控室の方で中国からの視察団の団長さんに、お話を頂いたお礼を申し上げたり、ご挨拶を申し上げたりしていたものですから、あまりよく保谷さんの話を聞けなかったんですが、まあ、妙佼先生という人はその人その人の心の中を本当にお見通しだった。保谷さんは妙佼先生に直接に導かれた方ですから、おそらく一番お小言を頂いた方だったと思うんです。しかしまた、そういう修行をさせて頂いたからこそ今日こうして幸せでいられるわけなんですね。保谷さんの旦那さまは私と同じ年であったんですけれども、だいぶ早くに亡くなられた。だから奥さんが一人で子供を育てられた。そして、子供たちはみんな立派に成長なされて、今ではみんな独立されて幸せになっておられる。これも、妙佼先生から厳しいお功徳を頂いた、そのたまものなんだと申し上げても言い過ぎでないと思うのであります。そのように保谷さんは、非常なご苦労の最中だったのですが、妙佼先生から厳しく法華経というものの味わいを味あわせて頂いた。でありましたから、真実顕現になって教学が打ち出されますと、「なるほど、これだ」と、本当に自信を持たれた。信念がいっぺんにふき出してきたようになられて、そして長いこと教会長を務めて頂いた。しかし、お年をとりましたので後進に道を譲りまして、今は組織の中にいるのでなくて、組織の外から、大所高所から佼成会をしっかりと見守って頂いている。と同時に今日までの体験を生かして後進の方々に指導して頂いているのであります。
保谷さんの旦那さまは私と同じ年であったんですけれども、だいぶ早くに亡くなられた。だから奥さんが一人で子供を育てられた。そして、子供たちはみんな立派に成長なされて、今ではみんな独立されて幸せになっておられる。これも、妙佼先生から厳しいお功徳を頂いた、そのたまものなんだと申し上げても言い過ぎでないと思うのであります。そのように保谷さんは、非常なご苦労の最中だったのですが、妙佼先生から厳しく法華経というものの味わいを味あわせて頂いた。でありましたから、真実顕現になって教学が打ち出されますと、「なるほど、これだ」と、本当に自信を持たれた。信念がいっぺんにふき出してきたようになられて、そして長いこと教会長を務めて頂いた。しかし、お年をとりましたので後進に道を譲りまして、今は組織の中にいるのでなくて、組織の外から、大所高所から佼成会をしっかりと見守って頂いている。と同時に今日までの体験を生かして後進の方々に指導して頂いているのであります。
自分自身の努力次第で、どのようにでも幸せになれることを仏教では教えている
今井支部長さんのご説法を伺っておりまして、一つ気づいたことがありましたので、少し申し上げたいと思います。皆さん方はたいへんよく勉強しておられるけれども、方便というものは使い方で、ちょっとうっかりしていると狂いがでてしまう。方便というのは即真実につながるものなんですけれども、先程の今井さんの話の中に方便の使い方で間違いがありましたので、私の方から訂正をしておこうと、こう思います。それは何かというと、浅岡という家に生まれて、19画だから因縁が悪いなんて言っておりましたが、私はそんなことは教えた覚えはない。これは間違いであります。でないと、浅岡という人はみんな先祖代々因縁が悪いということになってしまう。そうなると私は庭野家で21画だから、庭野という家に生まれた人はどんなおかしな者でも、どんなに行いが悪い者でも幸せになってしまうということになる。これでは仏法が嘘になってしまう。苗字というのは先祖代々ずうっと伝わってきたものであり、浅岡であろうが庭野であろうが高橋であろうが、そんなことは因縁が悪いこととは関係ない。先祖さまに因縁がいいとか悪いとか言ってはいかんのです。要は、浅岡という先祖とのつながりが陰陽に入るか入らないかということが大事なんです。生まれてから付けられたところの名前が、苗字とどういう組み合せになるか、付けられた名前が何画であるか、そして、名前と苗字の組み合せが全体としてどういう組み合せになるか、どういう意義になるかというのが問題なのであり、先祖さまから頂いた苗字を見て因縁が悪いだなんて、そんなことはない。田中という苗字は9画だから因縁が悪いなんて、そんなことはない。田中という苗字の人だっていくらでもいい人はいる。ですから、苗字がどうだこうだということは問題にならない。ご先祖さまの苗字の画数を見て因縁が悪いなんて、そんなケチなことを私は教えた覚えはない。
ですから、今井さんは今日から浅岡という19画の悪い因縁は切れたと考えて頂いて、浅岡家のご先祖さまに対してお詑びと感謝を申し上げてほしいと、こう思うのであります。
苗字の方はそのままにして、名前の方をちゃんと付ける。やはり陰陽が大切ですから、陰陽に入るようにちゃんと名前を付ける。そして意義もよくて、総画もよくなるような名前を付ければもう間違いはない。自分自身の努力次第で、どのようにでも幸せになれることを仏教では教えている
今井支部長さんのご説法を伺っておりまして、一つ気づいたことがありましたので、少し申し上げたいと思います。皆さん方はたいへんよく勉強しておられるけれども、方便というものは使い方で、ちょっとうっかりしていると狂いがでてしまう。方便というのは即真実につながるものなんですけれども、先程の今井さんの話の中に方便の使い方で間違いがありましたので、私の方から訂正をしておこうと、こう思います。それは何かというと、浅岡という家に生まれて、19画だから因縁が悪いなんて言っておりましたが、私はそんなことは教えた覚えはない。これは間違いであります。でないと、浅岡という人はみんな先祖代々因縁が悪いということになってしまう。そうなると私は庭野家で21画だから、庭野という家に生まれた人はどんなおかしな者でも、どんなに行いが悪い者でも幸せになってしまうということになる。これでは仏法が嘘になってしまう。苗字というのは先祖代々ずうっと伝わってきたものであり、浅岡であろうが庭野であろうが高橋であろうが、そんなことは因縁が悪いこととは関係ない。先祖さまに因縁がいいとか悪いとか言ってはいかんのです。要は、浅岡という先祖とのつながりが陰陽に入るか入らないかということが大事なんです。生まれてから付けられたところの名前が、苗字とどういう組み合せになるか、付けられた名前が何画であるか、そして、名前と苗字の組み合せが全体としてどういう組み合せになるか、どういう意義になるかというのが問題なのであり、先祖さまから頂いた苗字を見て因縁が悪いだなんて、そんなことはない。田中という苗字は9画だから因縁が悪いなんて、そんなことはない。田中という苗字の人だっていくらでもいい人はいる。ですから、苗字がどうだこうだということは問題にならない。ご先祖さまの苗字の画数を見て因縁が悪いなんて、そんなケチなことを私は教えた覚えはない。
ですから、今井さんは今日から浅岡という19画の悪い因縁は切れたと考えて頂いて、浅岡家のご先祖さまに対してお詑びと感謝を申し上げてほしいと、こう思うのであります。
苗字の方はそのままにして、名前の方をちゃんと付ける。やはり陰陽が大切ですから、陰陽に入るようにちゃんと名前を付ける。そして意義もよくて、総画もよくなるような名前を付ければもう間違いはない。まあ、最近私は時々こうした方便の使い方についていろいろと注文を付けるんですが、だいたい姓名学の法則というのは、とにかく読み下しの意義が、あまり無理にこじつけたような、口が回らんような、舌がとまどってしまうようなことではなくて、いい塩梅に流れがよくて、庭野日敬、長沼妙佼と、たとえばこういうふうに…。名前はこういう流れるように読み下せることが大事だ。そして、読み下しの意義も庭の野原でお日さまを仰いで敬う。どうです、庭野日敬というのはいい名前でしょう。 (笑) 長沼妙佼という名前これもね、ゴロもいいし、陰陽もいいし、名前そのものの画数もいい。長沼というと、陰と陰の組み合せで黒星ばっかりだなんて言って、長沼という苗字にケチを付ける必要はない。先祖にうまく従っていけるような、そういう名前を付けてあげればいいのです。子供の名前の方は苗字の方に従って付ければいいわけです。
仏教というのは因縁を説くものであります。つまり、どういう因縁の人はどういうふうになるかということを教えて下さっているわけです。それでは全然因縁ということは関係ないのかというと、そんなことはない。けれども、先祖の名前がどうだからどうだなんてことはないんだ。ご先祖さまはご先祖さまなんです。問題はそこに生まれ合わせた自分が、先祖に対してどういう姿勢をとるか、どういう心になるかというのが大事なことなんです。
ですから、私共はご先祖さまの供養をさせて頂いておりますが、自分のご先祖さまがうんと成功した人ならば、それはそれでたいへん有り難いことだ。また成功しないで貧乏の家に生まれさせて頂いていても、そんなことは関係ないんだ。貧乏の家に生まれ合わせた人は、やはり昔からですね、あまり豊かになると怠け者になったり横着になったりする可能性があるからなんですよ。そんなことより五体満足に生まれさせて頂いたということに対して、まずご先祖さまに心から感謝を申し上げて、そして自分の為すべきことをきちんとしていけばそれだけでいいのです。ご先祖さまがたくさんのお金を残そうがそうでなかろうが、財産を残そうがそうでなかろうが、そんなことは問題じゃあない。自分の努力次第でどのようにでも幸せになれるということを仏教は教えて下さっているのであります。
仏教では、固定して、こうだああだということでなくして、すべてのものはみな因縁によってなっているのであって、やはり、諸法は無我なんですね。それがとかこれがとか、決まっているものではない。動かないものじゃあない。常に動いているものだ。まあ、最近私は時々こうした方便の使い方についていろいろと注文を付けるんですが、だいたい姓名学の法則というのは、とにかく読み下しの意義が、あまり無理にこじつけたような、口が回らんような、舌がとまどってしまうようなことではなくて、いい塩梅に流れがよくて、庭野日敬、長沼妙佼と、たとえばこういうふうに…。名前はこういう流れるように読み下せることが大事だ。そして、読み下しの意義も庭の野原でお日さまを仰いで敬う。どうです、庭野日敬というのはいい名前でしょう。 (笑) 長沼妙佼という名前これもね、ゴロもいいし、陰陽もいいし、名前そのものの画数もいい。長沼というと、陰と陰の組み合せで黒星ばっかりだなんて言って、長沼という苗字にケチを付ける必要はない。先祖にうまく従っていけるような、そういう名前を付けてあげればいいのです。子供の名前の方は苗字の方に従って付ければいいわけです。
仏教というのは因縁を説くものであります。つまり、どういう因縁の人はどういうふうになるかということを教えて下さっているわけです。それでは全然因縁ということは関係ないのかというと、そんなことはない。けれども、先祖の名前がどうだからどうだなんてことはないんだ。ご先祖さまはご先祖さまなんです。問題はそこに生まれ合わせた自分が、先祖に対してどういう姿勢をとるか、どういう心になるかというのが大事なことなんです。
ですから、私共はご先祖さまの供養をさせて頂いておりますが、自分のご先祖さまがうんと成功した人ならば、それはそれでたいへん有り難いことだ。また成功しないで貧乏の家に生まれさせて頂いていても、そんなことは関係ないんだ。貧乏の家に生まれ合わせた人は、やはり昔からですね、あまり豊かになると怠け者になったり横着になったりする可能性があるからなんですよ。そんなことより五体満足に生まれさせて頂いたということに対して、まずご先祖さまに心から感謝を申し上げて、そして自分の為すべきことをきちんとしていけばそれだけでいいのです。ご先祖さまがたくさんのお金を残そうがそうでなかろうが、財産を残そうがそうでなかろうが、そんなことは問題じゃあない。自分の努力次第でどのようにでも幸せになれるということを仏教は教えて下さっているのであります。
仏教では、固定して、こうだああだということでなくして、すべてのものはみな因縁によってなっているのであって、やはり、諸法は無我なんですね。それがとかこれがとか、決まっているものではない。動かないものじゃあない。常に動いているものだ。ですから、その動き方も過去に因縁が、何か原因となるものがあったからこそ、今、またここで次の縁に触れるわけなんですね。因縁の因という字は、四角の中に大という字が書いてありますが、これは先天的な因、大昔から自分が何をしてきたかということを意味する因であります。そして、因縁の縁、この〝縁〟というのは今世の出会いということでありますが、その両方を合わせたものを因縁と、こう言っているわけであります。過去世からの因と今世の出会い、その二つがどういうふうにかみ合っていくかということ、これが因縁ということなんです。
ですから、私共にとっては、今の出会い、今世の出会いというのが一番大事なんです。過去世はもう過ぎ去ってしまったことなんだから、これはしようがない。過去世のことをくよくよ言ったってしようがない。過去の因縁がよかろうが悪かろうが、そんなことはかまわない。
私などは生まれた時の運命は大ばさみで50画ですよ。ですから、50歳ぐらいになるとですね、現在の私のように幸せにはなれない。まあ、50歳になったら、杖をついて、首へ袋をかけて、皆さん方のところを「おめぐみを願いたい」と言って歩くような、そういう因緑なんだ。
それが、途中で法華経に巡り合って転迷開悟して、自分の今世の出会いというものを大事にしてきた。どんな人と出会っても、みんなよい出会いになるよう努力してよい因縁にしてきた。ですから、どんな悪因縁の人でも、過去世はともかくとして今世の出会いというのを上手にしていけば、出会った人との関係をすばらしくなるようにしていけば、必ず悪因縁の解決がついていくわけです。
皆さん方に「お導きをしなさい」と言うのも、そういう意味合いがあってのことなんです。一番大切なことは出会いをよくしなさいということなんです。出会った人が、自分の知っている人であっても、たとえ知らない人であっても、今こうして出会うということ、これは過去世からの因があったればこそなんだと、この考え方が仏教の摂理であります。
過去世からの因があるからこそ出会うことになるんだというのですから、まあ、お導きということもですね、この線に沿ってよくよく考えなくてはいけない。
親子は一世、夫婦は二世、そして主従は三世というんだ。「つまらない女房をもらっちゃって損しちゃった、60年の不作だ」なんてブスブス言ってるオヤジがよくいますが、そんな愚かなことであってはいけない。60年の不作だと言ってみたってこれは、夫婦というのは今世だけじゃあなくして前世からの約束があって、二世の因縁があってもらったんだから、二世の契りなんだから、これはもうしようがない。ですから、その動き方も過去に因縁が、何か原因となるものがあったからこそ、今、またここで次の縁に触れるわけなんですね。因縁の因という字は、四角の中に大という字が書いてありますが、これは先天的な因、大昔から自分が何をしてきたかということを意味する因であります。そして、因縁の縁、この〝縁〟というのは今世の出会いということでありますが、その両方を合わせたものを因縁と、こう言っているわけであります。過去世からの因と今世の出会い、その二つがどういうふうにかみ合っていくかということ、これが因縁ということなんです。
ですから、私共にとっては、今の出会い、今世の出会いというのが一番大事なんです。過去世はもう過ぎ去ってしまったことなんだから、これはしようがない。過去世のことをくよくよ言ったってしようがない。過去の因縁がよかろうが悪かろうが、そんなことはかまわない。
私などは生まれた時の運命は大ばさみで50画ですよ。ですから、50歳ぐらいになるとですね、現在の私のように幸せにはなれない。まあ、50歳になったら、杖をついて、首へ袋をかけて、皆さん方のところを「おめぐみを願いたい」と言って歩くような、そういう因緑なんだ。
それが、途中で法華経に巡り合って転迷開悟して、自分の今世の出会いというものを大事にしてきた。どんな人と出会っても、みんなよい出会いになるよう努力してよい因縁にしてきた。ですから、どんな悪因縁の人でも、過去世はともかくとして今世の出会いというのを上手にしていけば、出会った人との関係をすばらしくなるようにしていけば、必ず悪因縁の解決がついていくわけです。
皆さん方に「お導きをしなさい」と言うのも、そういう意味合いがあってのことなんです。一番大切なことは出会いをよくしなさいということなんです。出会った人が、自分の知っている人であっても、たとえ知らない人であっても、今こうして出会うということ、これは過去世からの因があったればこそなんだと、この考え方が仏教の摂理であります。
過去世からの因があるからこそ出会うことになるんだというのですから、まあ、お導きということもですね、この線に沿ってよくよく考えなくてはいけない。
親子は一世、夫婦は二世、そして主従は三世というんだ。「つまらない女房をもらっちゃって損しちゃった、60年の不作だ」なんてブスブス言ってるオヤジがよくいますが、そんな愚かなことであってはいけない。60年の不作だと言ってみたってこれは、夫婦というのは今世だけじゃあなくして前世からの約束があって、二世の因縁があってもらったんだから、二世の契りなんだから、これはもうしようがない。そういう意味では、親子の間柄の方が夫婦の間柄よりも浅いんですね。親子は一世ですから。親との関係というものは体をもらったという関係だけで、今世と過去世という二代にわたってるんじゃあなくて今世だけなんですから。
ところが、お導きの親子関係、主従の関係というものは三世だから、前世の、そのまた前の世からしての因縁があったと、こういうわけです。そういう前の前の世からの因縁があってこそお導きを頂けるということになるんですね。ですから不思議に導きの子供というのは、よく見てみますとまったく自分の性格とよく似たところがあったり、自分と同じ因縁の持ち合せがあったりするんですね。ですから、親子や夫婦でも話し合えないようなことでも、信仰上の親子だと懺悔が楽にできる。心の中から本当のことが吐ける。こういうことになるわけであります。やはり、本当のことを吐くから、正直に自分の過去を全部告白するから、どういう方法をとったら真の因縁の解決になるかが分かって幸せになるわけなんですね。やはり仏教は「佛種は縁に従って起ると知めす」なんです。
そして、因縁というものはどういうふうになってるかと言うと、それは善因は善果、悪因は悪果ということなんだ。だから、今世の出会いというものをよい方に行くようにしていけばよくなっていくし、悪い方に行ってしまったら悪くなっていく。
どんな人と出会ってみても、出会いの中からすばらしい方向に転換させる道というものは必ず発見できるものなんです。お経をしっかりと読ませて頂いてみると、仏教をずうっと勉強してみるというと、不思議なくらいに、どなたとでも仲良くいける。
今日は中国から、仏教の方もキリスト教の方もおい出になっておられますが、仏教の方は、特に日本の仏教は中国から伝わってきたものですし同じ思想ですから、「これはこういうことだ」とお互いにすぐ分かります。では、キリスト教の方とは教えも異なるので分り合えないかというと、たしかにキリスト教と仏教では違う気がするのですが、よくよくお経を読んでみますと、法華経の21番の如来神力品には「通一仏土」と説かれている。この地球という一つの乗り物、一仏乗という乗り物にですね、私共は前の前、そのまた前の世から、ずうっと因縁があって、この一仏乗の乗り物である地球上に生まれてきたんだと。しかも今の時代にこうして生まれ合わせているということ、これを考えてみると、もう前世からなるべくしてなっているのであります。今世はちょっと因縁がですね、先にキリスト教の方にお導きを受けたために、たまたまキリスト教の方に入っているんだと。あるいはまた、仏教の方に入っているんだと。
これはもう、ちょっとの差であって、そういう差はね、根本的な差ではないわけなんだ。根底にはみな仏性を持って、この地球という仏さまの乗り物に一緒に乗り合わせていることに違いはないんですね。そういう意味では、親子の間柄の方が夫婦の間柄よりも浅いんですね。親子は一世ですから。親との関係というものは体をもらったという関係だけで、今世と過去世という二代にわたってるんじゃあなくて今世だけなんですから。
ところが、お導きの親子関係、主従の関係というものは三世だから、前世の、そのまた前の世からしての因縁があったと、こういうわけです。そういう前の前の世からの因縁があってこそお導きを頂けるということになるんですね。ですから不思議に導きの子供というのは、よく見てみますとまったく自分の性格とよく似たところがあったり、自分と同じ因縁の持ち合せがあったりするんですね。ですから、親子や夫婦でも話し合えないようなことでも、信仰上の親子だと懺悔が楽にできる。心の中から本当のことが吐ける。こういうことになるわけであります。やはり、本当のことを吐くから、正直に自分の過去を全部告白するから、どういう方法をとったら真の因縁の解決になるかが分かって幸せになるわけなんですね。やはり仏教は「佛種は縁に従って起ると知めす」なんです。
そして、因縁というものはどういうふうになってるかと言うと、それは善因は善果、悪因は悪果ということなんだ。だから、今世の出会いというものをよい方に行くようにしていけばよくなっていくし、悪い方に行ってしまったら悪くなっていく。
どんな人と出会ってみても、出会いの中からすばらしい方向に転換させる道というものは必ず発見できるものなんです。お経をしっかりと読ませて頂いてみると、仏教をずうっと勉強してみるというと、不思議なくらいに、どなたとでも仲良くいける。
今日は中国から、仏教の方もキリスト教の方もおい出になっておられますが、仏教の方は、特に日本の仏教は中国から伝わってきたものですし同じ思想ですから、「これはこういうことだ」とお互いにすぐ分かります。では、キリスト教の方とは教えも異なるので分り合えないかというと、たしかにキリスト教と仏教では違う気がするのですが、よくよくお経を読んでみますと、法華経の21番の如来神力品には「通一仏土」と説かれている。この地球という一つの乗り物、一仏乗という乗り物にですね、私共は前の前、そのまた前の世から、ずうっと因縁があって、この一仏乗の乗り物である地球上に生まれてきたんだと。しかも今の時代にこうして生まれ合わせているということ、これを考えてみると、もう前世からなるべくしてなっているのであります。今世はちょっと因縁がですね、先にキリスト教の方にお導きを受けたために、たまたまキリスト教の方に入っているんだと。あるいはまた、仏教の方に入っているんだと。
これはもう、ちょっとの差であって、そういう差はね、根本的な差ではないわけなんだ。根底にはみな仏性を持って、この地球という仏さまの乗り物に一緒に乗り合わせていることに違いはないんですね。譬諭品第三にありますように、「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く吾が子なり」と、この宇宙はみんな自分のものであると、こうお釈迦さまはおっしゃっておられる。仏さまの方からしては、キリスト教徒だからとかイスラム教徒だからとか、そんなことはちっとも差別をしておられない。悉くが我が子なんだと、こうおっしゃっておられる。そして、「而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す」と。この娑婆というところはなかなか苦労の多いところなんだ、たいへんな苦の娑婆だと。
たしかに苦はあるようでございます。考えようによっては……。しかし、その苦はどういうところから起こってきているのかと言うと、それは自分自身の心から起こってきているのである。だから、自分自身の心をよくよく吟味をしてみなさいと。そうして自分の心を吟味してみるというと、やっぱり「諸苦の所因は貪欲これ本なり、若し貪欲を滅すれば依止する所なし」と。あってもあっても、いや、あればあるほど欲をかきたいのが人間なんですね。
その貪欲をほどほどにすればいいということ、これがちゃんと分かったならば苦の因縁なんてものはない。無なんですよ。この世界はみんな無なんです。やはり諸法は無我なんです。我というものはないんです。〝オレがオレが〟というような我はないんだ。仏さまは私共がどういう考え方になって、どういうことに注意して行じたらどういう結果が出てくるかということを、実に合理的に、理論的に、もう、ビシッと教えて下さっているわけであります。苦が出てくるというのは、三毒というものを持って生まれてきているからなんだから、貪欲、瞋恚、愚痴という三毒というものをなくしてしまえばなんの苦もなくなるんだと、こういうわけであります。譬諭品第三にありますように、「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く吾が子なり」と、この宇宙はみんな自分のものであると、こうお釈迦さまはおっしゃっておられる。仏さまの方からしては、キリスト教徒だからとかイスラム教徒だからとか、そんなことはちっとも差別をしておられない。悉くが我が子なんだと、こうおっしゃっておられる。そして、「而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す」と。この娑婆というところはなかなか苦労の多いところなんだ、たいへんな苦の娑婆だと。
たしかに苦はあるようでございます。考えようによっては……。しかし、その苦はどういうところから起こってきているのかと言うと、それは自分自身の心から起こってきているのである。だから、自分自身の心をよくよく吟味をしてみなさいと。そうして自分の心を吟味してみるというと、やっぱり「諸苦の所因は貪欲これ本なり、若し貪欲を滅すれば依止する所なし」と。あってもあっても、いや、あればあるほど欲をかきたいのが人間なんですね。
その貪欲をほどほどにすればいいということ、これがちゃんと分かったならば苦の因縁なんてものはない。無なんですよ。この世界はみんな無なんです。やはり諸法は無我なんです。我というものはないんです。〝オレがオレが〟というような我はないんだ。仏さまは私共がどういう考え方になって、どういうことに注意して行じたらどういう結果が出てくるかということを、実に合理的に、理論的に、もう、ビシッと教えて下さっているわけであります。苦が出てくるというのは、三毒というものを持って生まれてきているからなんだから、貪欲、瞋恚、愚痴という三毒というものをなくしてしまえばなんの苦もなくなるんだと、こういうわけであります。「人がいいから頼まれると何でも引受ける」と妙佼先生は笑っておられるだろうが――
信仰をする人は非常にものごとを善意に解釈して下さる。私は、今日私が説法するなんて知らずにいて、この服装であわてて飛び出してきちゃった。脇祖妙佼先生の第二十六回目の祥月命日なんだから、こんなことでは誠に申し訳ないわけです。よくよく考えてみるとそうなんですけれども、なにしろ今日はこの説法が終ると、大急ぎでご飯を頂いて金沢へ説法に行かなくちゃあならない。そっちの方のことに気を奪われているもんだから……。まあ今日のプログラムが、どういう訳か私の方には回ってこなかったことも、あるにはあったんですが、「さあ、さあ、それじゃあ、失敗したなあ」と、こういうことなんです。けれども、「まあ、いいや、妙佼先生はその間の事情は一番よくご存知だから……」(笑)こう思って出てきたわけであります。今日はおそらくですね、妙佼先生が、例のしゃがれ声で「オヤジ、また自分一人で、オレがオレがと忙しがっているな」なんて言ってると思うんです。
明るい社会づくり運動の方もですね、私が行かなくても明社の方にも幹部さんはたくさんいらっしゃる。前のNHK会長であった前田義徳先生が明社の方の会長をして下さってる。ですから、本当は私がわざわざ行かなくたって、ちゃんと明るい社会づくりはできるんです。できるんだけれども、金沢の方の人から、「提唱者でもあるしするから、どうしても私に来てもらいたい」なんて言われるとね。「ああ、よしよし、行ってやるよ」なんて、もう簡単に引き受けちゃう。
だから、おそらく今日は、妙佼先生が「オヤジのやつ、人が良いから頼まれれば何でも引き受けちまう。だからそんなことになるんだ」なんて、おそらく笑ってるだろうと思うんです。ですけれども、一生懸命でやっている私の心の奥を妙佼先生は、ちゃんとお見通しだから、おそらく服装が悪いから説法していかんなどということはおっしゃらないと思うんです。 (拍手)
まあ、仏教をしっかりと行じていきますと、どんなことであっても苦労にならないんですね。頼まれれば素直に引き受けて、誠心誠意でそれを力一杯にやっていく。皆さん方に安心してもらえるように、この娑婆に人間として生まれたことが本当に幸せであったと思って頂けるように、そういう説法をしてあげたい。こういう気持ちで一生懸命でやっていますから。
まあ、それに年を取ったりしてますから、「さぞかしくたびれるだろう」とみなさんが心配して下さるんです。ところが、当人はいっこうにね。年を取ったというような感じはあまりしてない。 (拍手) まだまだ若い気持ちで元気いっぱいなんですよ。ですから、へたばるなんていうことはないんですよ。頼まれれば、どこへでも行きます。「人がいいから頼まれると何でも引受ける」と妙佼先生は笑っておられるだろうが――
信仰をする人は非常にものごとを善意に解釈して下さる。私は、今日私が説法するなんて知らずにいて、この服装であわてて飛び出してきちゃった。脇祖妙佼先生の第二十六回目の祥月命日なんだから、こんなことでは誠に申し訳ないわけです。よくよく考えてみるとそうなんですけれども、なにしろ今日はこの説法が終ると、大急ぎでご飯を頂いて金沢へ説法に行かなくちゃあならない。そっちの方のことに気を奪われているもんだから……。まあ今日のプログラムが、どういう訳か私の方には回ってこなかったことも、あるにはあったんですが、「さあ、さあ、それじゃあ、失敗したなあ」と、こういうことなんです。けれども、「まあ、いいや、妙佼先生はその間の事情は一番よくご存知だから……」(笑)こう思って出てきたわけであります。今日はおそらくですね、妙佼先生が、例のしゃがれ声で「オヤジ、また自分一人で、オレがオレがと忙しがっているな」なんて言ってると思うんです。
明るい社会づくり運動の方もですね、私が行かなくても明社の方にも幹部さんはたくさんいらっしゃる。前のNHK会長であった前田義徳先生が明社の方の会長をして下さってる。ですから、本当は私がわざわざ行かなくたって、ちゃんと明るい社会づくりはできるんです。できるんだけれども、金沢の方の人から、「提唱者でもあるしするから、どうしても私に来てもらいたい」なんて言われるとね。「ああ、よしよし、行ってやるよ」なんて、もう簡単に引き受けちゃう。
だから、おそらく今日は、妙佼先生が「オヤジのやつ、人が良いから頼まれれば何でも引き受けちまう。だからそんなことになるんだ」なんて、おそらく笑ってるだろうと思うんです。ですけれども、一生懸命でやっている私の心の奥を妙佼先生は、ちゃんとお見通しだから、おそらく服装が悪いから説法していかんなどということはおっしゃらないと思うんです。 (拍手)
まあ、仏教をしっかりと行じていきますと、どんなことであっても苦労にならないんですね。頼まれれば素直に引き受けて、誠心誠意でそれを力一杯にやっていく。皆さん方に安心してもらえるように、この娑婆に人間として生まれたことが本当に幸せであったと思って頂けるように、そういう説法をしてあげたい。こういう気持ちで一生懸命でやっていますから。
まあ、それに年を取ったりしてますから、「さぞかしくたびれるだろう」とみなさんが心配して下さるんです。ところが、当人はいっこうにね。年を取ったというような感じはあまりしてない。 (拍手) まだまだ若い気持ちで元気いっぱいなんですよ。ですから、へたばるなんていうことはないんですよ。頼まれれば、どこへでも行きます。人間に生まれた功徳、法華経に遇いえた功徳、その功徳に報恩感謝する心で世界の平和を実現
今月はまた、ソ連の方から私に来てくれと言うんです。 (拍手)
これもですね。アメリカの前のカーター大統領には、どうしても会いたいなどと無理を言って会見した。ところが、ソ連の方は共産主義だからというようなこともあって、どうしても疎遠になっておった。まあ、ソ連の宗教者の方は、どちらかというとロシア正教が多いんですが、例の1970年の第一回世界宗教者平和会議にぜひ参加して下さいと、お誘いしたら出席して下さった。そのおかげで、京都会議には共産主義国の人も入っていたということで、世間からですね、たいへんに大きな評価を頂いたわけです。また、同じ共産主義国の中国の方は、その後ですね、私が7年がかりで一生懸命にお誘いをして、第三回目のプリンストン会議から出て下さるようになった。まあ、共産主義国の宗教者の方々が世界の会議に出てこられるようになるのには、その因縁が熟すまでには、我々のように自由主義国にいる人にはとても理解できないようなご苦労がある。
共産主義の国々は、国の政策というものが非常に厳しい。海外へ行きたくてもなかなか自由に行くというわけにはいかない。中国もそういうことだったんですが、私が7年間もいろいろなことを言って、何回もお誘いさせて頂いておりましたら、中国政府の要人の方々が、「おまえは、随分と辛抱強く、どうしても中国の宗教者を世界の舞台に出してくれるように言ってきてくれたが、いったいどういう訳なんだか、来てよく説明をしろ」ということになりまして、説明を申し上げた。「いやあ、それじゃあ、プリンストンには代表団を送ろう」と、中国政府の方ではたいへんに快く承知をして下さった。それ以降、中国政府の宗教政策は大きく転換いたしまして、WCRPにもたいへんな理解を示して下さるようになったのであります。
みなさんご承知のように、広島と長崎にたった1発づつ落としただけで20万とか30万とかいう人が亡くなった。戦争が終って37年もたった今日でも、まだ毎年2000人もの方が核の後遺症でお亡くなりになられると伺っております。特に今年は2500人も亡くなられたと伺っております。
ところが、そういう物騒なものが当時の30万倍もできているというのです。一番たくさん核兵器を持っているのがソ連とアメリカであります。ですから、世界を核戦争にさせないためには、まずソ連とアメリカの指導者に会って、世界人類のために、どうかこういう物騒なものを使わないで頂きたいという、世界の宗教者の願いをお伝えに行きたいと私は思っているのであります。 (拍手)
7年間通ったおかげで、中国はWCRPの方にもおいで頂けるようになりました。今年の5月には、中国政府の方から「君たちWCRPの、世界平和に対する意見を聞かせてくれ」と中国政府がWCRPの幹部を招待して下さった。人間に生まれた功徳、法華経に遇いえた功徳、その功徳に報恩感謝する心で世界の平和を実現
今月はまた、ソ連の方から私に来てくれと言うんです。 (拍手)
これもですね。アメリカの前のカーター大統領には、どうしても会いたいなどと無理を言って会見した。ところが、ソ連の方は共産主義だからというようなこともあって、どうしても疎遠になっておった。まあ、ソ連の宗教者の方は、どちらかというとロシア正教が多いんですが、例の1970年の第一回世界宗教者平和会議にぜひ参加して下さいと、お誘いしたら出席して下さった。そのおかげで、京都会議には共産主義国の人も入っていたということで、世間からですね、たいへんに大きな評価を頂いたわけです。また、同じ共産主義国の中国の方は、その後ですね、私が7年がかりで一生懸命にお誘いをして、第三回目のプリンストン会議から出て下さるようになった。まあ、共産主義国の宗教者の方々が世界の会議に出てこられるようになるのには、その因縁が熟すまでには、我々のように自由主義国にいる人にはとても理解できないようなご苦労がある。
共産主義の国々は、国の政策というものが非常に厳しい。海外へ行きたくてもなかなか自由に行くというわけにはいかない。中国もそういうことだったんですが、私が7年間もいろいろなことを言って、何回もお誘いさせて頂いておりましたら、中国政府の要人の方々が、「おまえは、随分と辛抱強く、どうしても中国の宗教者を世界の舞台に出してくれるように言ってきてくれたが、いったいどういう訳なんだか、来てよく説明をしろ」ということになりまして、説明を申し上げた。「いやあ、それじゃあ、プリンストンには代表団を送ろう」と、中国政府の方ではたいへんに快く承知をして下さった。それ以降、中国政府の宗教政策は大きく転換いたしまして、WCRPにもたいへんな理解を示して下さるようになったのであります。
みなさんご承知のように、広島と長崎にたった1発づつ落としただけで20万とか30万とかいう人が亡くなった。戦争が終って37年もたった今日でも、まだ毎年2000人もの方が核の後遺症でお亡くなりになられると伺っております。特に今年は2500人も亡くなられたと伺っております。
ところが、そういう物騒なものが当時の30万倍もできているというのです。一番たくさん核兵器を持っているのがソ連とアメリカであります。ですから、世界を核戦争にさせないためには、まずソ連とアメリカの指導者に会って、世界人類のために、どうかこういう物騒なものを使わないで頂きたいという、世界の宗教者の願いをお伝えに行きたいと私は思っているのであります。 (拍手)
7年間通ったおかげで、中国はWCRPの方にもおいで頂けるようになりました。今年の5月には、中国政府の方から「君たちWCRPの、世界平和に対する意見を聞かせてくれ」と中国政府がWCRPの幹部を招待して下さった。あの人民大会堂で中国政府の要人が、「どういう考えで、どんな方法で世界平和を実現しようと考えているんだ」と質問された。ですから、この時とばかりに私共は「こういう方法で、世界のありとあらゆる宗教がみんな手をつないで、武力を使わない世界というものを作るんだ。そういう物騒なものは、もし作っても絶対に使わないという約束を核保有国の為政者にして頂こうと考えている。こういう目的のためにWCRPは一生懸命に宗教協力の努力をしているんだ」と、こうお話をしたのであります。
そうしましたら、「中国も、ソ連やアメリカほどではないけれども核兵器を持っている。けれどもあんな残酷なものは絶対に撃ってはいかん。中国は作っても使わないんだと、もう作った時すでに世界に向って約束してある」と、こういうことでありました。こういうことで中国の指導者の方々と私共との話し合いは非常にスムーズに進みまして、核兵器を使わないという点で意見が一致したのであります。
また、私共WCRPが中国から招待されて話し合ったということが、逸早くソ連の方に洩れたんだろうと思うんであります。まあ、これはどうか分かりませんよ。まあ、ソ連のブレジネフさんは偉大なる政治家でありますから、洩れたのではなくして直感したのかもしれません。いずれにしても、私共が中国政府と話し合ったその時からソ連の様子がだいぶ変わってまいりました。今回の第二回国連軍縮特別総会に、ブレジネフさんはちょっと健康を害しておりましたので、自分自身はいらっしゃらなかった。そこで自分のメッセージを発表するようにということで外務大臣を国連に派遣して、「核兵器を他国よりも先に使わない、人類の平和のために他国よりも先に使うことはしない」と、こういう宣言を出された。我々宗教者が願っていることを実現して下さるという約束を発表して下さった。ですから、今度のソ連訪問に際しては、このことについてお礼を申し上げたいと思っているのであります。
こういうようなことで、ソ連も中国もWCRPの主張にだいぶ近づいてきた。ところが、アメリカのレーガンさんはあいかわらず強がりを言ってる。世界一強い国になるんだなんて言って、一生懸命で核軍備を増強している。自由圏の方が共産圏よりも軍事的に強いんだと、こう言いたくてえらく力んでいるんです。あの人民大会堂で中国政府の要人が、「どういう考えで、どんな方法で世界平和を実現しようと考えているんだ」と質問された。ですから、この時とばかりに私共は「こういう方法で、世界のありとあらゆる宗教がみんな手をつないで、武力を使わない世界というものを作るんだ。そういう物騒なものは、もし作っても絶対に使わないという約束を核保有国の為政者にして頂こうと考えている。こういう目的のためにWCRPは一生懸命に宗教協力の努力をしているんだ」と、こうお話をしたのであります。
そうしましたら、「中国も、ソ連やアメリカほどではないけれども核兵器を持っている。けれどもあんな残酷なものは絶対に撃ってはいかん。中国は作っても使わないんだと、もう作った時すでに世界に向って約束してある」と、こういうことでありました。こういうことで中国の指導者の方々と私共との話し合いは非常にスムーズに進みまして、核兵器を使わないという点で意見が一致したのであります。
また、私共WCRPが中国から招待されて話し合ったということが、逸早くソ連の方に洩れたんだろうと思うんであります。まあ、これはどうか分かりませんよ。まあ、ソ連のブレジネフさんは偉大なる政治家でありますから、洩れたのではなくして直感したのかもしれません。いずれにしても、私共が中国政府と話し合ったその時からソ連の様子がだいぶ変わってまいりました。今回の第二回国連軍縮特別総会に、ブレジネフさんはちょっと健康を害しておりましたので、自分自身はいらっしゃらなかった。そこで自分のメッセージを発表するようにということで外務大臣を国連に派遣して、「核兵器を他国よりも先に使わない、人類の平和のために他国よりも先に使うことはしない」と、こういう宣言を出された。我々宗教者が願っていることを実現して下さるという約束を発表して下さった。ですから、今度のソ連訪問に際しては、このことについてお礼を申し上げたいと思っているのであります。
こういうようなことで、ソ連も中国もWCRPの主張にだいぶ近づいてきた。ところが、アメリカのレーガンさんはあいかわらず強がりを言ってる。世界一強い国になるんだなんて言って、一生懸命で核軍備を増強している。自由圏の方が共産圏よりも軍事的に強いんだと、こう言いたくてえらく力んでいるんです。しかし、神さまや仏さまの方からご覧になったらどうだろうかと考えると、どうもソ連の為政者の方が大人で、アメリカの為政者の方が子供臭いんじゃないかと私は思うんです。レーガンさんを子供臭いなんて言ってはたいへんに失礼になるかもしれませんけれども、しかし、これは私の考えですからそのつもりで聞いて頂きたいと思うんですが、そういう意味で、今回ソ連の指導者の方々には、そのことをしっかりとお伝えしてきたいと思っているのであります。アメリカの為政者には、プリンストン会議の時にあれほど申し上げたにもかかわらず、依然として核兵器を作って、世界一の軍事強国になるんだなんて言ってる。アメリカの方がこういう考え方ですから、「そっちが強国になるならこっちも」という考え方がソ連の方にも出てきてしまうわけです。やはり、そういうようなことであってはならない。こんな物騒な物を使ってはならないということ、これをですね、世界中の宗教家がすべての国の方々にお伝えして、人類全部をそういう気持ちにしていきますから、どうか超大国の指導者は大人になり、神さまや仏さまの御心を体してこうした物騒なものを使わないようにして頂きたい。このことをお願いしにソ連の方に行こうと思っているわけなんです。 (拍手)
幸いも向こうの方から来いということで、招待状を頂戴しておりますので張り切って行ってきたいと、こういうことなんです。
こういうことを考えますると、昔、妙佼先生を通して告げられた「佼成会が本となって世界万国に法華経が広まる」というお言葉を思い起こすのであります。世界万国が仲良くして、戦争のない世界にしようということになると、法華経が一番的確な思想であろうと思うんです。経文では、「この世の中は一仏乗であって、二もなく三もなくすべて一仏乗である。一切衆生はすべて我が子である」と仏さまが説かれておられる。その仏さまの子供同士が喧嘩したり戦争をしたり殺し合いをするということはありえないわけです。ですから、私共が法華経の思想を世界中にお伝えするということになりますれば、世界が平和になるのはもう間違いないのであります。 (拍手)
そういう意味で、私共は遭遇がたい法華経に遭遇たてまつっているということ、今この娑婆に、生まれ難い人間としてこうして生まれているということ、これはもう、たいへん大功徳なんです。そういう功徳を私共は今頂戴をしている。ですから、その功徳に報いるという報恩感謝の気持ちで、私共は世界の平和を実現しなければ申し訳がないと私は思うんです。 (拍手)しかし、神さまや仏さまの方からご覧になったらどうだろうかと考えると、どうもソ連の為政者の方が大人で、アメリカの為政者の方が子供臭いんじゃないかと私は思うんです。レーガンさんを子供臭いなんて言ってはたいへんに失礼になるかもしれませんけれども、しかし、これは私の考えですからそのつもりで聞いて頂きたいと思うんですが、そういう意味で、今回ソ連の指導者の方々には、そのことをしっかりとお伝えしてきたいと思っているのであります。アメリカの為政者には、プリンストン会議の時にあれほど申し上げたにもかかわらず、依然として核兵器を作って、世界一の軍事強国になるんだなんて言ってる。アメリカの方がこういう考え方ですから、「そっちが強国になるならこっちも」という考え方がソ連の方にも出てきてしまうわけです。やはり、そういうようなことであってはならない。こんな物騒な物を使ってはならないということ、これをですね、世界中の宗教家がすべての国の方々にお伝えして、人類全部をそういう気持ちにしていきますから、どうか超大国の指導者は大人になり、神さまや仏さまの御心を体してこうした物騒なものを使わないようにして頂きたい。このことをお願いしにソ連の方に行こうと思っているわけなんです。 (拍手)
幸いも向こうの方から来いということで、招待状を頂戴しておりますので張り切って行ってきたいと、こういうことなんです。
こういうことを考えますると、昔、妙佼先生を通して告げられた「佼成会が本となって世界万国に法華経が広まる」というお言葉を思い起こすのであります。世界万国が仲良くして、戦争のない世界にしようということになると、法華経が一番的確な思想であろうと思うんです。経文では、「この世の中は一仏乗であって、二もなく三もなくすべて一仏乗である。一切衆生はすべて我が子である」と仏さまが説かれておられる。その仏さまの子供同士が喧嘩したり戦争をしたり殺し合いをするということはありえないわけです。ですから、私共が法華経の思想を世界中にお伝えするということになりますれば、世界が平和になるのはもう間違いないのであります。 (拍手)
そういう意味で、私共は遭遇がたい法華経に遭遇たてまつっているということ、今この娑婆に、生まれ難い人間としてこうして生まれているということ、これはもう、たいへん大功徳なんです。そういう功徳を私共は今頂戴をしている。ですから、その功徳に報いるという報恩感謝の気持ちで、私共は世界の平和を実現しなければ申し訳がないと私は思うんです。 (拍手)そういう意味で、皆さま方が毎年毎年一生懸命にお導きをして下さったそのおかげさまで、今日は大聖堂だけではなくして普門館の方もいっぱいというような状態だと伺っております。そしてまた、今日は全国の各道場でもやっぱりたくさん集まっておられると思います。そういう意味で心強い限りであります。この人たちがもう一息頑張って、日本中に法華経という本当の平和思想を持った人をもっともっと増やしていく。
日本という国は、世界で一番経済もいいし、治安もいい。こんなすばらしい国は世界中どこを探してもないんです。貧しい国に住む人々と違って、そうした国に住まわせて頂いている私共には、なさねばならぬ役目というものが当然ある。それはどういう役目であるかと言うと、それはいろいろと困難をしてなさる国にできるだけのお手伝いをさせて頂くこと。発展途上国の方々に、この日本でお役に立つ物があるならばそれを持っていき、発展途上国の方々にも使って頂いて幸せになって頂く。これが、現在の日本人に課せられた最大の課題だと思うんです。 (拍手)
そういう意味で、私共佼成会会員はまず仏さまの御心を体して、多くの方々に、「善因は善果で悪因は悪果なんだから、善業を積ませて頂きましょう」と、声をかけさせて頂きまするならば、どこの国の人でも賛成して頂けると私は確信しているのであります。
もう、とにかく世界の4分の1の人口を持ったところのあの大国の中国が、私が7年通ったら今ではこうして日本の宗教事情の調査のために使節団を派遣するところまでになったのであります。
まあ、日本の仏教はもともと中国から伝わってきたものであります。いわば中国は日本仏教の本家であります。ですから、思想の根底は一つなんです。ですから、話し合いますと、すぐに理解し合えるんですね。ですから、私共はまず中国の宗教者と一緒になって、世界中が幸せになるというこの方法、この地球上に仏国土を建設するというこの大使命を共に果たして行きたいと、こう思っているのであります。そういう意味で、こうして中国の代表団の団長さんから大聖堂でお言葉を頂いたということは、これまた妙佼先生がたいへんにお喜びになっているだろうと思います。そういう意味で、皆さま方が毎年毎年一生懸命にお導きをして下さったそのおかげさまで、今日は大聖堂だけではなくして普門館の方もいっぱいというような状態だと伺っております。そしてまた、今日は全国の各道場でもやっぱりたくさん集まっておられると思います。そういう意味で心強い限りであります。この人たちがもう一息頑張って、日本中に法華経という本当の平和思想を持った人をもっともっと増やしていく。
日本という国は、世界で一番経済もいいし、治安もいい。こんなすばらしい国は世界中どこを探してもないんです。貧しい国に住む人々と違って、そうした国に住まわせて頂いている私共には、なさねばならぬ役目というものが当然ある。それはどういう役目であるかと言うと、それはいろいろと困難をしてなさる国にできるだけのお手伝いをさせて頂くこと。発展途上国の方々に、この日本でお役に立つ物があるならばそれを持っていき、発展途上国の方々にも使って頂いて幸せになって頂く。これが、現在の日本人に課せられた最大の課題だと思うんです。 (拍手)
そういう意味で、私共佼成会会員はまず仏さまの御心を体して、多くの方々に、「善因は善果で悪因は悪果なんだから、善業を積ませて頂きましょう」と、声をかけさせて頂きまするならば、どこの国の人でも賛成して頂けると私は確信しているのであります。
もう、とにかく世界の4分の1の人口を持ったところのあの大国の中国が、私が7年通ったら今ではこうして日本の宗教事情の調査のために使節団を派遣するところまでになったのであります。
まあ、日本の仏教はもともと中国から伝わってきたものであります。いわば中国は日本仏教の本家であります。ですから、思想の根底は一つなんです。ですから、話し合いますと、すぐに理解し合えるんですね。ですから、私共はまず中国の宗教者と一緒になって、世界中が幸せになるというこの方法、この地球上に仏国土を建設するというこの大使命を共に果たして行きたいと、こう思っているのであります。そういう意味で、こうして中国の代表団の団長さんから大聖堂でお言葉を頂いたということは、これまた妙佼先生がたいへんにお喜びになっているだろうと思います。どうか、多くの人に声をかけて一人が一人を導いて頂きたい。先般、私は富山県に行ってまいりまして、二人導いてまいりました。 (拍手) ですから、我が家ではすでに子供たちはすべて独立しておりますので、私と家内だけです。ですから、一人が一人を導くという役はちゃんと果たしたことになります。 (拍手) どうか、みなさま方も、まあ、会長を手本として、一人が一人を導いて頂きたい。 (拍手) 今、手をたたいて下さった方が、私が一番頼りにする方なんです、(笑) みなさま方がこの活動をして下さいますれば、仏さまが「善哉善哉」とおっしゃって、幸せにして下さるのは間違いないのであります。どうか、ますますご精進下さいますようお願いを申し上げまして、今日の説法を終りといたします。有り難うございました。
以 上
どうか、多くの人に声をかけて一人が一人を導いて頂きたい。先般、私は富山県に行ってまいりまして、二人導いてまいりました。 (拍手) ですから、我が家ではすでに子供たちはすべて独立しておりますので、私と家内だけです。ですから、一人が一人を導くという役はちゃんと果たしたことになります。 (拍手) どうか、みなさま方も、まあ、会長を手本として、一人が一人を導いて頂きたい。 (拍手) 今、手をたたいて下さった方が、私が一番頼りにする方なんです、(笑) みなさま方がこの活動をして下さいますれば、仏さまが「善哉善哉」とおっしゃって、幸せにして下さるのは間違いないのであります。どうか、ますますご精進下さいますようお願いを申し上げまして、今日の説法を終りといたします。有り難うございました。
以 上