法華三部経の要点 ◇◇96
立正佼成会会長 庭野日敬
菩薩行こそが最大の供養
実例と体験談の大切さ
薬王菩薩本事品に入ります。まえの嘱累品で法華経の「教え」は一段落しました。完結したと言ってもいいでしょう。では、それからあとの第二十三品から第二十八品まではなぜ説かれたのでしょうか。まずその意義を知っておくことが大事だと思います。
われわれ凡夫は、教えを聞いて「なるほど」と理解し、「よし、教えのとおりを実践しよう」と決心します。しかし、日がたつにつれて、ともすれば心がゆるみ、怠りがちになるものです。ですから、折に触れて教えをあらためて噛みしめ、心を励ます必要があるのです。
それについていちばん効果があるのは、信仰によって功徳を得た実例を聞くことです。それを聞くと、「あ、そうだった」「これではいけない」と心を引きしめ、信仰の思いを新しくし、精進の決意を固めるのです。わたくしどものいろいろな会合において体験説法を何より大事にしているのも、そういう理由によるものです。
法華経の第二十三品以降もそういう目的のために説かれているわけです。そこに登場する菩薩はある一つの徳を代表する方々です。お釈迦さまのようにあらゆる徳を成就しておられる方は、あまりにも完全過ぎてわれわれがまねをしようとしても途方に暮れる思いがしますが、ある一つの徳を具足した菩薩の行いならば、われわれ凡夫のちょうどよい目標となるわけです。
献身による菩薩行こそ
さて、第二十三品に登場する薬王菩薩の前世の身(一切衆生憙見菩薩)は「献身」という徳の代表です。
一切衆生憙見菩薩は、日月浄明徳如来という仏さまに仕えて法華経の真理を聞き、修行の結果高い境地に達したのですが、死後再び同じ仏さまの国土に、国王の子として生まれました。たまたまそのとき、仏さまがこの世を去られたのです。菩薩は泣く泣く仏身を火葬に付し、その仏舎利を八万四千の瓶に納め、国中にりっぱな塔を建ててそれをお祀(まつ)りしました。しかし、それでも供養が足りないと思い、自分の両腕に火をつけて燃やしました。その光明に照らされて、無数の人びとが仏道に入る発心をしましたのですが、七万二千年たってそれが燃え尽き、菩薩の両腕がなくなってしまったのです。
人びとは、自分らの導師が不自由な身になられたのを嘆き悲しみましたが、それを見た菩薩は「わたしは両の腕を捨てたけれども、その代わりに永遠不滅の身を得ることができたと信ずる」と言いました。その瞬間、両の腕はたちまち元どおりになってしまいました。
この寓話(ぐうわ)の教えは、ほぼ察しがつくでしょうが、自分の身に火をつけて燃やすというのは、つまり「法のために徹底した献身を行い、労を厭(いと)わず菩薩行を実践することこそ、仏さまへの最大の供養である」ということにほかなりません。そして、「その献身という菩薩行はけっして自分にとってマイナスとなるのではなく、その人に永遠不滅の功徳をもたらすものである」ということで、われわれ菩薩行にいそしむ者への絶大な励ましとなる真実であります。
立正佼成会会長 庭野日敬
菩薩行こそが最大の供養
実例と体験談の大切さ
薬王菩薩本事品に入ります。まえの嘱累品で法華経の「教え」は一段落しました。完結したと言ってもいいでしょう。では、それからあとの第二十三品から第二十八品まではなぜ説かれたのでしょうか。まずその意義を知っておくことが大事だと思います。
われわれ凡夫は、教えを聞いて「なるほど」と理解し、「よし、教えのとおりを実践しよう」と決心します。しかし、日がたつにつれて、ともすれば心がゆるみ、怠りがちになるものです。ですから、折に触れて教えをあらためて噛みしめ、心を励ます必要があるのです。
それについていちばん効果があるのは、信仰によって功徳を得た実例を聞くことです。それを聞くと、「あ、そうだった」「これではいけない」と心を引きしめ、信仰の思いを新しくし、精進の決意を固めるのです。わたくしどものいろいろな会合において体験説法を何より大事にしているのも、そういう理由によるものです。
法華経の第二十三品以降もそういう目的のために説かれているわけです。そこに登場する菩薩はある一つの徳を代表する方々です。お釈迦さまのようにあらゆる徳を成就しておられる方は、あまりにも完全過ぎてわれわれがまねをしようとしても途方に暮れる思いがしますが、ある一つの徳を具足した菩薩の行いならば、われわれ凡夫のちょうどよい目標となるわけです。
献身による菩薩行こそ
さて、第二十三品に登場する薬王菩薩の前世の身(一切衆生憙見菩薩)は「献身」という徳の代表です。
一切衆生憙見菩薩は、日月浄明徳如来という仏さまに仕えて法華経の真理を聞き、修行の結果高い境地に達したのですが、死後再び同じ仏さまの国土に、国王の子として生まれました。たまたまそのとき、仏さまがこの世を去られたのです。菩薩は泣く泣く仏身を火葬に付し、その仏舎利を八万四千の瓶に納め、国中にりっぱな塔を建ててそれをお祀(まつ)りしました。しかし、それでも供養が足りないと思い、自分の両腕に火をつけて燃やしました。その光明に照らされて、無数の人びとが仏道に入る発心をしましたのですが、七万二千年たってそれが燃え尽き、菩薩の両腕がなくなってしまったのです。
人びとは、自分らの導師が不自由な身になられたのを嘆き悲しみましたが、それを見た菩薩は「わたしは両の腕を捨てたけれども、その代わりに永遠不滅の身を得ることができたと信ずる」と言いました。その瞬間、両の腕はたちまち元どおりになってしまいました。
この寓話(ぐうわ)の教えは、ほぼ察しがつくでしょうが、自分の身に火をつけて燃やすというのは、つまり「法のために徹底した献身を行い、労を厭(いと)わず菩薩行を実践することこそ、仏さまへの最大の供養である」ということにほかなりません。そして、「その献身という菩薩行はけっして自分にとってマイナスとなるのではなく、その人に永遠不滅の功徳をもたらすものである」ということで、われわれ菩薩行にいそしむ者への絶大な励ましとなる真実であります。