法華三部経の要点 ◇◇85
立正佼成会会長 庭野日敬
入会したらすぐ布教者に
感動あってこそ進歩がある
隨喜功徳品に入ります。隨喜というのは、教えを聞いて感激し、歓喜し、心の底から「ああ、ありがたい」と思うことです。この感動こそが信仰の出発点でもあり、また究極のゴールでもあって、信仰は感動に始まって感動に極まると言ってもいいでしょう。
実生活においても、感動することのない人は、おおむね向上の意欲に欠け、広い意味での成功のきっかけをつかむことの少ない人です。また「ありがたい」と感ずることの少ない人は、たいてい心が狭く、利己的で、ひとに嫌われて寂しい一生を送る傾向が多分にあります。
反対に、何事につけても「ありがたい」「ありがたい」と言い言いして暮らす人は、それだけでも幸せな人であり、境遇はどうあろうとも、心豊かな一生を送る人なのです。江戸末期の国学者橘曙覧(たちばなのあけみ)の歌に「たのしみは朝おきいでて昨日まで無(なか)りし花の咲ける見るとき」とか「たのしみはまれに魚(うお)煮て児等(こら)皆がうましうましといひて食う時」などというのがあります。日常の何でもないようなものごとにも楽しみを覚え、ありがたいと感じる人の典型ともいうべきでしょう。お互いさま、こうありたいものです。
まず「教え」に触れること
さて、隨喜功徳品の要点は「五十展転」の法門に尽きると言っていいでしょう。お釈迦さまはこうお説きになっておられます。
「もしある人が説法の座で法華経の教えを聞いて『ああ、ありがたい』という喜びを覚え、他のだれかに、自分の力でできる程度でいいから、いま聞いたばかりの話をしてあげたとしよう。それを聞いた人もまた同じような隨喜の心を起こし、同じように他の人に伝えたとしよう。こうして五十回も転々と伝えられたとして、その五十番目の人も『ああ、ありがたい』という感動を覚えたとしたら、その五十番目の人の得る功徳は、大富豪が一生のあいだあらゆる布施を行ったために得る功徳に、はるかに勝る価値があるのである。ましてや、最初に説法の座でこの教えを聞いて他の人に伝えた人の功徳となると、まことに無量無辺なのである」と。
立正佼成会において、「今日入会したら、明日から布教者になりなさい」と説き、創設以来それが実践されている根拠は、じつにここにあるのです。そして、実際に無量無辺の功徳としての救いが実現しているのです。
つぎに、隨喜にまでは至らなくても、説法の座でほんの少しの間この法華経の教えを聞いただけでも、その功徳は大きく、また、説法会であとから来た人に、身をずらして座らせてあげただけでも、その功徳はじつに大きいのだ……と説かれています。
これらはつまり、「縁」というものの大切さを言ってあるのです。われわれはすべて仏性を持っているのですが、縁あってその仏性が目を覚まさなければ、救いに達することができません。ですから、何よりもまず教えに触れることが大事なのです。
われわれは幸いにしてその縁に触れることができました。そのありがたさを一人でも多くの人に分けて差し上げなければ仏さまに申し訳ないのです。この品の結論はそこにあると知るべきでしょう。